第三話 波紋
その後
辺りは少しずつ暗くなっていく中、丸山は重いまぶたをなんとか開いて仕事に向かっている。あれからずっとサシャに日の本での生活様式を教えていたりしていたため、一睡もできていないのだ。それでも浪人とは言え武士たるもの、その程度で仕事を休むわけには行かない。彼はフラフラと千鳥足で歩き続けた。
するとやっと奥の方に、仕事場の戸の濃い赤色の暖簾が見えてくる。丸山はそこで、いつもどおり路地裏に入る。彼は店に入る時は絶対に裏口を使うようにしている。客としてではないにせよ。そういう店に入る姿を他人には見られたくないという、彼の意地からだ。
それから丸山は店に入るとそのまま休憩室の自分の椅子に座る。そして袖から一枚の折り畳まれた紙を出した。それは家を出る前にサシャが礼と言って丸山に渡したものだった。紙には一輪の紫色の花の絵が描かれている。その花は丸山自身町中でもよく見るような雑草なのだが、その絵の中ではまるで生花にでも使う華のような美しさがあった。
その時
「アンタ、何見てるんだい?」
丸山は前方から突然声をかけられる。それで彼が顔を上げると、そこには紅華の顔があったのだが、丸山は思わず後ろに仰け反ってしまった。異常に近かったのだ、紅華の顔が。
「おい、これのことも良いが、それより少し近過ぎやしないか?」
「そうかい? まぁ、別に良いじゃないか。男同士なんだし。それでその絵、アンタが描いたのかい?」
「いや、これは、、、。」
ここまで言いかけて丸山は急いで口をつぐんだ。何があっても、言うわけにはいかない、家に西洋人を泊めているなんて。バレればサシャだけでなく、彼自身も共謀で死罪にされてもおかしくない。
そこで丸山は自分が書いたと嘘を付く事にした。
「俺が描いた。昔からたまに絵を書くのが趣味でな。」
「たまに絵を描くのが趣味ねぇ〜。」
しかし紅華はそれを信じてはいないようだった。だがそこで紅華は一度キセルを吸い込んでから、それ以上深く聞くことはしなかった。彼の職業柄の対応だろう、相手の知られたくない事にはあまり首を突っ込まない。
「まぁ、とりあえず大事にしなよ。それ。」
そうだけ言うと紅華は、休憩室を後にしていった。
「全く、食えん奴だ。」
丸山もそう呟き、目を紙に戻した。
数時間後
「ちょっと、お侍さん。起きてください、寝てたら、流石にクビになっちゃいますよ。」
丸山はその声の主に揺すり起こされた。まだ寝起きでしょぼしょぼとする目をなんとか開ける。
丸山を起こしたのは最近ここに勤めに来た「いよ」という女だった。元は農村の出身だったが、最近の不作によって生活が苦しくなり、親兄弟を救うために自ら自らの身を売った健気な娘だ。紅華も彼女のそんな素性に同情してか、あまり彼女に過激な仕事は回さないようにしている。
「すまん。ちょっと今日は、昼間に寝ることが出来なかったんでな。何かあったのか?」
「何かあった訳ではないですけど、仕事中堂々寝るのは流石にマズイですよ。」
丸山はここで礼の絵が自分の手元にないことに気づく。確か手に持ったままの状態で寝てしまった筈だ。彼は落としてしまったのかと、足元を見る。案の定足元にあった。それを拾おうと丸山がしたところ、いよが先にしゃがんで拾い上げる。
「これ、蓮華じゃないですか。久しぶりだな〜。」
「その草、蓮華って言うのか?」
丸山は一度座り直してから聞く。
「ええ、私の出身の村じゃあ、もうそこら中に咲いていて、よくその中に兄弟たちと寝転がって遊んでいたのを思い出します。」
そう言えば丸山も幼少期、兄とよく草原で遊んでいた。
十秒間程の沈黙の後、いよのほうが口を開く。
「あの〜、よろしければこの絵、私に譲っていただけませんか? これがあれば何時でも故郷の弟たちの事を思い出せる気がするんです。」
「その絵を、、、。」
丸山は少し悩んだ、その絵は自分よりいよが持っていたほうが良いと思う反面、それをくれたサシャの気持ちを考えると少なからず自分が勝手に他人に渡してはならない気もしたのだ。
「やっぱり駄目、ですよね。こんな綺麗な絵、タダで渡すなんて。」
