兄の恋人

猫村空理

第1話

 三津木藤野という名の俺の兄は、立派な人間だ。老人にしょっちゅう席を譲るし、迷子の面倒もよく見ている。小学校の先生をしていて、直接見たことはないが職場での評判もいいとのこと。その兄には、高校時代から付き合っている彼女がいた。

 付き合い始めてから今年で七年になる。どうして俺が彼らの交際年数を知っているかといえば、初日に浮かれた兄が彼女を紹介してきたからだった。「彼女ができた。今日ウチに連れて行く」と電話口で告げられたときには、どうしたものかと悩んだけど。考え直せと言う暇もなく電話は切られ、彼は本当に彼女連れで帰宅した。

 そうして俺は浅桐朝香と出会った。俺の、七年続く片思いの始まりの日だった。




 学校から帰ってすぐの俺に、兄が相談を持ちかけてきた。兄はあまり人に相談をする方じゃないので意外に思いつつ、制服を着替え、我が家の居間へ向かう。すでにソファで待っていた兄の隣に腰を下ろした。

「相談って、何?」

「うん、佐倉、それなんだが……」

 彼はそこで言葉を切って口元をむにゃむにゃする。言いよどんでいた。基本的にはっきりとした物言いをするこの人には、ますますもって珍しい。これは、たぶん。

「朝香さん絡み?」

「……そう、だ。よくわかったな」

「いや、わかりやすいから。それで?」

「……今度、プロポーズしようと思うんだ、朝香に」

 そうなんだ、と答えた声は平静を装えていただろうか。動揺したらだめだ。仮にも肉親の、吉報、かはまだわからないが、幸せな将来に関する相談だから。ずっと前から、何度も頭の中でひねり出し、繰り返し、なぞってきた台詞を唇に乗せる。

「やっと、って感じ。俺はいいと思う。朝香さんはたぶんずっと待ってるし」

「そうか……? おれは、少し不安なんだ。どうしても、断られた時のことを考えると」

「信じていいと思うよ。朝香さんとか、付き合った七年間とか。長いでしょ、七年」

 はじめ高校生だったあの人は今や二十四歳。花の盛りだとか言われる年代の大半を、彼女は兄に捧げている。その重さはきっと兄が考えている以上。

 少し待つと、兄は、うん、と一つ頷く。

「ありがとうな佐倉。朝香に、話してみる。……本当はもう、指輪も買ってあるんだ」

「……そ」

 つまり、俺がなんと言おうと結局答えは決まっていたということだ。照れくさそうな兄の顔を見ていると馬鹿馬鹿しくなってちょっと笑った。俺の好きな人の恋人で、もうすぐ彼女の旦那になるとしても。彼のそういうところを、俺は決して嫌いになれないのだった。


 そしてその翌日、兄は見知らぬ子供を庇って事故に遭った。授業中に俺を呼び出した先生の顔が、やけにこわばっているのを覚えていた。兄は即死だった。




 葬儀場は菊花の香りに満ちていて、大勢の参列者がいるのにどこかがらんどうだった。天井が高いからかもしれない。あるいは、もうどこにも兄がいないからかもしれない。

 母はただ泣いていて、父の表情も暗く沈んでいた。せめて俺だけはと喉がひきつるのをこらえると、涙だけぽろぽろ落ちていく。泣くのは俺じゃない、一番泣きたい人が泣けないでいるのに。

 会場のずっと後ろの方に朝香さんは座っていた。まだ兄と籍を入れていないあの人は、親族の俺のように最前列に座る権利もない。知らない場所に放り出された、無力な迷子のような表情で、彼女は喪服の膝を眺めていた。

 遺体の損傷が激しいと言って、白い棺の上部はついに開けられないままだった。人相の識別がつかないらしい、と誰かが言った。だから開かなくてよかったとも思う。

 瞬きの間に兄は灰になって箱に収まり、俺と両親と何人かの知人は葬儀場の外にいた。少し遠くでぽおっと薄曇りの空を見ている朝香さんがどうしても気になって、見ないふりをした方がきっといいのに、話しかけに行ってしまう。

「……朝香さん」

「あ、佐倉くん……」

「あの……」

 続く言葉が思い浮かばず、視線を落とした。そんな俺を見透かしたように彼女は苦く笑った。彼女の口角が震えているのを見ていた。

「子供、助けようとしたんだってね。藤野くんらしいよね。なんか、いつかこんな日が来るような気もしてたんだ」

「兄貴は……」言いかけて、口を噤んだ。どんな言葉も彼女を傷つけしかしないように思う。プロポーズしようとしていた、とか、今言ったところでどうなる。唇を噛んだ。「朝香さんのこと、置いていこうとか、考えたことはなかったと思います」

「そういうとこが、酷いんだよね藤野くんは。いざとなったら私のことなんて何にも考えないの。誰にだって優しくて、誰だって車に轢かれそうなら助けるんだ。そんなこと、死んでまで証明しなくていいのに」

 そこが、好きなんだけどなあ、と彼女は言う。まだ現在形で表現される思いは生傷のようで、不用意に触れるのをためらう。俺が困っているのがわかったのか、眉を下げた彼女にごめんと謝られる。

