プロローグ - Ⅲ

 誰かの声が、クリアに響いた。

「え……」

 身体の緊張が解け、ようやく振り返って、その瞬間、目を見開く。

 間違いない。昨日見たものとは違い、脳天にぼんやりとした赤い光が見えるが、本質は同じ得体の知れない何か。

 そして、その怪物と対峙しているひとりの少女。夜の帳が降りきった闇の中でも、彼女の存在は、眩しく輝いている。

 後ろ姿しかうかがえないが、癖ひとつない白銀の髪、一点の濁りもない肌、纏う純白のドレスワンピース。何より、両方の手首で煌めく一対の腕輪が印象的だった。

「天、使……」

 零れた言葉は、彼女の耳に入ったらしかった。

 初めて、目が合った。深い青色の瞳が、僕を捉えて離さない。僕自身も、彼女の顔から目を離すことができない。驚くほど整った顔立ちと、何処か冷ややかな視線。その小さな口が、ゆっくりと開く。

「そこの人間、死にたくなかったら逃げた方がいいわ。まあ、殺させはしないけど」

 滑らかで、どこまでも透き通るような声。僕はそれにすら魅了された。得体の知れない何かは突然の乱入に困惑した様子だったが、目の前の少女が敵であると認識したのか再び爪を振り上げた。

 少女は、溜息をつく。

「これが馬鹿のひとつ覚えってヤツなのかしら。なら、せめて安らかに死になさい」

 少女が右腕を突き出すとほぼ同時に、装着されていた銀色の腕輪がしゃらんと金属音を鳴らした。

 と、そのとき。一瞬の出来事という言葉が、これほど似合う状況も珍しい。

「――アマト。仕留めるわよ」

 彼女の短い言葉と共に両腕の腕輪が光を放ったかと思うと、瞬時に一対の武器と化した。細身だが、フェンシングのレイピアほどではない。ファンタジーの世界に登場する騎兵槍ランスを彷彿とさせる。夜の空に映える、彼女の髪と同じ白銀の色。

「ウ、ガ……アァッ!!!」

 今まさしく、彼女を引き裂かんとする爪。その軌道を全て把握しているかのような身のこなしで、少女は半身に避ける。アスファルトに亀裂が走るほどの痛烈な攻撃。が、少女は小さく大地を蹴って衝撃を回避する。

「終わりよ、「ヒドゥン」。あの世で会えるといいわね」

 彼女の口元が、微かに笑みを浮かべた。間髪入れずに左腕の槍を一閃、得体の知れない何かの首を貫く。喉を潰され、満足に声さえ出せない怪物は、目玉が飛び出るほど見開いて、その槍をなんとか抜こうともがいている。

 だが、少女は小さく、そして冷たく言い捨てる。

「無駄な努力よ。往生際が悪いわね……焦らなくても、ちゃんと殺してあげるのに」

 右手の槍を、くるりと逆手に持ち替えた。首に突き刺さった左手の槍で固定され、曝け出された怪物の頭部。


 ――少女は、赤い光が見える奴の脳天へと、右手の槍を突き刺した。


 今まで聞いたどんな声よりも醜い、得体の知れない何かの、断末魔。


 素早く距離を取り、自らの放った攻撃の成果を確認すべく、様子を覗う少女。怪物は四肢の先端から少しずつ淡い光の粒となり、さらさらと空中へ舞って跡形もなく消える。

 あの巨体の最期は、信じられないほどあっさりとしたものだった。

 口を開いたまま、立ち尽くす僕。何が起こったのか、そもそも今、目の前で起こったことは現実なのか、それすらも分からずにいた。少し気を抜けばその場に膝をついてしまいそうなくらいだ。

