星の送り人
森山 満穂
星の送り人
銀湾が、藍より少し深い色をした夜空に広がっていた。森深い辺境の地にあるその村からは、無数に輝く星一つひとつの光の輪郭がはっきりと見える。ふと、澄んだ夜風が南東から吹き抜けてきて、草木の香りを匂い立たせた。少女が纏った麻布の衣と左右に結った三つ編みが、それに倣って軽やかに揺れる。この調子だと、明日も晴れそうだ。そう思いながら、少女は胸を撫で下ろした。
「セイラ」
彼女が名を呼ばれて振り返ると、父が茅葺きの家から出てきていたところだった。がたいの良い身体を茅葺きの暖簾から這い出させて、のそのそと薪場に向かう。
「明日は忙しいんだから、早く寝なさい」
低く威厳のこもった声で薪を拾い集めながら言う父にセイラはものともせず、満面の笑みで空を見上げた。
「空の調子を見ていたのよ。明日もちゃんと晴れるかなって」
夜空に浮かぶ星々が呼応するようにあちこちで瞬く。南東から風が吹いてきたから大丈夫、そう言って父の方にくるりと身を翻す。
「心配しなくても、あの日はいつも晴れるさ」
父の声が森閑のなかで穏やかに響いた。そして、父はいったん薪を地面に置いて、自身の手のひらを見つめた。分厚く大きな手のひらの全体は、表皮が裂けて赤黒い火傷のあとが残っていた。それは皮肉にも、星の形のように見える。しばらく父はじっと手のひらを見つめたあと、セイラにぽつりとつぶやいた。
「……すまないな」
その意味に気づいていながらも、セイラは明るい声で答える。
「なにが?」
「お前に、こんな役回りをさせることになって……」
しんと、森がもとの静寂を取り戻す。父はセイラの傍に寄ってきて、彼女の手を取った。細く長い指とすべらかな手のひら。十五歳の少女らしい、傷一つない美しい手だった。父はいたたまれない表情で、愛おしそうにその手を撫でる。セイラは微笑んで父の手を両手でぎゅっと握った。
「そんな顔しないでよ。わたしは全然気にしてないよ。むしろ村の役に立てて嬉しい」
セイラがにこりと笑ってみせると、父は少し躊躇ったあと、力なく笑った。頼もしいな、とこぼす。父の手をすり抜け、再びセイラは身を翻す。
「ちょっとだけ神殿にあの子を見に行ってくる」
「今日はもう遅いから、明日にしなさい」
「ちょっとだけだから」
そう言うと、父の制止を振り切ってセイラは村の中心部に駆けていった。
広場の中央から少し外れたところに、神殿はあった。村人が暮らす茅葺きの家とは違って、その建物は竹で組まれた頑丈な作りのものだ。緑の染料で染められた麻布の暖簾をくぐると、セイラは神殿の中に足を踏み入れた。
敷き詰められた竹のおかげで外の光は一切漏れることはなく、ただ純粋なる闇がそこには広がっていた。その中に浮かび上がるようにして、神殿の中央に橙色の光が煌々と輝いている。中心部は穢れのない光量に満ちていて、端々に揺れる光の波紋は脈動のように規則的に屋内を漂っていた。セイラはその光に近づいて目線を合わせると、微笑みかける。
「明日はよろしくね。お星さま」
答えるように、一瞬だけ光が輝きを増したように見えた。セイラの前、神殿の台座に大人しく腰を据えているのは、まさしくひとつの星だった。
六万年前、村は日照りで麦も米も満足に育たず、収穫ができない状態にあった。だがある夜更け、どこからともなく星が村の広場に墜落した。その星は地に落ちてもなお、まだ燦然と輝き続けていて、村人はその光の美しさに心奪われた。そして、その星を大切に保管することにした。すると、翌日から雨が降り出し、日照りが解消されて不作を乗り越えることができた。それ以来、村人はこの天のご加護は星のおかげなのだと信じ、村の平安の象徴として神殿を作り、星を祀るようになった。
だが、そうして五年が経った頃、徐々に星の光が弱くなり始めた。星はもう、寿命が近かったのだ。日に日に弱まっていく星を不憫に思った村人は、星を空に帰すことにした。だが、普通に星を空に放ったのではその様子を見た他の村の者たちがこぞって星を捕まえにくるかもしれない。それでは星たちに迷惑がかかるのは明白だった。そこで思いついたのは、空いっぱいに星が降る夜──流星群の日に星を放してやることだった。夜空の星が一斉に動き回るその日なら目立つことはないし、かわりにこの村を守ってくれる別の星を得ることができる。
当日、満天の星々が夜空を流動する中、老いた星はゆるやかに空へと昇っていった。そうして入れ替わりに新たな星を手にして、村人はまた、神殿にその星を祀った。星を迎え、寿命が来たら空に帰すという行為を繰り返している間は、村は日照りや水害に襲われることはなくなり、人々は平穏な生活を営むことができた。
そうして六万年もの時が経った今でも、その伝統は脈々と受け継がれていた。五年に一度、流星群が降る夜、村では祭りと称して星を解き放してやる【