「いや……。俺の方こそ、無神経なこと言ってすみません。朝香さん、ちょっと隈できてますし、帰ったらしっかり休んでください」

「うん。佐倉くんだってつらいのに、気を遣わせてごめんね」

 朝香さんの手が俺に伸びて、髪をさらりと撫でていく。こんな時でも跳ねる心臓が最悪だ。気取られないように視線を落とした。

「じゃあ……今日は、失礼します」

「ばいばい、佐倉くん」

 ひらひらと手を振る彼女に会釈して、その場を離れた。

 それから数ヶ月、俺は朝香さんに会う機会を持たなかった。よく考えると朝香さんと三津木家の繋がりは兄の存在だけで、彼がいなくなった今、彼女は我が家にとっての何者でもない。それに遺族が行う手続きもなかなか多く、俺が直接やることはないものの忙しない雰囲気に、誰かに会いに行くことも気が引けた。

 兄の遺品を片付けていたある日、小さい紙袋を見つけた。中には手のひらに収まるようなサイズの、布張りのケース。ああ、これ。

「婚約指輪……」

 兄のはにかんだような顔が浮かんだ。これは朝香さんのだ。

 彼女に渡した方がいいだろうか。傷を広げることになりはしないか。でも会いたい。そこまで考えて苦く笑った。兄の恋人に、彼の遺品を口実にして会いたいだなんて。最低だ。

 しばらく悩んだけど、会いに行ってみることにした。様子を見て、平気そうなら渡せばいい。彼女からの郵便物に載っていた住所を地図アプリで検索して、家を出た。

 朝香さんの家はそれほど遠くない。途中に広い川が横たわっていて、百メートルほどもありそうな橋が架かっている。下を覗くとかなり遠くに川床が見える。胃がきゅっと縮む。

 橋を渡った先の、新しくも古くもないマンション、その三階に朝香さんは住んでいる、ようだ。彼女の部屋の前に立ち、備え付けのチャイムを押す。ぴんぽぉん、と俺の押したチャイムが、あまり厚みのない扉を通して微かに聞こえる。

 チャイムは虚しくドアの向こうの空間に広がって、それきりだ。出かけているのだろうか。さらに何度か押してみても応答はない。

いないのだとしたら、もう一度出直す必要があるだろう。宅配物入れに指輪を入れておくのはかなり不安だ。諦めきれずに軽く手をかけたドアノブが、わずかな音を立てて回る。鍵が、空いている。不用心だな、と自分の行いを棚に上げて思う。朝香さんは鍵を閉め忘れるような人だったろうか。嫌な予感が胸の中で膨らんだ。

「朝香さん……? いるんですか?」

 返事はやはりない。薄く開いた扉の隙間から、水の流れる音が聞こえていた。

 朝香さん! と何度か叫ぶように呼んでもなしのつぶて。シャワーを浴びているとしても、さすがに聞こえていいはずだ。

「すみません、入りますよ!」

 不法侵入だ。けどやっぱり心配だし。無人だったとして、ものを盗むつもりもないし。盗まなければ人の家に無断で入っていい、わけではないだろうけど。

 軋む音を立てて開いたドアの向こう、短い廊下には薄闇が溜まっていた。もう一つドアを隔てた部屋も昼間だというのにカーテンを閉め切っているようだ。水の音が聞こえるのは、やはりというか浴室から。

 ノックをしてからドアを押しひらく。脱衣所と浴室は電気が灯っていて、眩しさにまばたいた。ずかずか入って浴室の扉も開け放つ。水の音が一層鮮明になる。

 そして、浴槽にもたれかかるような朝香さんの姿を見つけた。蛇口はひねりっぱなしで、浴槽から溢れた水が彼女の服を濃い色に染めている。痩せて骨の目立つ彼女の右腕が、水にくったりと浸かっている。

 明らかに様子がおかしかった。

「……うそだ」

 土気色の肌。浴槽の底に溜まる薄赤い色。それと、無造作に床に転がった刃物の、鈍い光。自殺、しようと? まさか。朝香さんが?

「あ、朝香さん、しっかりしてください。……聞こえてますか」

 訊きながら掴んだ肩の薄さに愕然とする。数ヶ月前に会った時からどれだけ痩せたのだろう。あの、兄の葬式から。

 首筋に触れると、まだ微かに脈を感じる。そのことにほんの少し安堵して、俺は救急車を呼んだ。


 その翌日、高校の放課後に俺は彼女の元を訪ねた。夏至を過ぎてあまり日が経っていない今は、放課後でもまだ日暮れの気配がない。快晴の陽の光が白い廊下で跳ね回って眩しい。

 朝香さんの病室はカーテンが開けられていて、入り口に立つと軽く目が眩んだ。朝香さんはベッドの上で上体を起こしていた。

「……こんにちは」

 声をかけると、少し間があって彼女が首を巡らす。その目に見つめられるのが今更怖くなる。ぎゅ、と握り込んだ手のひらに爪が刺さった。鳶色の目が俺を見る。鋭い感情が一瞬俺を貫いて、すぐに何も見えなくなった。

