ぬくもりと兎耳のきみ

昼食を食べ終え、ティアは再びタイプライターと向かい合っていた。

文字盤を叩く指は軽快。淀みなく文章が紡がれ、白紙が埋められていく。


窓辺には静かに、タイプの音だけが響き続ける。

しん、と静まった空気だが、ティアはもうそれに孤独を感じてはいなかった。

ナーバスな心ばかりが膨れ上がって、一度は見失いかけてしまったけど。

この屋敷には、もう自分一人ではない。

――今ここには、四人の"家族"がいるのだから。


それを確かめられてからは、原稿の進みも軽やかだった。晴れた頭には鮮明な文章が浮かび、それを指を通して白紙に綴る。

緩やかに続いたタイプ音は、しばらくの後ぴたりと止んだ。


ロックを外して原稿を手に取り、沈黙したままティアはしばし思案する。握った片手で口元を押さえ、眼鏡の奥の真っ直ぐな視線で文章を読み返す。



……最後の一枚、最後の一文に目を通し終え、ティアは小さく首を縦に振った。



「うん………よし。」



囁くような小さい声でそう呟くと、直後ふっとティアの口元が綻んだ。

また一つ、作品が完成した。

出来上がった原稿を纏めて封筒に仕舞い込み、玉紐で留めて封をする。厚みのあるそれを手に持ったとき、書き上げたのだ、という実感が手のひらから伝わってきた。

じわじわと、喜びがこみ上げてくる。…どんなに悩んで大変な過程があっても、この瞬間があるから執筆は止められない、とティアは常々思っていた。


封筒をタイプライターの横に置き、ほっと息をつく。そのまま伸びをするように腕を掲げ、椅子の背もたれに仰け反るように体重を預けた。

達成感のままに、ティアは小さく声を出した。




「できましっ…………たぁっ…!」


「ひゃっ……!?」



…ティアの声に、小さな悲鳴が被さった。

声の方向へ首を回すと、驚いたように胸を手で抑えている真っ白なシルエットがあった。



「あっ…フィユ…?」



ゆったりとしたフード付きのワンピースに着替えたフィユが、固まったように見つめてきていた。

誰にも聞こえないと思って出したさっきの声を思い出して、ティアの頬が徐々に赤みを帯びてくる。

その恥ずかしさを紛らわせるように、ティアは小さく咳払いをして立ち上がった。



「こほん……すみませんフィユ、起こしてしまいましたか?」



遊び疲れたフィユ達四人は、リビングで昼寝をしていたはず…そう思って尋ねたティアの言葉に、フィユは控えめに首を横に振った。



「ううん、ちょうど起きたところだったので…。お仕事、終わったんですね。お疲れさまですっ。」


「ふふっ…ありがとうございます。……っと。」



不意に違和感を覚え、手のひらをぐーぱーと開閉させるティア。フィユは不思議そうに、その光景を見上げていた。



「?…手、どうしたんですか?」


「ああいえ、ずっとタイプを打っていたので…。少し疲れてしまいましたね…。」



いつの間にかティアの手の先は、冷えて凝り固まってしまっていた。

少し早いけどお風呂に入って解そうか…そう考えていると、不意にフィユが袖をくい、と引いてきた。



「ご主人さん…ちょっとだけ、来てくれますか。」


「はい…?…構いませんが…。」




ーーーーー




フィユの後を歩いて、ティアはリビングにやって来た。

部屋に入ると同時、暖かな空気が体を包む。執筆をしていた隣のキッチンも寒くはなかったけれど、やはり暖炉が直接焚かれた部屋は格別暖かい。


その暖炉から少し離れた辺り、窓辺の壁際に視線を向けて、ティアはふっと微笑んだ。…幸せそうに眠り続ける、クート達の姿がそこにあったから。

壁に身を預け、座ったまま静かに眠るリオ。その腰から横に流した大きな尻尾に、クートとユナが抱きつくようにして寝転がり、向かい合ってすぅすぅと寝息を立てていた。三人を端まで覆う、大きな毛布も掛かって暖かそうだ。

クートとユナ、二人の間にちょうど子ども一人が入れそうな隙間があった。



(あの間で、フィユはお昼寝していたんですかね…。)