伝統になった星を捕まえ、解き放つ作業は、いつしか星を管理する役目をそれぞれ担う者が決められるようになった。一人は新たな星を捕まえる役目を担う【
セイラはその一族の末裔だった。代々一族では、星を包み込むことができるほどの手の大きさになる十五歳から、星守としての役を担うと決められていた。そして十五の歳を迎えた今年、セイラは初めて星守としての役を担う。
セイラは星の光の届く範囲に手を翳した。光の周りのあたたかな気流を手のひらに感じながら、ゆるやかに撫でる。
「もうすぐ、故郷に帰れるからね」
また、星が小さく頷くように瞬いた。ゆっくりと動く手のひらが橙色に色濃く染まっては、淡く弱まっていくことを繰り返している。すると外から聞き慣れた声が聞こえて、セイラはその手を止めた。
「セイラ」
セイラは暖簾をくぐり、外に顔を出すと、入り口の手前に父が立っていた。
「もういいだろう。帰るぞ」
セイラが父の背後の空を見上げると、先程よりも星の数が少なくなっていることに気づいた。どうやら真夜中は超えてしまったようだった。はぁい、と気だるげに答えると、セイラはもう一度だけ屋内に向き直って、星にまた明日ね、と告げた。神殿から出てくると、父がしかめっ面でセイラを凝視していた。だが、何も言うことはなく、帰途に先立って歩き出す。セイラが不思議に思いつつもその後について歩き出してしばらくしてから、父はやっと低い声でつぶやいた。
「星を生き物のように扱うのはもうやめなさい」
「どうして?」
先行く父の背中を追いながら、セイラは問い掛けた。父は振り向かないまま、言葉を重ねる。
「手離しがたくなるだろう。星は繊細なんだ。躊躇でもしてこちらの補助が鈍れば、上手く飛び立てなくなる」
星守が代替えをする際、まずは【送り人】として星を包み抱える感覚を掴む経験を積んでから、【迎え人】として星を受ける役を担うことになっている。セイラは明日、【送り人】として星を送る役を担うのだ。
「でも、星は生きてるでしょ?」
その言葉に父は立ち止まって、セイラを振り返った。父を見るセイラの眼は、星灯りの純粋な光に染まって、きらきらと輝いていた。まるで幼子のように。
セイラが初めて星を見たのは、五歳のときだった。星守の役割について教えられ、祖父に連れられて実物の星を見に神殿にやって来たセイラの前に、星は鎮座していた。最初はただただその圧倒的な光の美しさに見惚れているだけだったが、次第に台座に大人しく腰掛けている姿がいじらしく思えてきて、傍に寄って「綺麗ね」と呼びかけてみた。すると、星は答えるように小さく瞬いた。セイラはその時、この子は言葉がわかるのだと思った。それ以来、星に話しかけるようになったのだ。
「まもなく尽き果てる命だ。それなら最後くらい、願いを叶えてやるために努力しなさい」
そう言い捨てて父は再び歩き出す。セイラは俯いてその場に立ち尽くしていたが、しばらくするとまた、黙って父の後を追っていった。家路を辿る間、二人の靴が土を踏む音だけが夜の静けさに響いていた。
家の前に着くと、そこには薪で火焚き場が組まれていた。父は火打ち石を叩き、おが屑に火種を生み出して、それを薪の中に投げ入れる。火はあっという間に大きくなって、その燭光を闇に落とした。紅の火の粉がパチパチと弾けて、空の色に吸収されていく。
「少し温まってから寝なさい」
焚き火の傍に腰掛けながら、父が言う。セイラは黙ってその隣に座り、両手を火に翳した。しばらく二人は言葉を交わすことなく、目の前の炎を見つめていた。揺らめくその光は、星のそれとは違って、時折激しく獣の咆哮のように虚空に立ち上る。ごうごうと燃え盛る炎の音。ゆるやかに吹き抜ける風の音。細やかな音たちが沈黙を満たしていく。
その時、セイラが小さな声で「ごめんなさい」とつぶやいた。父は音もなくそちらに顔を向ける。
「わたしまだ、子どもだった」
しおらしく囁かれたその声からは、反省の色が見てとれる。父はセイラが焚火に翳している両の手のひらに目をやった。彼女の傷一つない手のひらは、混じりけのない炎の色を映して赤く彩られている。父は目を伏せて、ため息混じりにつぶやいた。
「まだ子供のままでも、良かったんだけどな」
言葉の余韻から後悔が滲み出て、伏せられた双眸からは光の気配が消えていく。過去と未来を憂いながら、父の視線は記憶の彼方に向けられていた。
以前までの星神祭では、セイラの祖父と父が【迎え人】と【送り人】、二つの役を交代交代で受け持っていた。だが三年前、祖父が急死し、星守の役を担えるのは父一人になってしまった。【迎え人】と【送り人】は時間と体力の問題で、一人一役しか受け持つことができない。そして、代々星守の役を受け継いできたのは男だったため、星守の仕事は男がすることが暗黙の了解のようになっていた。そのため父は村の男たちに星守の役を担ってくれないかと頼んで回った。だが、引き受けてくれる者はおらず、結局娘のセイラに役を担わせるしかなくなったのだ。