「こんにちは、佐倉くん」

 こわばった俺の身体に、不自然なほど穏やかな声が降ってきた。彼女は微笑んでいて、その言葉が恨み節ではないことにほっとしてしまう。

 俺から視線を外して、朝香さんは自身の手をぐっぱっと動かした。左手首には白い包帯。

「私、生きてる」

 口の中で確かめるように、そう呟く。彼女は目を合わせてくれない。

「……佐倉くん、ありがとね」

「朝香さん、嬉しいですか、生きてて」

「あは」

 大丈夫、と俯いた横顔が微笑む。

「私は大丈夫だよ、佐倉くん」

「そう、ですか。あの、あと俺……届けるものがあります」

「届け物?」

「これ、兄貴の」

 布張りの小さな容れ物をサイドテーブルに置く。きょとんと目を見開いた彼女がそれを手に取って、ぱかり、と開く。陽を穏やかに反射する、小さな輝きが生まれた。

「指輪?」

「兄貴の部屋で見つけました。……渡して、大丈夫でしたか」

「うん。……嬉、しい」

 朝香さんの声は小さく震えて、ほんの少し生気が灯っていた。俺はただ、複雑な気分でその声音を聞いた。




 それから少しして朝香さんは退院した。退院間際に、定期的に精神科へかかることになったと言っていたから、会えることを期待して病院近くの道を使うことが増えた。彼女は今休職中で時間の自由が効くので、空いている昼間に行くことが多いらしいけど、それでもたまに話すことができる。朝香さんや兄には申し訳ないけど、俺はそれが嬉しい。

 朝香さんは跳ねるような変わった歩き方をするから、いくら人がいてもすぐに見分けがついた。傾きかけの陽に、ひどいくせ毛が細かく輝いている。

「朝香さん。いま帰るとこですか」

「うん。買い物して帰るの。佐倉くんも、いま帰り?」

「そうです。買い物なら、ついて行きましょうか。荷物持ちます」

「え、いいよお。大したもの買う予定じゃないし」

「俺はついて行きたいです。ちなみに、何を買う予定なんですか?」

「……え、えっとね」

 ひょろ〜っと視線が空を泳ぐ。都合の悪いことをごまかそうとする時の顔だ、とピンときた。兄の本をうっかり汚してしまった時とか、バレンタインという行事を綺麗に忘れていた時とか、こんな顔をしていた。

「あの、怒らない?」

「怒る買い物ってなんですか。大麻とか?」

「そんなんじゃないよ。……卵スープと、わかめスープと、コーンスープ。全部乾物だから、荷物持ちもいらないよ」

「はあ。別に怒るようなもの、ないじゃないですか。それが夕飯だって言うならちょっと考えますけど」

「……あはは〜」

「朝香さん?」

 笑っていない笑い方だ。見つめると視線が逃げていく。さらに黙って見ていると、隙間風のような口笛を吹き始めたので、これは図星だ。

「ちゃんと食べないとだめですよ。……兄貴のことはわかりますけど、でも食事だけは」

「や、違うよ! ご飯が喉を通らないって訳じゃなくて、これは単純に、家事が、苦手なだけ、だから……」

 だんだん尻すぼみになっていく声。

 そういえばそんなことを兄も言っていた気がする。「朝香は放っておくと、素麺とか茹でずに食べ出すからなあ」とかなんとか。まさかそんなはずは、と当時は信じていなかったけど、この様子だと割と信憑性がありそうだ。

「……あの、朝香さん、今日家にお邪魔してもいいですか?」

「やだ! 来ないで、絶対呆れるよ!」

「夕食が粉末スープの時点で結構呆れてるので、大丈夫です」

 しばらく粘ると、外で二十分待つことを条件に許可がもらえた。スーパーで買い物をしている間も(無理やり肉と野菜を買わせた)、彼女は絶対勝手に入ったりしないでね、とうるさいくらいに繰り返していた。

「はい、はい、ここら辺で待っていたらいいんですね?」

「うん。絶対ドア開けないでね! 私が出てくるまでじっとしてて」

「わかりましたって」

 不承不承といった表情の朝香さんがドアの向こうに消える。わざわざ開けようとは微塵も思っていなかったけど、ドア越しでもガタガタ物音が聞こえてきたので気持ちが揺らいだ。開けないけど、単純に心配だから。

 両親は共働きでまだ帰っては来ないけど、一応連絡を入れておく。そうして時間を潰していると、タイマーでもかけていたのか、本当に二十分きっかりでドアが開かれる。さっきよりさらに渋い顔の朝香さんが、「ぎりぎり、大丈夫になった、かも?」と絞り出すように言う。

「どれだけですか。掃除、一緒にやりますから。綺麗なところで寝た方が気分よくなりますよ」

「わあ、真人間の発言だ。眩しいなあ」

「はいはい、失礼します」

 だんだん対応が雑になってしまう。身体で玄関を塞ぐ、この期に及んで軽い抵抗を見せる朝香さんを押しのけた。あんまり肩が細くて、動揺するのを指先の震えだけに押しとどめる。