「いや、そんな事はない。君にやろう。」
しかし悩んでいたのも束の間、いよの顔を見ていると、結局丸山は衝動的に渡すことに決めてしまった。
「いいんですか?」
「ああ、持ってけ。だが貸しだぞ。」
「ありがとうございます。」
この時のいよの笑顔は、最早この店には似つかわしくない無邪気な少女のそれだった。
そうして、いよが満面の笑みで部屋を出ていってから、丸山も立ち上がった。そろそろ一度見回りをしたほうが良いだろう。それに丸山には、座ったままでいるとまた寝てしまう自身があったからだ。
休憩室を出ると、まずは一階の廊下を歩いて争いなどが起きていないか確認する。しかし結局は、いつも男女の矯正が聞こえるのみで争いなんかが起きていたことは、丸山が勤めだしてから数えるほどしか無い。これは高級店であるがゆえの利点だろう。
一階を一通り見回ると次は二階だ。二階は特に重要な客の為の部屋が並んでいる、それと紅華専用の部屋も。そのため丸山は見回りの時もあまり長くは居座らないようにしていた。下手なことを聞いて、何か問題に巻き込まれても面倒だ。
だが紅華の部屋の前を通る時、彼は思わず立ち止まってしまった。
「アンッ、、、アッ、、アァ、アンタ今日はやけに積極的だねぇ。」
普段はあくまで裏方に徹している紅華が珍しく乱れているのだ。裏方に徹しているというのは語弊がある、正しくは彼が客を選り好んでいると言っても過言ではないかもしれない。事実、彼は以前、丸山に自分は心から気に入った客としか寝ないと言っていた。店主である彼だからこそできることだろう。
丸山はつい、襖に張り付いて中の声に聞き入ってしまう。丸山自身は自分にそちらの趣味はないと考えているが、男とは言え紅華には流石店一番の人気というだけあって、以前から内心得も言われぬ魅力のようなものは感じてはいた。
「アァ、、奥に、奥に当たってる。」
「まだまだ、いきますよ。」
「ちょ、ちょっと待って、、これ以上、、、一気に、アンッ、奥には。」
「いいえ、待ちませんよ。一ヶ月近くご無沙汰だった分、しっかりとその体に叩きつけてあげます。」
「本当に、、これ以上は、、、アタシの、、頭、おかしく、、なりゅぅ、、アアアァァァァァァ。」
それからドサッと紅華が敷布団に倒れ込む音がし、客のほうが彼に語りかける。
「あなたの方が先に達してどうするんですか?それにもうこんなにへばって。ほら、起き上がって、今宵はあなたを離しませんよ。」
紅華の乱れように対して客は全くというほど疲れを感じさせない。丸山が男としてなかなか大したものだ感心していると。少し落ち着いたのか紅華のほうが声を出す。
「本当に、ちょっと待ってくれ。一分だけでいい。」
「仕方ありませんねぇ。急いでくださいよ。」
それから少しの間沈黙が続いたかと思うと突然、丸山が張り付いていた襖が少し開き、紅華がそこから頭だけを出す。
丸山は焦り、急いで中に勝手に聞き耳を立てていた言い訳を考える。
「こ、これはその、、、」
チュッ、、、
だがその口は紅華によって塞がれた、熱い口づけによって。
その口づけは十秒近く続いた。そして紅華が唇を離すと客に聞こえない程度の小さな声で、丸山に告げる。
「今晩はこれで我慢しておきなよ。」
言い終わると紅華はそのまま部屋の中に戻り、口づけなどなかったかのように、普段通りの口調で客に話しかけていた。
「待たせてすまないね。店の者に伝えないといけないことがあってさ。」
その後、丸山も紅華の部屋を後にし、休憩室に戻ったが、本を読もうにも一切気が入らなかった。それもそうだろう、彼は今まで他者と口づけをしたことなど一度もなかったのだ。そのせいか、家に帰ってからも当分、この口づけの事が丸山の脳裏から消えることはなかった。
一方、サシャは、家に帰ってきてから顔が赤いままで一言も話さない丸山を、怒っていると思い。その日中、ずっといらぬ気を使っていたのだった。
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