「あら、逃げてなかったのね」

 そのとき。少女がこちらにくるりと向き直り、言葉を投げた。手に持った武器は、そのままに。得体の知れない何かの物であろう黒い血液が、槍の先端から零れている。

「う、ん。ありがとう、助けてくれて」

 気づけば、彼女に対しての感謝を口にしていた。が、その顔が明らかに曇ったのを、僕は見逃さなかった。

「ありがとう? どうして、貴方に感謝をされなければならないの? 私は私の任務を遂行しただけなのに……ああ、そうね」

 少女との距離は、それほど近くはなかったはず。でも、彼女の槍が届くには十分すぎた。

 瞬間、僕の首筋に突きつけられた槍。まとわりついていた怪物の血液が二、三滴飛んで、制服に赤黒く滲む。

「え、どういう……」

「人間は知らないのよね。私たちの存在も、奴らの存在も。なら、当然口封じをしなくちゃ。人間を殺すのは始めてだから、どんな声で鳴くのか楽しみ」

 さらりと告げられた言葉は、僕に対する殺害予告。

「ちょ、ちょっと待って!」

「待つ? そんな選択肢はないわ。ここに存在してしまった事を後悔しながら死になさい」

 先程の戦闘がフラッシュバックする。この槍で一突きされようものなら、間違いなくこの世から去ってしまう。それだけはなんとか阻止しなければならないが、彼女の青い瞳は本気だ。槍が構え直され、今にも僕を串刺しにしようとばかりに輝く先端。駄目だ、と諦めかけた。

 しかし。

「――と、思ったけど、やめるわ。二日連続で「ヒドゥン」に襲われる人間なんて例がないし、サンプルとしては優秀。殺すのは惜しいわね」

 僕をまるで人間扱いしていない口調はともかく、殺されずに済む安堵に震えた。先ほどの戦闘といい、二度の死の危機を乗り越えるとさすがに疲れが出てくる。

「よ、かった……」

「勘違いしないで」

 槍の代わりに、彼女の鋭い視線と冷たい声が同時に突き刺さった。

「あくまでもサンプルとして生かしているだけ。その辺の実験動物……こっちではモルモットというのかしら、それと大差ないんだから。重要機密を漏らされる可能性があるから、モルモットより使えないかもしれないけれど」

 僕の評価はモルモット以下か、と落胆する。見た目の美しさからは想像できないほどの毒舌。逆に感心さえ覚える。

「今日のことは口外禁止。誰かに話したら、その瞬間に殺すわ。覚悟しておきなさい」

 彼女の瞳は笑っていない。冗談などではなく、約束を破ったら確実に僕を葬り去ろうとしている目だ。あの得体の知れない何かと同じにはなりたくない。

「分かった。言わないよ」

「それでいいわ。ねえ、人間。シャワーを浴びたいのだけれど、この辺りにない?」

 突然の話題転換に、心臓が跳ねる。銭湯といってもこの辺りにはないし、近所のネットカフェにもシャワーは併設されていなかったはず。

 となれば、下心丸出しを覚悟で言うしかない。

「ええっと、僕の家でよければ」

「いいわ。他に選択肢がないのなら」

「えっ――」

 あっさりと承諾を得てしまい、逆にこちらが驚かされた。思わず変な声が出る。

「何を呆けてるの、人間。あなたが言い出したんでしょう?」

「いや……確かにそうだけどさ。そんなに簡単に決めちゃっていいの?」

「いいのよ。どうせ今の私には戻るところもないんだし」

 さらりととんでもないことを言い出したように思えたが、確かに今の彼女には戦闘の痕、純白のワンピースのところどころに血液が付着していた。怪我はないようだが、このままというわけにもいかない。

「じゃあ、とりあえずこっち。っと、そうだ。僕は竹谷タカト。君の名前、訊いてなかったよね」

 細い路地を通ろうとしたところで、今まで何の躊躇いもなく話していた彼女の名を知らないことに気がつく。問いかけると、武器である両手の槍が、あの特徴的な光を纏って徐々に短くなり、最終的に元の腕輪へと戻る。少女は、僕を真っ直ぐに見つめた。

 雲の隙間から零れた月光が、彼女を照らす。


「――私は、クレイン」


 これが、長い戦いの幕開け。僕とクレインの、出会いだった。

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