 俺はこの人を太らせたい。隣の家の猫くらいふかふかに。だってこれは、きっと俺の身内のせいだから。

 踏み込んだ室内は、まあ、それなりに荒れていた。目につくところだけ片して、買ってもらった食材を手にキッチンへ向かう。

「今から夕飯軽く作っちゃうので、朝香さんはテーブルの上拭いたりしててください」

「佐倉くんって、料理できるの?」

「親、あんまり家にいないので、たまに作ることが」

「そういえば、そっか。交代でやってるって聞いたかも。今は、全部一人?」

「はい、まあ。そのぶん、手抜きですけど」

「すごいなあ。私、何年も一人暮らししてるけど、やっぱり向いてないよ」

「……今度から、たまに朝香さんの家、来ていいですか。ちゃんと事前に電話しますし、都合の悪い時は断ってくれていいので」

「佐倉くんが? どうして?」

 ──会いたいから。

 そう言いかけ、ぐっと言葉に詰まる。心配なのは嘘じゃないけど、ただ会いたいのも本当だ。それは、死んだ兄の恋人に抱く感情として、おそらく間違っている。

「朝香さん、痩せちゃったから。料理とか作りに来たいんです」

 もっともらしい理由を述べても、舌に苦味が広がっていくようだった。騙しているわけじゃない、けど、確かにやましい気持ちを隠してもいる。それが後ろめたい。

 俺のやましさには気づかずに、朝香さんは、そう? と小首を傾げる。

「でも、来てくれるならありがたいかもなあ。私、高校の時からずっと藤野くんがいて、一人じゃ何にもできなかったんだって、最近びっくりしてる」

「じゃあ、来てもいいってことですか」

「うん。私こそ、情けないけどお願いします。……あ、でも何時間か前には連絡してね!」

「しますけど、今日くらいの部屋の荒れ具合なら俺驚きませんよ」

「まだまだ、こんなの序の口だよ佐倉くん……」

「怖いな……。あ、ご飯、一合でいいですか」

「佐倉くんの分、足りなくない? 二合くらいあった方がいいんじゃないかな」

「いや、俺は」

「え! 食べていってよ。私ばっかり悪いからさ」

「……じゃあ、そうします」

 無理やり食材を買わせて、押しかけた末に食事までしていくのはあんまり厚かましすぎると思う。けど、朝香さんと食卓を囲む誘惑に俺は屈した。言われた通り、二合測って炊飯器にセットする。

「佐倉くん、何作ってくれるの?」

「親子丼、の予定ですけど、大丈夫でしたか?」

「好き!」

「そうですかあ」

 好き、の一言で気分が浮ついた。手の甲で頬を抑える。「親子丼が」好き、なのは十分わかっているけど。俺は単純だ。

 朝香さんの家は、調味料がわりあい揃っている。たぶん買うだけ買って使っていないようだ。

 切った具材を調味料と水で煮る。鶏肉に火が通ってもご飯が炊けるまで時間があったので、部屋の掃除をしてみることにする。かろうじて片付いたテーブルの側で、朝香さんは床にぺたっと座って雑誌を見ていた。

「何してるんですか」

「えへ、つい」

「ちょっと掃除しますよ。朝香さんも立って」

「はーい……」

 雑誌や本を書棚に、ゴミはゴミ箱に。結構すっきりしたかな、と部屋を見渡すと、朝香さんが洗濯物を畳んでいた。焦って目を背けた。女の人の洗濯物って、たぶん見たらまずい。

 ご飯が炊けたら鍋をもう一度加熱して、溶き卵を流し入れる。卵が固まってから丼に盛れば、極めて平均的な親子丼が完成する。

 ローテーブルに運んで彼女へ声をかける。彼女はこちらまでにじり寄ってきて、顔を綻ばせた。

「わあ、なんか、食卓に人権があるよ」

「健康で文化的な、ってやつですか」

「健康でも文化的でもなかったからねえ最近。よし、いただきまーす」

「あ、いただきます」

 生活が健康で文化的でなくても、食べる前に手を合わせるところは可愛かった。一口頬張った親子丼は可もなく不可もなく、俺の作った料理の味がした。一人暮らしのテーブルは小さくて、器に顔を寄せると彼女と距離がかなり近くなる。

 軽くかがんだ朝香さんの胸元に、銀のチェーンが覗いた。

 ──指輪が光っている。

 彼女の服の襟に半ば隠れて、兄の形見がきらめいていた。

「美味しい、佐倉くん。私こういうのほんとに久しぶり」

 はっと顔を上げると朝香さんは頬に食事を詰めてにこにこしていた。彼女の、陽だまりの猫のような、柔らかい雰囲気の笑顔が好きだった。

 けど、胸元の指輪のことを思うとどうしてか嬉しいだけでいられなくて、俺は曖昧に笑った。




 言質を取ってから俺は朝香さんの家に料理を作りに行くようになった。夕方の大橋を、病院帰りの彼女と俺とで渡る。遮るもののない橋に風が吹き付けて彼女のシャツの襟を乱す。その鎖骨を這うチェーンが、湖面のように細かく光った。今日も身につけているみたいだ。

