虎穴

アマミコが陽巫女ひみことしての力に目覚めたのは、ミコトの預言があった日の翌日のことであった。


その日の晩、彼女は不思議な夢を見た。


やけに薄暗く松明の光が頼りなげに照らしている不気味な空間にアマミコは立っていた。


なまじ薄暗く視界が不明瞭なためか、視覚以外の感覚が鋭く研ぎ澄まされていった。

周囲に規則的に設置された松明の炎がメラメラと燃える音、熱、匂いがどこまでも続いていく。

アマミコはすぐにこの出来事が夢であると直感すると同時に、何かを自分に伝えようとしている…いわゆる予知夢の類の夢であると考え、松明たいまつで示された道の向こうへと歩き始めた。


物心がついた頃から霊力が高く予知夢を頻繁に体験していたアマミコにとってこの奇妙とも言える夢は何ら動じるほどのものではなかったのだ。



しかし歩き始めて概ね一里半程であろうか…身体的な疲労こそ感じないものの年の頃十、十一の少女の精神力は既に我慢の限界を迎えていた。

 

どこまで歩いても松明の炎が途切れることはなく道程に何ら変化は訪れることもなくとうとう辛抱耐えかねたアマミコは癇癪を起こした。


「あああああ!もう!なんなのよー!これじゃあいつまで経っても抜けられないじゃない!」


その時だった。


アマミコの声に反応するかのように空間に歪みが生じ始める。

歪みが歪みを呼びやがて目の前に大きな穴を作り出した。


グルルルル…


穴の中から獣の唸り声が鳴り響く。


妙に鼻につく生臭さと冷んやりと底冷えするような感覚を肌で感じながらもアマミコはじっと穴の中を見つめ続けた。


グルルルル…


足音や唸り声がさらに大きくなっている。

どうやらどんどんとこちらに近づいてきているようだ。


「あなたはだあれ?」


松明の炎に照らされ獣の姿が明るみに晒された。

穴から現れたのは全身に血を滴らせた大きな虎だった。


グルルルル…


身の丈は1丈程はあるだろうか。

地上に生息するどの生き物よりも逞しい体と肉骨を切り裂く鋭い爪と牙を兼ね揃えたこの虎はまさしく獣の頂点と呼ぶにふさわしい姿をしていた。


相対する少女と猛虎。 

どちらが強いか。

捕食者はどちらか。

被食者はどちらか。

誰が見ても明らかであった。


虎はアマミコを視界に捉えるとゆっくりと近づいていく。虎が歩くたびに体から血が滴となってポタリポタリと地面に落ちた。


少女は目を見開いて驚きはしたものの、叫んだりその場から逃げる素振りを見せなかった。


「おおきい猫さん?」


「グオオオオオオオオ!」


虎は自身の強さを知らしめるため全身の毛を逆立て、雄叫びを上げた。

地鳴りのような雄叫びに松明は吹っ消えさらに周囲は薄暗くなる。

薄暗くなっても猛獣が放つ息も詰まるような威圧感と射抜くような青い眼光は更に増していった。


しかしアマミコはまるで動じる様子は無い。

それどころか虎に自ら近づいていった。


「お腹減ってるの?」


「!?」


虎はたじろいだ。

自分の姿や挙動に動じる様子はない。

一体なんなんだこの少女は。



そんな虎の錯綜など露知らずアマミコは何時ぞやに見た蜘蛛が白蝶を喰い殺す光景を思い出していた。

生々流転せいせいるてん…命をつなぎとめるための命。食べる命と食べられる命。


わたしは白蝶で。あの大きな猫さんが蜘蛛なんだ。

わたしはここで食べられてしまうんだ。

猫さんもお腹が空いてるみたいだからしょうがないよね。


「いいよ、わたしを食べても。お腹空いてるんだもんね」


アマミコが今抱いてる感情は諦めとは違う。

強いて言うなら『献身』であった。

自然の摂理に逆らうことはせず、自分が目の前の動物の為になにが出来るのかをひたむきに考えていた。


虎はクンクンと鼻を鳴らしアマミコの体の匂いを嗅いだ。

ようやく敵意が無いことに気づいたのか逆立てていた体毛を元に戻した。


その間もアマミコはただ冷静に虎の様子をじっと見つめていた。


「綺麗な毛並みだね」


虎が警戒心を解いたと知るや否やアマミコはサラサラとした虎の体毛を手櫛で解いていた。

慈しむように優しい手つきで。


「オイラのことが怖くないんですかい?」


驚くべきことに虎は人語を話し始めた。

この虎はただの獣ではない。

物の怪の類だったのだ。


「怖いって何が?」


「オイラが近づくと皆食べられるって思うのか逃げていくもんで」


「やっぱり猫さんはわたしを食べたいの?」


「いや…食べられなくはありやせんが食べる必要がねえんです」


「ふぅん、そうなんだ。そんなに体も大きいのに」


「オイラ達は羅刹らせつと言いまして、生物とは違い魂だけの存在でありやす。だから決まった形を持たねえしお腹が減ることもありません」


「なぁにそれ?じゃあ死んでるってことじゃん」


「生きてるとも言えますし死んでるとも言えますな」 


「さっきから猫さんが言ってることよく分かんないよ」


「オイラからすればお嬢ちゃんの方が良く分かりまません。何故オイラに食べられると思ったのに逃げないんです?」


「わたしの国では不作の時期は猫を食べる時だってあるよ。でも流石にあなたは大きくて食べられないし逆にわたしが食べられちゃうよね」


虎は少女の話を物珍しそうに静聴していた。


「わたしが逃げなかったのは猫さんに食べられても死ぬわけじゃないからだよ」


「猫さんにわたしが食べられたら、わたしの体は猫さんの物になってしまうけれどわたしの魂は違う生き物としてまた生きていくんだって。それがせいせいるてん?だって父上が言ってたの」


生々流転せいせいるてん。親父の教えがこんな年端もいかねえお嬢ちゃんにまで伝わっているとは…驚いた」


「それにこれはわたしが見ている夢の出来事。きっと死ぬことはないわ」


猛虎には一際人懐っこい笑みを浮かべた少女の姿が自分よりも遥かに恐ろしく尊い存在に思えた。

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