第一章 - Ⅲ
目覚まし時計よりも少し早めに目が覚める。午前六時過ぎ、高校の始業時刻まで二時間半ほど。まだゆっくり朝食を取る時間がある。
ベッドから起き上がって軽く身体を伸ばすと、不意に、枕元の銀色の髪に目を奪われた。
「……んんっ」
クレインは、未だに目を覚まさない。僕に背を向ける格好で寝ていたので、そのままでは表情が覗えないが、調子に乗ると本当に命が危うそうだ。
でも、好奇心には勝てなかった。ベッドから降りて、クレインの方へと回る。少々あどけなさを残す、彼女の顔。髪と同色の長い睫毛がぴたりと閉じられ、規則正しく控えめな胸が上下している。起こすのは悪いし、とその場を後にしようとしたとき。
「――ん、タカト……?」
深い海のように青い瞳を薄っすらと開きながら、クレインが小さく僕の名を呟いた。
「おっ、おはよう」
寝顔を見ていたことがバレたか、と少し身構えるも、彼女は手をついて上半身だけを起こした。肩から零れ落ちた綺麗な髪には癖ひとつないが、彼女の表情は未だに眠そうだ。
「おはよう。んんー……私、朝は弱いのよ……」
「まだ時間あるから、もう少し寝てても大丈夫だよ」
「いいえ、私も起きるわ。可能な限りあなたと同じ生活を送らなくてはならないから」
僕と同じようにベッドから抜け出すと、眠っている最中についた僅かな皺を伸ばした。改めて彼女の制服姿を見ると、今日から同じ高校に通うのだと再確認できた。
「じゃあ、母さんが朝食を作ってあるはずだから先に下に行っててよ。僕は着替えてから行くから」
「分かったわ」
こくりと頷いたクレインは、昨夜に脱いだブレザーとリボンを持って下へと降りて行った。もう一度軽く身体を伸ばして、制服を着用する。昨日の戦闘の後に付着した赤黒い血液は、既に消えていた。
「ヒドゥンと執行兵、か……」
未だに頭が混乱しているが、今はクレインの言葉に従うしかない。
制服に着替え、荷物も準備した僕は、クレインと共に朝食を摂った。父も母も朝は早いので、家には僕たちしかいない。玄関の鍵を閉め、傍らのクレインの存在を確認してから、高校までの通学路を歩み始めた。
道行く学生、或いはサラリーマンや主婦、お年寄り。こぞって、クレインに目を奪われていたのは言うまでもない。
「目立つのは避けたいのだけれど、仕方がないわね。ここにいる人間すべての記憶を操作するのは面倒だし」
涼し気な顔でローファーを鳴らすクレイン。一緒に歩いている僕の身にもなって欲しいが、別にクレインが悪いわけではないのだから気にしないことにした。
「人間は気になるものにすぐ視線を向けたがるんだから。ああ、私もこの世界ではそうしないと駄目だったわね」
「クレインたちの掟って、そんなに重要なの?」
「当たり前よ。私たちは人間の領域を侵してはならない。あくまでもヒドゥンを狩るだけ」
外ということもあってか、彼女は「ヒドゥン」と喋る際に少しだけ声のトーンを落とした。
「……僕の生活領域は侵されまくってると思うんだけど」
「何か言ったかしら?」
クレインが冷めた笑みを浮かべた。その青い瞳は、一ミリも笑っていなかったが。そして、右手の腕輪を掲げる。太陽に照らされ、僕の目に光が飛び込んできた。
これ以上何か言ったら串刺しだ。僕が大きく息を吐き出そうとしたとき。
「タカト、おっはよー……え?」
例のごとく現れたバイトの同僚、山鳥ミオリ。元気なポニーテールを揺らしつつ、僕へ近づく。と、当然のことながら傍らのクレインの存在に気付いた。適当に遠い親戚の子と言っておけば、何とかはぐらかせるだろうか。
「あ、ああミオリ。紹介するよ。この子は……――」
しかし。僕が説明をする前に、開いた口を塞ぐことができないくらいミオリは目を見開いていた。僕など眼中にないように。クレインはというと、ミオリに背中を向けたままその場で立ち止まる。続けて僕に確認のような言葉を投げた。
「ミオリ? タカト、今ミオリって言ったの?」
「そ、そうだけど」
すると。ミオリに向き直ったクレインが、ころころと鈴を転がしたような声で笑った。
「あら、来てたのね。お元気そうで」
「クー、ちゃん?」
全く涼しい顔を崩さないクレインと、驚愕に打ち震えているミオリ。