「指輪……」

「ん?」

「あ、いや」

 考えていたことが口に出た。朝香さんは指輪? と首を傾げて、聞こえなかったことにはしてくれないようだ。

「その、指輪、指に嵌めないんですね」

「あ、これ? サイズがね、ちょっと痩せたからかな、合わなくって。どこかで落としたら嫌だから首にかけてるの」彼女はチェーンをつまんで指輪を引き出し、ちゃらちゃら揺らす。「それに、どの指につけたらいいのかわかんなくって」

 夕陽を眩しがるように朝香さんは瞼を伏せて、ふ、と瞳に睫毛の影が落ちた。なんと言ったらいいかわからず俺はその様子を見ていた。

「こんなの買ったって結婚してくれなかったんだから、戸籍の上ではさ、私と藤野くんは他人なのに。実態も伴ってないのに薬指に嵌めるのって、すごく惨めだ。でも、他の指に嵌めるのは、もっと嫌」

 ──やっぱり兄貴は俺に相談したその日にでも、朝香さんに会いに行くべきだった。この人はずっと待っていたんだ。

「家族になりたかった」と彼女は言った。

「藤野くんのお葬式の次の日に仕事があったんだ。有給とったってよかったのに、出ることにしたのは私だけど。気も紛れたしね。でも、あたりまえに忌引きの権利がある佐倉くんのこと、うらやましかった」

 そこで言葉が切れる。沈黙の後、朝香さんは片手で顔の半分を覆って、ごめん、と何ともなく謝った。

「急に変なこと訊いたのは俺なので、謝らないでください」

「でも、ごめんね、藤野くんをなくしたのはきみも同じなのに。私、最近余裕なくって」

「……悲しさの量とか、比べられるのかわかんないですけど、たぶん俺と朝香さんは同じじゃないです。兄貴が亡くなっても、死ぬとか死なないとかそういう選択肢、俺の中に一つもなかったから」

「……そうかな」

 彼女は顔を上げた。確かに傷ついている表情が髪の隙間から覗いた。

 彼女の胸の内に、傷口の形で兄が息づいている。葬式の日から癒えた様子のない、潤んだ傷。彼女の体組織がいくらか俺の料理で作りかえられても、その場所だけは明け渡されない。兄が生きていた頃は、彼女の中で兄が絶対的位置を占めることがあたりまえだったのに、今は少し苦しい。溜息を呑み込む俺に、朝香さんが弱く笑いかけてくれる。

「ねえ、今日の晩御飯なあに?」

「炒飯と、あとスープとか作ろうと思ってます」

「楽しみだなあ。佐倉くんが来るようになってご飯が楽しくなったよ」

「それは、よかったです」

 彼女の言葉を嬉しく思いながら僅かに罪悪感を覚えた。前は会えたらそれでよかったのに、今は彼女の中に自分の居場所が欲しいのかもしれない。兄みたいに。




『佐倉くん、しばらくご飯作りに来ないで!』

「朝香さん、今日はシチュー……え?」

 昼休み、急に朝香さんから電話がかかってきた。珍しいな、と思いつつ出ると第一声がこれ。驚いて声が震える。

「ど、どうしてですか。前作ったの、味が変だったりしました?」

『ううん、いっつもおいしいよ。感謝してます。でも、だから、しばらくダメなの』

「まさか俺の他にシェフが? す、捨てないでください」

『人聞きが悪いなあ。シェフなんていないし、あんな部屋に入れられるの佐倉くんくらいだよ』

「どれも違うならどうして急にそんな」

『ええと、とにかくしばらく大丈夫だから!』

 そこで一方的に電話が切られた。

 大丈夫だから、と言われても、人間食べなくて大丈夫なわけがない。しばらくってどのくらいだろう。納得できない。こういう時家を知っていると会いに行けてしまうから、申し訳ないと思う。でも、せめて直接聞きたかった。