想像して、思わず笑みを零すティア。なんとも可愛らしいその光景を見逃してしまったのは惜しいな、と思う。





「ご主人さん…こっちです…!」



ひそひそとした声で呼び掛けられ振り向くと、暖炉の近くで正座をしたフィユが手招きするのが見えた。

招かれるまま近づいて、フィユと向かい合う形でティアも座る。暖炉の熱を近くに感じ、ほんのりと眠気を誘われた。



「手、触っていいですか…?」


「手…? こう、でしょうか。」



首を傾げながら、右手をフィユに差し出す。

雪のように白いその手のひらを、フィユは両手でそっと包んだ。

じんわりとした暖かさに覆われ、温もりが手から伝ってくるのが分かる。



「暖かい……。」


「えへへ…ご主人さんのは、ちょっと冷たいね…。」



そう言いながら優しく、きゅうっとティアの手のひらを握るフィユ。普段から高めの体温に加え先程まで眠っていたのもあり、フィユの手から伝わる温度はとても暖かい。温もりが手のひらに広がり、冷えと凝りが解れていくのが分かった。



「左手も、暖めますね。」



フィユに言われるまま左手を伸ばし、また手のひらを握ってもらう。

疲れた手を癒す温もり、フィユの暖かさを感じて、ティアは胸の辺りも暖かな気持ちで包まれるのを感じていた。

不意にその包まれた手のひらに、フィユの視線が注がれていることにティアは気づいた。

ぽーっと、ティアの手を見つめるフィユ。…ゆっくりと、その手を自分に近づけて――



「…いつも、お疲れさま…。」



――手のひらに、静かな頬擦りをした。

気持ちの良い肌触りの頬と、ふわふわしたロップイヤーの感触が伝わってくる。

目を閉じ、ティアの手のひらを慈しむようにすりすりとやるフィユ。その姿に、ティアは少し驚いていた。

…フィユが、いつになく積極的な気がしたからだ。いつもならあまり過度のスキンシップは恥ずかしくて避けているフィユなのに…。


と思っていたら、不意にフィユががばっ、とすごい勢いで顔を上げた。ぱちぱちと目を瞬かせ、自分が頬擦りしていた手とティアの顔を交互に見る。…やがてその真っ白な頬が、みるみるうちに赤くなっていった。




「うぁ……!今のは、その…つい勢いで……」



白い肌をかあっ、と真っ赤にして、俯いたままもごもごとするフィユ。ティアがすぐ近くにいることも忘れ、思わずしてしまった頬擦りだったらしい。


恥ずかしさから俯いてしまうフィユ。

…その表情が、不意に切なさを帯びたようにティアは感じた。



「フィユ…?」


「……ねえ、ご主人さん…。」



どこか不安げな声で、フィユが小さく呟く。

先程までティアに触れていた手をぐっと握り、自分の胸を押さえるようにして。



「ご主人さんが、こうやってみんなのために毎日頑張ってくれて…お兄ちゃんたちも、とっても優しくしてくれて…すごく、嬉しいです。」



「嬉しい。」

呟いた言葉と裏腹に、どこか辛そうな表情をフィユは浮かべる。



「なのに…。嬉しいのに、その気持ちは本当なのに……怖い、って思っちゃうんです…。」




暖炉の炎に照らされた横顔は、少し辛そうで、苦しそうだった。やるせない気持ちをどうすればいいか、自分でも分からない…そう言いたげに。



「こんなに幸せでいいのかなって…。どこかでこの時間が終わって、みんながいなくなっちゃって……不安になってそんなことを、頭が勝手に考えちゃって…。そう思ったら幸せな時間が続くのも、今より幸せになることも、全部が怖くなって……」





俯いたフィユの瞳が、揺れる。

…ティアは静かに、フィユの言葉を聞いていた。


話しているうち、フィユの表情は今にも泣き出しそうになってきてしまう。胸の前で握った拳を左手で包み、ぎゅうっと力が込められる。何かを我慢するように、押し殺すように…。