百八十度違うふたりの対比を、道行く人もただ眺めていた。僕はといえば、初めて会ったはずのふたりがどうしてお互いを認識しているのか、疑問符が消えることはなかった。
「あなたも同じ高校に通っているみたいだけど、タカトとはどういう関係なの?」
「そ、そんなのクーちゃんには関係ない! っていうか、ここだと目立つし……また改めて話さない? 私、気持ちの整理をしたいから。それと、タカト!」
クレインから視線を外したミオリが、僕にずいっと近づいてきた。
「み、ミオリ?」
「昼休み、特別棟の屋上に来て。ちょっと話があるから」
この場にクレインがいなければ、もしかすると告白の流れなのかもしれない。だがこれだけクレインとの関係性を匂わされてしまうと、九割九分九厘クレインの話といっても決して言い過ぎではなさそうだ。それに指定された場所は特別棟の屋上。昼休み中、生徒は疎か教員でさえもあまり立ち寄らない場所。
「分かったよ。クレインは……いない方がいいよね」
小さい声で耳打ちすると、ミオリはさも当たり前というようにこくりと頷いた。
「突然ですが、本日から皆さんと共に学習をすることになる転校生を紹介します。それでは――」
朝のHR。先程のミオリの話を未だに引き摺っている僕は、担任教師のそんな声でハッと我に返った。綺麗な銀髪を揺らしながら、教壇へと降り立った少女。つい何時間か前まで、彼女と同じベッドで眠っていたなんて信じられない。
「
にっこりと微笑んで見せたクレイン。僕を除いたクラスの男子生徒たちはそんな視線に射抜かれ、一瞬で見惚れていた。鶴見という苗字は初めて聞いたが、こちらの世界の住人でないクレインが苗字を持っているとは考えにくい。これも僕たちに擬態するためなのだろうか。
「鶴見さんは竹谷くんの遠い親戚ということで、わけあって越してきたそうです。皆さん、鶴見さんはまだまだ分からないことが多いと思いますので、色々と相談に乗ってあげてくださいね」
担任はあくまでも義務的に伝えたが、そんな一言は、僕にクラス中の視線を集めるには十分な効力を持っていた。
「おいタカト、鶴見さんと親戚ってどういうことだぁ?」
「羨ましすぎっぞ紹介しろ!」
男子たちの怒声にも似た声が飛び交う。しばらくはこんな状態が続くんだろうなぁと頭を掻いていると、上靴を鳴らしながらクレインがこちらへ近づいてきた。僕の隣の席に座ると、満面の、しかし何処となく含みを持たせたような瞳で、笑う。
「よろしく、タカト」
家でも一緒、学校でも一緒ということで、少なくともヒドゥンに襲われる心配はない。だが、僕を睨むクラスメイトの視線が一際凶暴になったのはいうまでもない。
クレインの授業へ対しての姿勢は「真面目」の一言に尽きる。
座学はもちろんのこと、体育の授業でも他の生徒の追随を許さないほどの成績を収め、早くもクラスの中では注目の的となった。その容姿だけでも人を惹きつけるのに、勉強や運動までこなせるのだから、彼女の前から人だかりが消えることはなかった。
クラスメイトの質問攻めに対しても真摯に向き合い、むしろその姿勢を我が家でも見せてくれればとも思ったが、クレインと同居をしていること自体が在り得ないことなのだと改めて自覚した。
そんなこんなで、昼休みはあっという間に訪れた。四限目の終了を告げるチャイムが鳴り響くと同時に、弁当箱を持った男女がクレインの周りを取り囲み、人垣を形成する。
「鶴見さん、一緒にお昼食べよー!」
「ちょっと、鶴見さんは私と食べるの!」
「女子ばっかりずるいぞ、俺らも俺らも!!」
終始涼しい顔をしていたクレインも、さすがにこれには堪えたようだ。
「ちょッ、私はひとりしかいないんだから」
眉根を寄せながら慌てる様子も、何処となく新鮮だ。一瞬だけ、彼女がちらりと視線を送った気がしたが、ミオリとの約束があった僕はその場で立ち上がった。クレイン抜きで話をするには、人垣でクレインが動けない今がチャンスだ。心の中でクレインに謝りつつ、僕はそそくさと屋上へ向かった。
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