 朝香さんの家のチャイムを鳴らすと、『ダメだからね!』とインターホンから声がした。

「だから、なんでですか」

『だ──ダメったらダメ!』

「でももう来ちゃいました」

『勝手に押しかけただけでしょ!』

「そんなひどいこと言うんですか! あと冷蔵庫の食材どうするつもりですか!」

『たっ、食べるよ!』

「嘘ですよ包丁持つのも面倒がるくせに! ちゃんと訳を聞かせてもらうまで俺帰りませんから!」

『えっ、ええと、もう──わかった! ちょっと、家上がって! 近所迷惑だから』

「あ、はい」

 返事のすぐ後に、ドアが開錠される音。部屋に入ると目の前に彼女が立っている。

「それで、結局どういうことなんですか?」

「あのね、今日、病院行ったら、主治医の先生に」

 ──浅桐さん、少しふっくらされましたね。顔色も最近いいみたいで。

「って! 言われたの!」

「それは……いいことなんじゃないですか?」

 少なくとも不健康なくらい痩せていた時よりはマシのはずだ。俺は太らせるのが目的でここに通っていた訳だし。思ったことを伝えただけなのにかなり睨まれている気がする。

「佐倉くんわかってないね。あれはたぶん、皮肉だよ。肥え太りやがって……みたいなさ!」

「精神科の先生が皮肉を言うことはないんじゃないですか」

 というか、精神科医に皮肉を交えられるのは嫌だ。治しに行った精神の調子を崩しそう。

「でも、太ったのは本当なの! 私もなんか怪しいとは思ってたし……。佐倉くんが来てくれる時はつい食べすぎるから、しばらく来ないで、ね? お願い」

 お願いすればいいと思っているのか、と腹が立ったものの、実際グラっときた。首をかしげて、お願い、なんて言われることがないものだから。いいや流されてはいけない。

「朝香さんのそれはダイエットじゃなくて、餓死に近づいていく方法ですよね。たぶん、太るより身体に悪いし、信じてもらえないかもしれないけど俺は、もっと肉をつけた方がいいと思ってますし……」

「で、でもさ……」

「気になるんだったら次から蒟蒻麺? みたいなの使いますから。俺を捨てないで……」

「すごく人聞きが悪い。でも、結局手間を掛けさせるんなら、余計迷惑かかっちゃうし……」

「迷惑? それを気にしてたんですか?」

訊くと、少し間を開けて彼女は頷く。

「まあ、太ったからやめてっていうのも本当に本当なんだけど……でも定期的にご飯作りに来て、なんて普通に考えて迷惑だよ」

「俺がやりたくてやってるんです。あと、家に帰っても親いないので結局家事するのは変わらないし」

「うーん、でも高校生に……」

「全部問題解決したということで、俺シチュー作っていいですか? ほら退いてください」

「わ、ちょっと!」

 靴を踵で脱ぎ、彼女を押しのけて室内へお邪魔した。悩み事はみんなどうでもいいことだったし、彼女はこの場では何を言っても納得してくれそうにない。目の前に温かい食べ物があった方がよほど効果的なんじゃないかと思った。

 キッチンに立つと、もう諦めたのか朝香さんは妨害してはこなかった。

 野菜と肉を炒めて、水を入れて、ルーも入れて煮る。カレーと同じ極めて初歩的な工程なので慣れたものだ。朝香さんは人参が嫌いらしいけど、今日の一件で少し苛立っていたので、乱切りにしてたくさん投入した。調理権を握っている人間へ刃向かうとこういうことになる。

 鍋を覗きにきた朝香さんが、げえ、という顔をする。

「なんか、シチュー、オレンジ色してないかな」

「大きく切ったので、まあ、避けやすいと思いますよ。今度くだらないことで解雇されそうになったら人参でグラッセ作りますから」

「グラッセって、あれ? 甘く煮るやつ」

「たぶん、おいしいものはおいしいと思いますけど、俺が値下げされた人参で作った場合はどうなるんでしょうね」

「変な脅しやめてよ……」

 ぽこぽこ沸騰してきたシチューを小皿に取って、口に含む。やっぱり入れすぎたのか人参の風味がする。このくらいは我慢してもらおう。

 それにしても、薄すぎるかどうか微妙に判別がつかない。家主の意見も大事だろう、ということで小皿を朝香さんへ差し向けた。

「これ……」

「味見? やったあ、いただきます」

 ぱく、と俺が持ったままの小皿に彼女は口をつけた。受け取ればいいだろうに。いや俺が顔の近くに差し出したからか。大変混乱しながら、とりあえず彼女の方へ皿を傾けた。

 陶製の皿を食む上唇の形が幼児のようで無警戒だ。そっと目を背けた。この人には穏やかに生きてほしいのに、俺の方がままならない。

 口を離した朝香さんに、「人参の味が……」とまず苦言をもらった。

「多少は我慢してください」

「うへ。うーん、味はちょっと薄めかなあ。もう一個くらいルー入れてもらえたら、人参が遠ざかって助かるかも……」

「了解です」

 味が決まれば完成だ。シチューの皿を二人分、小さなテーブルに運ぶ。

「なんか、夏っぽくなくてすみません」

「そういえばシチューって夏に食べないかも。なんでかな、カレーは食べるのに」

「スパイスの有る無しでしょうか。シチューって、燃焼しなさそうですし……すみません」

「あ、私が太った話? うーん、やっぱり気になるけど、今はいいや」

 いただきます、と朝香さんはスプーンを手に取って、容器を引き寄せた。

「目の前においしそうなものがあると、なんでもよくなっちゃうよね、生き物だから」

「じゃあ俺、これからも来ていいんですか」

「ダメって言っても来たよね」

 来ていいなら、もうなんでもいい。俺もシチューを食べてみる。人参は入れすぎだし、朝香さんが食べないからしわ寄せが俺に来ていた。




 太ったなんて騒ぐくせに、朝香さんはいつも食後の眠気に勝てない。昔からよく寝る人だった。

 俺が食器を片付けている間に睡魔に負けたらしい彼女は、絨毯の上に転がって寝息を立てていた。初夏とはいえ心配なので、タオルケットをかけておく。緩い寝顔を見ていると、朝香さんがなぜか兄のベッドで寝ていた日のことを思い出した。


