プロローグ - Ⅱ

「ん、う――?」

 目を開けると、見慣れた天井が視界に映った。自分の部屋だ、と理解するまでそう時間はかからなかった。

「昨日、何してたんだっけ」

 寝惚け眼を擦りながら、脳内に残る映像を再生しようと必死に思考を巡らせるも、満足のいく答えは出ない。そもそもこうしてベッドでちゃんと休んでいることすら疑ってしまいそうだったが、少なくとも昨日の自分はいつものような生活を送ったのだろうと思い直す。

「……でも」

 不自然なほどリアルな夢だった。僕は確かに、あの夢の中で得体の知れない何かに追われ、誰かに助けられた。助けられて、そのあとどうなったのかは分からない。何か会話をしたか、戦いの決着は付いたのか。気づけばいつものような朝を迎えているのだから、関係はないのかもしれない。

 今日は水曜日。当然のごとく登校日だ。夢の余韻もほどほどに、僕は朝の支度を始めた。


「タカト、おはよ!」

 自宅から出て数歩歩いたところで、後ろから肩をぽんと叩かれた。春先の穏やかな風に、明るいブラウンのポニーテールが揺れる。その笑顔は、きっと太陽にも負けていない。

「おはよう、ミオリ」

「タカトは相変わらず元気ないねぇ。そんなんじゃ、放課後まで保たないよ?」

 彼女が僕の目の前に躍り出ると共に、制服のリボンも元気よく揺れた。

 山鳥やまどりミオリ。同級生の女の子。見ての通り快活で、友達も多い。たまたまバイト先が同じだったというだけでこうして会話できているけど、そうでなければまるで無縁の存在だったに違いない。一か月前、高校に入学してから初めてできた友達、といってもいいのかもしれない。

 彼女に対して、思わず苦笑を返していた。

「放課後どころか、一限すら保つか怪しいんだけど」

「確かに。今日のタカト、すっごく眠そうだもん。昨日、バイトの後に寄り道でもしてたんじゃないの?」

「寄り道なんかしてる暇があったら家に帰るよ」

「そーですかそーですか、さっすが優等生のタカトくん」

 実際には夢の影響なのか、身体の節々すら痛みを覚えているくらいだった。バイト先から家まで本当にまっすぐ帰ったのか。それすらも怪しい。

「まーまー、とにかくまずは授業だね。今日はバイトもないし、まったり行こうっ!」

 まったりと言いながらも早足で通学路を歩くミオリ。普段はブラウスの襟でよく見えないが、彼女の首に巻かれた黒いチョーカーのようなものが、今日は特に目についた。彼女のトレードマークといえば聞こえはいいが、理由は分からない。

 ともあれ、いつものように僕とミオリは高校への道を歩いた。


「タカトさ、なんかずっとボーっとしてるけど、ホントは寄り道してたんじゃないの?」

 高校の正門が見えてきた辺りで、唐突にミオリが僕の顔を覗き込んだ。近い、と思ったときにはもう遅い。彼女の整った顔立ちが、否が応でも視界に入る。

「ボーっとなんてしてないよ、うん。してないつもり」

 もちろん嘘だ。ミオリの話など微塵も頭に入ってきていない。朝起きてから今この瞬間まで、僕はあの夢に支配されている。僕はいったい何に追われ、誰に助けられたのか。それを思い出せないもどかしさが募る。

「ううん、してるね。今日は特に。他の人は騙せても、私はそうはいかないよ」

 得意気に胸を張るミオリ。クラスは違うが、バイトが一緒だと自然とお互いのことが分かるものだ。その辺り、ミオリは自信を持っているらしい。

「まあ、ミオリに言っても信じてもらえなさそうだし」

「えーっ、余計に気になるんだけど! こうなったら意地でも訊き出し……あ、生徒会長さん」

 ミオリが会話を切って正門へと目を向けると、そこには上級生たちが朝の挨拶をするために立っていた。その中でも一際目立つのが、赤い腕章を付けた生徒会長、哀原あいはらササコ先輩だ。落ち着いた色の髪と、大人びた雰囲気。何より美人。他の上級生とは一線を画すその様相に思わず僕は目を奪われてしまう。

 不意に、ササコ先輩がこちらに気づいた。彼女と交わし合う視線。ほんの一瞬だけその口元が緩み、まるで僕に笑いかけているように映る。

「おはようございます」

 先輩の挨拶で我に返った。彼女の視線は、既に僕以外の誰かに向いている。

「あー、タカト。生徒会長さんのこと見てニヤニヤしてる」

「し、してないよ!」

 ミオリにたしなめられてしまったが、あの笑顔は間違いなく僕に向けられたものだ。そう思うと、今日も一日頑張ろうというやる気が湧いてくる。先輩と話せない名残惜しさは残るが、正門をくぐって教室へと歩みを進めた。


 哀原先輩効果もあってか、その日の授業も滞りなく終了し、僕は帰路に就いた。

 日直の仕事で普段よりもかなり遅い帰宅になってしまったが、両親共働きの我が家の明かりは未だに灯っていないだろうと想像する。

 そこで、とある路地へと出た。両脇が分厚いコンクリートブロックで固められた、人がふたり通れるか通れないかくらいの道。どこか見覚えがあった。

 そういえば、昨日はここを通って家に帰った。バイト帰りに見つけ、近道だと思って通って、それから?

「あれ?」

 まるで、その部分だけ記憶が飛んでいるような感覚だ。確かにここを通ったのに、通っていないと思う自分も確かに存在した。

 でも、考えていても仕方のないことだった。とにかく家に帰ろう、と、踏み出した足。

 何かが腐ったような臭いと、不意に飛び込んできた音に、それ以上進むことはできなかった。


「グ、ゥ……ッ!!」


 音の正体は、背後の何かが、僕を襲わんと呻く声。

 完全に思い出した。夢なんかじゃない。昨日、ここで、ほとんど同じ時間に、この得体の知れない何かに出会った。

 粟立つ背筋と、動かない身体。一刻も早く逃げなければという思考は最初から抹消されてしまったように、指先すら動かせない。無論、その姿を認めようなど最初から考えられなかった。

 どうして僕が、襲われるのか。こいつらは一体何者なのか。僕の普通の生活は、日常は、何処に行ってしまったんだろうか。

 悶々と巡らされる様々な困惑は、湯水の如く溢れて止まらない。

 僕は今日、ここで死ぬ。そう、奇跡でも起こらない限りは――。


「――あら、二日連続だなんて幸運ね。本当に幸運」

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