第九章 - Ⅱ

 いつの間にかダイニングへと姿を現したクレインが、少しだけ面白くなさそうな表情で腕を組む。昨晩帰った段階でシャワーを浴びたためか、今の服装は初めて会ったときに身に纏っていた純白のワンピースドレスだ。

「戻っていたのか、クレイン」

「こう暑いと、外を歩いていても気分転換にもならないわ。全く、どうして人間の世界はこんなに暑いのかしら」

 冷房の効いた室内に入った途端、落ちついたように息をつくクレイン。先ほどの会話が聞こえていたのか、ホノカのことを睨むように見つめている。

「それより、私が委縮していたなんて聞き捨てならないわね」

「事実だろう。アミナに指摘された通り、お前の膝は震えていた。相手が相手だ、潜在的な恐怖を感じるのは理解できるが」

「そんなことはないわ。アミナが言ったのはただのブラフ、私は恐怖なんて感じていない……と、言えればよかったのだけれど、確かに私は怖かったのかもしれないわ。悔しいけれど、認めざるを得ないわね」

 小さく息をついたクレインは、僕とホノカの傍にあったソファに座る。腕と足を組んではいるものの、その表情には不安と後悔が垣間見えたような気がした。

「珍しいな、お前がそんな弱音を吐くなんて」

「私だって気丈に振舞えるものなら振舞いたいわ。ただ、ディカリアの連中は強い。生徒会長にも、アミナにも、及ばないのかもしれない。そう考えるとどうしてもね」

 クレインらしくない。そんな感想は、僕自身も抱いていた。ともあれ、連日の戦闘で疲弊しているクレインが弱気になるのも無理はない。心配になった僕は、すでに答えが決まり切っているとしても、クレインに問いかけた。

「クレイン、えっと、ホノカにも話したんだけどさ……今日の夜、高校に行くの?」

 高校、と聞いて、クレインの肩がぴくりと動いた。

「ええ。もちろん罠でしょうけれど、今日こそアミナと決着をつけるわ。ホノカも、当然行くわよね」

「ああ、そのつもりだが。お前、身体は大丈夫なのか? この数日間、戦い続きで……」

 ホノカも僕と同じ懸念を抱いていた様子だ。クレインの弱気な発言も、もしかするとここ最近の疲弊に通じているのではないか。そう思っても不思議ではない。

「心配には及ばないわ。逆に、遂にお姉ちゃんの仇が討てると思うと清々しい気分よ。今日の夜、少しでも暗くなったら――っ、あッ……」

 ソファから立ち上がったクレインが、ふらりとその場に倒れそうになる。寸でのところで反応したホノカに支えられたが、その顔色はあまり良くない。

「クレイン! だから身体は大丈夫かと訊いただろう。もういい、今夜は私ひとりで――」

「っ、ふざけないで! 私は這ってでも行くわ、例え誰に止められたって……」

「そんな状態で奴らの相手をしても、返り討ちにされるだけだ。お前の復讐心はよく分かる。だが、このままでは犬死するぞ!」

 肺の奥から全ての空気を絞り出すようなふたりの言い合いは、クレインの身体がホノカによって再びソファに横たえられて終焉を迎えた。復讐心、という言葉は、ササコ先輩がクレインに向けて放ったもの。

 ここまでクレインを突き動かしていたのは、ほかならぬ復讐心のはず。けれど、全力で戦って、傷を負い、敵わず、こうして疲弊をし切ったクレインの身体と心には、彼女の強烈な復讐心を受け入れる余裕がない。そう感じた。

「犬死、ね。それも私の未来なのかもしれない。当然、そうはなりたくないけれど。でも、戦うしかない。お姉ちゃんの仇を討つには、戦わなくちゃいけない。戦って、勝つしかない。そうでしょう?」

「っ、それは……」

 残酷なジレンマだ。強大な敵を目の前にして、戦って敗北しても、戦わずに逃げても、クレインの願望は当然満たされない。「戦って勝つこと」だけが、彼女に残された唯一の道。

 それをホノカも理解している。数で不利を取られ、更に相手が強力なことが分かり切っている上で戦いを挑む。端から見れば無謀な感覚。ホノカは悔しそうに拳を握った。

「クレイン、これだけは言っておく。今のお前では、奴らには敵わない。当然、私もな。だから、今夜戦いを挑むことになってもお前の全力が出せるよう、せめて今は眠っておくんだな」

「ホノカ……ふん、言われなくても分かってるわよ。痛いくらいにね――っ、ん」

 クレインは、薄っすらと開いた瞼をゆっくりと落としていった。彼女の意識が闇の中に落ちていくまでに、それほど時間は掛からなかった。数分もしないうちに、小さな寝息が耳朶を打つ。

 それを確認したホノカは、僕に向かって真剣な眼差しを投げた。

「タカト、君の心配もよく分かる。実際、私も同じ気持ちだ。だが、私たちは行くしかない。君の命を危険に晒そうと、ディカリアの排除には向かわねばならない。だから、私たちの身に何が起こってもいいように、今はクレインの傍にいてやってくれ。私がここにいると、クレインに何を言ってしまうか分かったものじゃないからな」

 その場に立ち上がり、眠ったクレインの真っ白な髪を撫でるホノカ。懐かしい夢でも見ているように、クレインは微かに口元を緩ませた。

「うん、分かった。ホノカはどうするの?」

「私も夜まで休むつもりだ。上の部屋にいるから、何かあったら呼んでくれ」

 闇さえも飲み込みそうな漆黒の髪を翻し、ホノカは階段を登っていく。足音が遠のくと共に、クレインと部屋にふたりきりというこの状況を少しずつ理解していった。

 

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