第一章 - Ⅷ
――遥か遠くから、風を切るような音が響く。
「ギッ!?」
醜い雄叫びを上げ、唐突に苦しみだしたヒドゥン。よく見ると、ヒドゥンの右目に矢のようなものが突き刺さっている。そこから真っ黒に近いような血が吹き散らかる。明らかに動揺した様子だ。
「……トンネルの外からね」
額の汗を拭いつつ、動きの止まったヒドゥンを睨みながらクレインが呟いた。
「もしかして、執行兵?」
「可能性はあるわね。弓矢のヴァリアヴル・ウェポンを使う執行兵もいるわ」
何はともあれ、ヒドゥンの行動を制限することができた。どくどくと流れ出し、アスファルトを黒く染める血。クレインはもう一度、アマトを握り直す。
「どっちにしろ好都合よ。確実に殺してあげるわ」
白い閃光となってヒドゥンへと駆けるクレイン。途中、ヒドゥンは果敢にもクレインに挑んだ。しかし、焦点の定まらない目ではクレインの突進を制御することはできない。鮮やかに爪の攻撃を躱したクレイン。そのまま左手のアマトをヒドゥンの脳天に振り下ろす。鈍い音の残響。更に動きの鈍ったヒドゥンに、とどめの一撃を放つ。
「終わり、よッ!」
赤い光も指し示す通り、硬質の皮膚に覆われていない唯一の部分。先ほど放たれた矢も狙っていたように、それはヒドゥンの目だ。アマトの刺突は、ヒドゥンの左目を深々と穿った。
「ギ……ィ」
ヒドゥンの脳にまで達しそうなほどの攻撃。小さな叫びと共に、昨夜のグルタ型同様、ヒドゥンは光の粒となって消え失せた――。
「クレイン、大丈夫?」
ヒドゥンとの戦闘を終え、アマトを腕輪へと変化させたクレインの元に駆け寄る。
「ええ。せっかくの制服が台無しだけど、確か予備があったはずだから問題ないわね。それよりも……」
クレインが見据えたのは、先程音が聞こえたトンネルの外部。そこにいるはずの執行兵の姿を確認するため、彼女は一旦トンネルの外へと足を向けた。僕もそれに倣う。
「いるのでしょう? 出てきなさい」
クレインの呼び掛けに応じる形で、目の前の茂みが動く。
「――やはりあなたでしたか、クレイン」
ショートヘアを揺らしながら、僕とクレインの前に姿を現した少女。眠そうな瞳に人形を思わせる顔立ち。着用している制服はクレインやミオリと同じ物。つまりうちの学校の生徒だ。
何よりも目を引いたのが、彼女が持つ大型の弓。よく見ると何本かの矢も携えている。先ほどの風切音の正体……彼女が弓矢の形のヴァリアヴル・ウェポンでヒドゥンの右目を正確に撃ち抜いた。これで、彼女も執行兵だと確信が持てた。
「誰かと思えばヒメノじゃない。今日は同僚とよく会うわね」
ヒメノ、と呼ばれた少女は、顔色を一切変えない。同じ高校に、果たして彼女がいただろうか。
そして、恐らくクレインが探しているという執行兵はヒメノではない。アマトを生成しないところからも、クレインから明確な殺意を感じないところからも見て取れる。
「お久しぶりです。そちらの人間は?」
ぎろり、とヒメノの鋭い視線で射抜かれる。まるで蛇に睨まれた蛙だ。身動きひとつとれない。
「別に誰でもいいじゃない。ちょっとヒドゥンに襲われやすいだけの、ただの人間よ」
「そのただの人間に、私たちの機密が明かされていることは、大問題なのではないですか?」
「構わないわ。この人間は、私の目的を果たすために必要なの」
「目的……? それは、私たちの規則よりも重要なことなのですか?」
そう。クレインの目的の重要性を、僕はおろかミオリを始めとした執行兵すらも知らない。クレインは大きく息をついた。
「重要よ。だから、ヒメノ。あなたもこの人間を殺そうなんて思わないことね」
ヒメノの狩人のような視線が若干細まり、僕をジッと観察する。
「そうですか。あなたが彼の記憶を操作していることも、私たちの記憶の抹消を放棄していることも分かりました」
「え、今の間に……?」
思わず漏れた声。ミオリとはまるで違う。感情ではなく、理論で動くタイプだ。執行兵の規則にも、きっと従順。僕を殺しに来る。
しかし、返ってきたのは予想外の答えだった。
「それが規則違反とはいえ、今彼を殺すのは優先順位に反します。執行兵に与えられた最優先事項は、ヒドゥンの排除と「ディカリア」の殲滅です」
またも聞き慣れない単語に惑う僕。当然だ。その名は、執行兵であるクレインですら分からなかったのだから。
「何よ、そのディカリアって」
「ご存知ないのですか?」
「初めて聞いたわ。新しいヒドゥンの型かしら」
ヒメノは僅かに瞳を伏せた。
「まあ、そう思ってくれても構わないかと。ともあれ、ディカリアは必ず近いうちに姿を現します。それと、クレイン」
ヒメノの雰囲気がまたもや変わった。クレインとヒメノの視線が交差する。背のそれほど高くないヒメノは、クレインを見上げるように。
「忠告はしておきます。人間の世界で、己の目的を果たせると思わない方がいいですよ。どんな目的かは知りませんが、必ず人間を巻き込むことになる。もうすでに被害者が出てしまっているようですが」
「タカト……この人間は被害者じゃない。ただの餌よ。ヒドゥンを誘き寄せるためのね」
「ヒドゥンの排除は優先事項のひとつなので、必ずしも間違っているとは言えませんが、感心しない方法ですね。人間に現を抜かすようなあなたではないでしょう、クレイン」
「あなたには関係のないことよ。とにかく、私の邪魔をするなら許さない。行くわよ、タカ――」
一刻も早くこの場を離れたかったのか、クレインは僕の手を引いてヒメノから遠ざかろうとした。そのとき。
「――「ホノカ」なら、もうすぐこちらの世界に現れますよ。こちらへ派遣される前、クレインが頻りに恨んでいたホノカは」
そのときのクレインの顔が、酷く青ざめていたのは印象的だった。ヒメノに背を向けていた僕とクレインは、ほぼ同時に振り返った。そこに、ヒメノの姿はない。
「……ホノカ」
夕暮れに落ちる自分の影を見据えながら、クレインは小さく呟いた。
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