 それは確かに眠くなるような雨の日だった。

 兄の部屋のドアをノックすると、すぐに向こうからドアが開かれる。

「どうした?」

「あの、わからない問題が──」

 勉強教えて、と頼むつもりだった俺の目に、くたりとベッドに横たわる朝香さんの姿が映る。喉がおかしな音をたてて絞まった。兄貴、いったい何を。

「お、れ、出直す」

「は? 何が──あ、違うぞ! おれたちは別に」

「隣の部屋で、とか、本当やめて。最悪、嫌だ……」

「だから違うって言ってるだろ。朝香、レポート書いていたら眠くなったみたいで、おれが少し席を外した間にこうなってた」

「ふーん……」

 渋い顔のままの俺へ、兄は焦ったように「勉強、聞きに来たんだろ?」と言う。

「朝香はたぶんしばらく起きないし、暇なんだ。教えるよ」

「いいの?」

「かまわないぞ。お前、普段は気づいたら朝香と話し込んでるくせに、今更遠慮することもないだろ」

「……わかった。勉強教えて」

 兄のことは好きだけど、二人きりにするのも癪といえば癪なので、ごねずに彼の言葉に甘える。

 ローテーブルに置かれたままの二人分のコップをわきに寄せて、問題集を広げる。俺のそばに兄が腰を下ろした。

 雨だれの音と規則的な寝息が空気をかすかに揺らしている。気を抜くとと瞼が落ちてくるような空間だった。

 兄は丁寧に一次関数の問題を解説してくれるけど、朝香さんに配慮した控えめな声量がよけいに眠気を誘う。

 さほど問題も解かないうちにうとうとし始めた俺へ、彼は苦笑したようだった。

「朝香が寝てると、眠くなるだろ。おれも、よく困るんだ。朝香はどこでもすぐに寝るし、そうなるとおれもつられて課題が進まない」

 兄が朝香さんを見やるのと同時に、うう、と抗議するようなうなり声をあげて、彼女は寝返りを打った。タオルケットがずれ、カーディガンをまとった背中があらわになる。その様子を見ていた兄が当然のように立ち上がって、タオルケットを背中までかけなおした。

「いつも布団を落とすんだ。家ではどうしているのか心配なんだが、まあ風邪をひいてきたことはないし、どうにかなっているんだろう」

「そう……」

 なんだか惚気を聞かされているけど、感想が一つも湧かないくらい本気で眠くなってきた。頭を振って眠気を散らそうとしても、いつの間にか目が閉じている。

 睡魔に屈する直前に、兄が朝香さんの額へ落ちた髪を横に流すのを見た。敬虔な祈りのような、まぎれもない宝物に触れるしぐさだった。

 尊敬も羨ましさも泥のような眠りに飲み込まれて、俺は意識を手放した。


「あれ? 佐倉くん、寝てるの?」

 自分の名前を呼ぶ声に瞼を持ち上げると、朝香さんがテーブルに突っ伏した俺の顔をのぞき込んでいた。俺がかけたタオルケットはまだ膝に乗ったままだから、おそらく彼女も今起きたばかりなのだろう。俺も一緒になって眠ってしまっていたようだ。

 寝起きで頭が回らない俺の頬を、朝香さんが指先でつついた。

「な、なんですか」

「ほっぺた、服の痕ついてるね」

 笑いながら言われて、袖で頬をこすった。子供みたいで恥ずかしい。

「……朝香さんも、寝癖ついてますよ」

「ほんと? どこ?」

 ここ、と指で彼女の跳ねた髪を掬った。

 細い感触。途端に幸福感がぶわりと胸を満たした。あの時、兄の手つきがあれほど厳かだった理由が、俺にもわかった。




 部屋の隅に肩掛け鞄を放り。朝香さんの声にはいつもより明るさが滲んでいた。

「今日先生に、薬、減らしていきましょうかって言われたんだ」

「それは、よかったですね」

 彼女は病院からいくらか薬を処方されていた。柔らかく笑う彼女と錠剤たちは、どことなくアンバランスで痛々しかったから、薬が減るのは嬉しいことだ。

「全部無くしても良さそうだけど、様子見なんだって。私、回復してるみたいってさ」

「血色、よくなりましたからね」

「全部、佐倉くんのおかげ。だからね」彼女は自分の癖毛を指で引っ張る。「来てくれる頻度、減らしてみないかな。私のリハビリに付き合うと思って、ね。前に迷惑じゃないって言ってくれたけど、そんなはずないし」

「迷惑では、本当にないです」

 このまま、家事炊事は何もできないまま、全て俺に任せてくれないかな、という思いがよぎった。だって誰でも自分を一番に据えてくれる人が欲しいし、それが好きな人であってほしいじゃないか。

 でも、喉まで出かかった言葉たちを飲み込んだ。

「わかりました。リハビリ、ですもんね」

「うん。あの、来るなって話じゃなくて、頻度を考え直そうってことだから」

「はい、わかってます」

 寂しいけど、朝香さんが健康で長生きするつもりがあるならそれでいい気がする。

 今日はオムライスを作る。サラダ油を使うところでバターを入れてみた。快気祝いにもならないささやかな贅沢だった。捻りのないチキンライスに、薄焼き卵をかぶせたものが出来上がる。能力の限界を感じたので、ふわふわとろとろしたものは早々に諦めた。

