天子

「ところでなんで猫さんはそんな体が真っ赤なの?」


「先程向こうの池で水浴びをしておりやして。なにぶんここじゃ水を得ようにも煮刑用の釜湯か血の池くらいしかねえもんでね」


「その血のせいかもしれないけど体が生臭いし、ピチャピチャ血が垂れてるからちゃんと体を拭いた方がいいよ」


「まぁ…なんだ。歩いてる内に乾いてくるでしょうし気になさらず」


「そういうわけにはいかないよ。仕方ないからわたしが拭いてあげる!」


「え?ちょっと…一体何をする気で」


アマミコは自分の服袖に口を寄せるとそのまま袖を噛み千切った。

そして千切った繊維を虎の体にあてがいこびりついた血を拭き始める。


「はぁい怖くないですよぉ痛くないですよぉ」


「何もオイラのためにそこまでせんでも…」


この虎にはアマミコという少女の存在が理解出来なかった。

どうしてこの少女は見ず知らずの自分のためにそこまで体を張れるのだ、と。

虎は虎眼こがんといい魂を見通す鋭い眼を持っていた。

そのため少しでも言動に悪意が潜んでいれば魂に淀みが生まれるため嘘をつこうものならたちまちそれを見抜いてしまうのだがこの少女の魂は無色透明でまるで真水のように澄んでいた。

発言に嘘はない。恐怖心も無ければ偽善でも見栄でもない。つまる所、邪心が欠片も潜んでいないのだ。

あるのは慈愛の心と子どもが生来備えている剥き出しの純心のみ。

今まで何千何万と汚れた人間の魂を見てきた虎にとってこれはあまりにも衝撃的なことであった。


「気にしないでいいの!」  


「は、はぁ…」


アマミコは丁寧に虎の体に付着した血を拭い取っていく。

すると血で赤く染まっていた虎の体はしなやかな白く美しい体毛を取り戻していった。


「んしょ…んしょ…うわぁっ!」


アマミコは虎の背中を拭いてあげようと試みるが、この虎は一際大きな体躯であったため背中に辿り着くためには虎の足からよじ登る必要があった。

しかし何度アマミコが挑戦しても足の半ば程に到達したところで限界を迎え尻餅をつき振り出しに戻ってしまう。


「いったたた…もう!」


「猫さんデカすぎ!もっとしゃがんでよ!」


「いやぁ…これだけやって頂ければもうもう十分でさぁ」


「いいからしゃがみなさい!」


「……むぅ」


虎は口をへの字に結び困ったような表情を浮かべつつ、渋々足を折りたたみ、自分の背中をよじ登り甲斐甲斐しく自分に世話を焼く少女を見つめた。


「ふきふきーふーきふきっ♪」


アマミコのやり方が上手いのかあるいはすっかりアマミコに気を許したのか虎は目を細めされるがまま体を預けていた。


「ぐぅ…」


アマミコに体を拭かれ、気持ち良さそうに喉を鳴らす姿からは凶暴な猛獣としての面影はなくまるで昔から連れ添った親子のような睦まじさ一色の光景が広がっていた。


「えへへーきもちいい?」


「ええ。お嬢ちゃんは随分と獣の扱いに慣れてるんですね」


「わたし昔から動物のお世話をするのが好きでね。よく屋敷に遊びに来ていた動物達と遊んだり傷の手当てなんかをしているのよ」


「優しい性格なんですな。お嬢ちゃんは」


「ふふっ…でも知らなかったわ。今までいろいろな動物を見てきたけどあなたみたいに大きくて喋ることが出来る猫さんがいるなんて」


「ぐぅ…」


「そういえば名前はあるの?」


「名前…オイラの名前ですか?」


「うん、そう。あなたの名前が知りたい!私はアマミコって言うの」


「アマミコ様でございやすね」


「うん。他所の国の言葉でてん神子みこって意味があるらしくて、母上と父上が名付けてくれたの!」


「それで天神子アマミコですか…それはいい名前を貰いましたな」


「えっへん!それで猫さんの名前は何ていうの?」


「うーん…」


虎は困ったように唸り声を上げる。


「んー?」


「さっきも言った通りオイラ達は決まった形を持たねえもんで、呼び名もいっぱいあるんでさぁ」


「じゃあ一番短くて言いやすい名前でいいよ」


「………エマコ」


「エマコか、いい名前だね」


「ねえ!なんかアマミコとエマコって名前の響きが似てるなぁって思わない?」


「そ…そうですかい……」

  