「…フィユ。」



ティアは、静かに身を乗り出した。

両手を広げ、フィユの体を覆うようにして――



――優しく、フィユを抱きしめた。




「ふゃ……!?」



小さなフィユの体が、ティアの腕に包まれる。

フィユの白い髪が、ふわふわの兎耳が、柔らかなティアの胸に埋められて。

ティアの香りを、体温を、すぐ近くに感じる。




「大丈夫。フィユの側に、いつだって私たちはいますよ。」




ティアの声が、フィユの耳に届く。まるで毛布をかけるように、優しく包み込むように。

白髪を撫で下ろす手から、頬に触れる胸から、ティアの優しい暖かさを感じるうち…胸に詰まっていたものが、温もりの中に溶けていくような気がしていた。




「…前にもフィユとは、こんな話をしましたね。」






ティアの言葉で、フィユの脳裏に過去の光景が浮かび上がる。

この屋敷に来たばかりの頃のこと。

今よりもっと、暗く怯えた目をしていた頃のこと。


その目が見上げる先に、今と変わらない優しさに満ちた瞳で笑いかけるティアの姿があったこと。



『――――――――――――。』



ゆっくりと、記憶の中のティアが言葉を語りかける。



『――――――――。…だから、』



フィユの記憶に、心に、今も大切に残っている言葉。

思い出すだけで気持ちが溢れそうになるくらい、フィユを救った言葉の記憶。


最後の一言と共に、あの時もティアは抱きしめてくれた。



『――幸せになることを、怖がらなくていいんですよ。』










……そうだった。

本当に狭い世界しか知らなくて、誰も信じることができなくて、外の世界優しさに触れることすら怖かったかつてのフィユは、その言葉に救われていたのだと。


ティアが抱擁を解くと同時、フィユはその記憶を見失っていたことを悔やむ気持ちに襲われ、思わず「ごめんなさい」と口にしていた。



「ボク…ご主人さんが教えてくれたことも忘れて、怖くなっちゃって……。」


「…フィユを責めたりなんてしませんよ。誰だって、心に弱さを抱えているものです。…簡単には、消し去れない弱さを。」



自分でさえそうなのだから、とティアは思う。

今もなお、ふとした時に蘇る孤独感に襲われるくらい、自分も弱いのだから……。



――でも、だからこそ。



「一人では、越えられないものがあるから…だからこそ私たちは、一緒に生きていくのでしょうね。」



そっと、ティアはそう呟いた。

眼鏡越しに、きょとんとするフィユを見つめながら。



「…それがきっと、大切な人と生きる理由なんだと思います。

何度同じところで躓いても、隣に誰かが居てくれたら…転ばずにまた、歩き出せますから。」




…そっか、とフィユは思う。

この気持ちを、すぐに乗り越えるのは難しくても。

立ち止まる度に、躓く度に、手を取ってくれる人たちが隣にいるなら…いつかは、きっと。



「そっか…。」



今度は、口に出して呟く。

ここにはティアご主人さんがいて、クート達お兄ちゃんたちがいてくれる。一緒に生きたい、大切な人たちがいる。

そう思ったら……心がふっと、軽くなった気がした。








「…フィユ。」



すっきりしたフィユに、声が届いた。

顔を上げると、腕を開いたティアがフィユを呼んでいる。

腕の中に、おいでと招くように。



「ご主人さん…ボク、もう大丈夫ですよ…?」


「…いえ、その……私が、フィユをぎゅってしたくなったので…。」



口に出すのが恥ずかしかったのか、少し頬を染めながらティアは告白する。

ティアから自分に甘えてきたことに少し驚いて、フィユが呆気にとられていると、だんだんティアの表情が寂しそうなものになってきてしまった。



「ダメ、ですか…?」


「…ううん、……嬉しいですっ!」




ティアからそんな風に言ってもらえたことが嬉しくて、フィユは飛び込むようにティアの胸に収まった。

背中を預けるようにしながら、思わずティアの頬に兎耳と柔らかなほっぺたを擦り寄せて、けれど積極的になりすぎた自分に気づくと少し恥ずかしくなって、えへへ…と幸せそうにフィユは笑う。


その目に確かな光を、生きる希望を輝かせて。


さっきまでよりも、そして出会った時よりも……ずっと明るくなったフィユを、ティアはまた静かに抱きしめた。





――――――――――――――――――――

・ちょっぴり紹介:ティアのこと

年齢は二十代後半。ミディアムヘアの銀髪。赤い縁取りのアンダーリムメガネをかけてる。

顔立ちとスタイルは抜群。だけど同居人が子どもばかりなので、性別的なことを特段気にしない行動が多い。(割と一緒にお風呂入ったりとか。)

そのことをよく(顔を真っ赤にした)リオに注意されてる。

服装は基本的にパンツスタイル。たぶんスカートは持ってない。

冬場はタートルネックのセーター、夏場はノースリーブニットとかかな…。

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