「朝香さん、できましたー。ケチャップは各自でお願いします」

「じゃあ、名前を書いてあげよう」

 言って彼女は赤いチューブを手に取り、ぐりぐり名前を書き始める。「あさか」「さくら」に、まあ見えなくもない、記名されたオムライスが出来上がっていく。

 よくこんな子供みたいなことを本気でできるものだ。年上なのに幼くて天衣無縫なところがとても好きだった。

 文字の細部に手を加える朝香さんの、横顔を見ていた。きっと今日が俺と朝香さんの一つの区切りなんだと思う。来るなってことじゃない、とは言うけど、これから緩やかに会うことが減って、糸が切れるように関わりも途絶えるかもしれない。

 朝香さんの、ケチャップを持つ手を掴んでいた。彼女は驚くわけでもなく俺をふり仰ぐ。

「好きです」

 彼女の目が一つ瞬いた。

「な、なんで今?」

「そのうちふらふらっと関わりを絶たれそうな気がしたので……」

「流石にしないよ、そんなこと」

「あの……好きです、ずっと前から。返事はいらないので、ただ、俺のこと忘れないでください」

 あなたの心のどこかを俺のために割いてほしい。朝香さんはきょとんと首を傾げた。

「好きになって、とかじゃないの?」

「なってほしい、ですけど、嫌でしょう。俺、朝香さんにキスとかしたいんですよ」

 彼女は困ったように眉を下げた。けど、遂に拒絶の言葉をくれない。

「嫌、って、ほど、では……?」

 ああ俺に気を使って強い言葉を使えないのだろう。わかっていたけど、俺は間違えた。

 頬に手を伸ばす。身体を寄せる。睫毛が絡むようだ。目の眩む高揚感。

 首筋に伸ばした指へ、細いチェーンが噛む感触が伝わり、瞬きの間に忘れた。




 そういった経緯で家事代行の頻度を減らすことになった翌日も、俺は病院付近を通るルートで帰宅していた。もはや癖だった。

 きょろきょろあたりを見回しながら歩いていると、雰囲気が物々しいことに気づく。人の出入りがいつもより多いし、極め付けに警察がいる。不安になって、その中の一人に声をかけた。

「あの、何かあったんですか」

「ああ、うん、ちょっと事件がね」

「それって、若い女の人とか、関わってませんよね。癖毛で、ネックレスをしてる……」

「君、浅桐朝香さんの知り合いかい?」

 は、と息が喉に張り付いた。少し話を聞いてもいいかな? という警察官の要請に、ただ頷く。ああ、悪寒がする。この人、あの日俺を呼びに来た先生みたいな顔だ。

 朝香さんは死んだらしい。病院の最上階の窓から、脈絡もなく飛び降りて、砕けて死んだ。


 大橋の上は風が吹き付けて、妙なくらい寒い。急に、歩くのも嫌になって足を止めた。

全部俺のせいだろうか。昨日俺がしてしまったことが全ての原因?

 欄干に凭れ、手慰みに携帯を弄る。メールが一件届いていた。昼間。彼女がいなくなったほんの少し前。

『朝香です』

 件名はそれだけだった。

 鼓動が早まった。携帯を握りつぶしそうなほど握力がこもる。本文をスクロールする指が大仰に震えた。


 こんにちは。

 昨日嘘をついてごめんね。たぶんもう会えません。

 佐倉くんは、私のこと、何も気に病まなくていいよ。ずっと前からこうするのを決めていました。

 メールを送ったのは、佐倉くんが私たちの後を追わないでほしいから。勝手だけど、私は佐倉くんが大事です。生きているとたくさんいいことがあるよ。私はただ、その全部を藤野くんと経験したくて、もう何も意味がないってだけ。

 だから、きみは、たくさん生きてね。佐倉くん。


 それは身勝手な遺書だった。

 俺のしてきたことは何もかも無駄だった。どんな料理を作ってみても、彼女は最初から兄のところへ行くことを決めていた。

 苦しい。兄が死んだ時よりずっと。朝香さんもずっとこんな気持ちだったんだ。こんなの、当然耐えられない。死んだ方が絶対に楽だ。

 手摺りを握って、身を乗り出すと、川の唸る音が迫ってくる。この橋は高いから飛び降りたらきっと終わりにできる。自分の吐息が、妙に熱い。

 でも、飛び降りられなかった。彼女のメールの文面が、まだ忘れていない声を伴って頭に響く。生きてね。たくさん生きてね。本当に勝手だ。自分は耐えられなくて、死んだくせに。

 欄干に縋るように、ずるずるとコンクリートへ膝をついた。

「あ、朝香さん……兄貴……!」

 兄が憎い。俺の好きな人に愛されて、彼女を連れて行って、俺だけ一人この世に置いて。生まれて初めて兄を明確に憎んだ。

 苦しい。燃えているみたいだ。生きてね、と声がする。俺はこの先、この声と炎のような苦しさを抱えて、死にたいまま生きていくんだろう、と思う。

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兄の恋人 猫村空理 @nekomurakuri

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