「うん!きっと私達仲良くなれると思う!」


「ぐぅ…」

  

再び虎は喉を鳴らした。

どうやら照れ隠しのつもりらしい。


それからというものアマミコは取り止めのない話をしては、困ったようにエマコが喉を鳴らす。

そんな微笑ましい様子の繰り返し。


アマミコがそのようにして奴国ふるさとや家族のことなどを話す内に、次第にエマコの方も一言、二言と自分の事を話し始めた。


エマコが言うにはここは地獄といい、汚れた魂に然るべき罰を与える死後の世界であるということ。

自分は地獄に落ちて来た魂を正しき道に導き管理する存在であること。

アマミコは偶然地獄に迷い込んでしまったため、一刻も早く元の世界に戻る必要があることなどを幼いアマミコにもわかりやすいように丁寧に話した。


そうこうしている内に時間は過ぎていき、ついに別れの時がやって来る。


「いっぱいはしゃいだら眠くなってきちゃったなー」


「夢の中で眠気を催すのは目覚めが近い証、きっとアマミコ様のいた世界はもうじき朝なのでしょう」


「そっ…かぁ…」


「ねぇ…エマちゃん。またエマちゃんに会える?」


「アマミコ様はとても綺麗な魂をしている。きっと二度と地獄ここを訪れることはないでしょう」


「えー!?やっとお友達になれたのに!」


「お、お友達?オイラがですか?」


「うん!わたしとエマちゃんは友達!」


「友達…」


虎はしばし考えた末、決意した。

この人間を信じてみよう。

この人間がどのように生きどのようにして生涯を終えるのか虎眼このめで見届けようと。


「アマミコ様、腕を出して貰えますか?」


「こんな感じ?」


「ええ」


アマミコは丁度袖を噛みちぎってしまい剥き出しとなっていた左腕をエマコの前に差し出すとエマコは刀のように鋭く伸びた爪をアマミコの腕の上に乗せた。


するとしばらくしてアマミコの体が眩い光を放った。

光はどんどん腕に集束されていき、腕の中へと入っていった。


「今あなたの魂に生命いのちの種を植えました」


アマミコの腕にはそれを証明するように、発芽したばかりの種子のような双葉の紋様が刻まれていた。


「いのちのたね?」


生命いのちの種はあなたの心を栄養にすくすくと成長し、やがて綺麗な生命いのちの花を咲かせるでしょう。そしていつか生命いのちの花が満開を迎えた時、オイラは再びあなたの前に現れると約束致しましょう」


「アマミコ様がどのように成長し何を成し遂げるのか、とても興味が湧きやした。これは暫しの別れを忍ぶ餞別として受け取ってくだせえ」


「ありがとうエマちゃん。でもきっとだからね、きっとまた会うんだから」


羅刹らせつは嘘をつきやせん。何せ嘘をつく輩を裁くのが生業なりわいなもんでね。ともかくアマミコ様は一刻も早くこの世界から出なければなりやせん。地獄ここに生者が長居するのは危険過ぎる」 


「うん…」


「オイラの背中に乗って下せえ。現世まで送りとどけましょう。体を拭いて貰ったお礼だ」


エマコはアマミコを背中に乗せると、白い体毛をはためかせ暗闇の中を駆けた。


「ふふっエマちゃんの体…あったかくてやわらかぁい」


アマミコは白く柔かなエマコの体に包まれてより深い眠りへと誘われていく。


「どうぞそのままお休みになってくだせえ。次に目が覚める時、アマミコ様の魂は現世に戻っておるでしょうから」


「うん…また会うんだからね…きっとだからね…エマちゃん」


アマミコはエマコの背中に身を預けそのまま眠ってしまった。




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