星守は素手で星を包み抱えて、夜空に放す。それが長年星を村に縛り付けている分の、せめてもの償いだった。受け継がれてきたその仕来りを途絶えさせることはできないが、娘であるセイラの手に傷を負わせてしまうことに、父は居た堪れない気持ちを抱いていた。
「お父さん」
凛とした声が夜闇に煌めく。父が顔を上げると、セイラがむすっとした表情を浮かべて見ていた。
「さっきも言ったように、わたしは大丈夫だから」
先程の弱気な態度は何処へやら、気丈な態度ではにかんで、セイラは言葉を続ける。
「お父さんやおじいちゃんの背中を見て育ってきたんだよ。星守の役を担うこと、むしろ誇りに思ってるんだから。お父さんは星守の仕事に誇りを持ってないの?」
父は風の声を聴くように一度目を伏せてから、星々が輝く空を見上げた。そして、星は、と前置きして、言葉を紡いだ。
「願いの結集だと思うんだ。皆が祈りを捧げれば、星はそのために命を燃やし、村を救い、平和という希望を与えてくれる。そんな星を、皆の願いを守るのが私たちの役目だ」
やわらかな眼差しを湛えた瞳の中で、星の輝きが波打つように瞬く。その顔は、星守という仕事に誇りを持っている顔だった。だが、その表情は途端に曇り、視線は自身の手のひらに向けられる。この世界で一番痛々しい星が、炎の光を浴びて手のひらの中でゆらゆらと生きているようだった。
「だがその分、懸けられる期待や重圧も大きい。傷も負う。その重荷を、お前に背負わせたくは、なかったんだ」
言葉を握り込むように、拳がつくられる。束の間、火の粉が唸りを上げて空に舞い上がった。
「お父さん」
土を踏み締める音とともに立ち上がったセイラの声が降り注ぐ。再び二人の瞳がかち合った時、ごおと炎が風に靡いた。セイラの熱を帯びた眼差しを後押しするかのようなゆらめきだった。
「わたしのこと大切に想ってくれるのは嬉しいけど、もっと信用してほしい」
両脇で握り込んだ拳の力がいっそう強くなる。意志を持った声が、夜に溶けずに父のもとに確かに届く。
「わたしはお父さんの娘で、星守の血を受け継ぐ者。どんなに辛くても傷ついても役目を果たす覚悟はあります」
父をまっすぐに見つめるセイラの眼は、背後に瞬く星よりも遥かに尊い輝きを放っていた。父はしばらく凛々しい娘の姿に目を瞠っていたが、フッと笑みをこぼした。そうだな、心配いらないな。そうつぶやいて、セイラに優しい笑みを向ける。もうわだかまりなどないような、晴れやかな笑みだった。セイラは笑顔で頷いて、父の隣に軽やかに座る。
「お父さんに心配かけさせないくらい立派な星守になるから、もっといろいろと教えてね」
そう言いながら、首をかしげて子供っぽくはにかむ。父は苦笑いを浮かべながらも、それでも彼女を愛おしそうに見返した。南東から風が吹いて、あたたかな空気が二人を包む。寄り添う親子の姿を満天の星々が楽し気に煌めきながら見守っていた。
*
翌日の夜、村には祝福するかのように清々しいほどの快晴がもたらされた。昨夜よりも多くの星影が優美に空を染め上げながら、それを見上げる人々の瞳にいくつもの光彩を燦然と棚引かせる。広場には村人たちが神殿を囲んで立ち尽くしていた。皆、静かにその時を待って、両手を組みながら最後の祈りを捧げる。神殿を囲む村人の輪の中心に立っていた父は、注意深く星たちの動向を見守っていた。重力に耐えきれず、丸い光が楕円状に変わるのが、まもなく流星群が動き出す合図だった。そこここで星が瞬きの合間に十字を描く。その時だった。山頂に近い星の光がぐにっと楕円状に変形した。父はそれを確認すると、神殿に歩み寄って中に入る。神殿の中では、セイラが台座の正面に立って星を見ていた。凛々しい表情が、星が放つ光の中で浮き彫りになる。
「セイラ、そろそろだ」
セイラは一度深呼吸をして、真剣な眼差しを再び星に向けた。星はいつもと変わらず、穏やかな橙色の光を纏っている。セイラは両手を星に寄せた。心地よい気流を感じる範囲からもっと深くへ、その手のひらを近づける。あたたかさが熱さに変わった頃、下から掬い取るように星を包み込んだ。途端、皮膚が焼ける音とともに痛みが走る。橙色に満たされていた室内が幾分か暗くなって、指の隙間から漏れるわずかな光が手元を照らしていた。星を包んだ手のひらを持ち上げて、背後でその様子を見守っていた父を振り返る。暖簾を上げてくれていた父に大丈夫、と笑顔を向けると、セイラは星を包んだ手を大事そうに胸元に持ってきて神殿を出た。
外に出ると、村人たちの視線と星々の輝きに出迎えられながら、父に誘われて広場の中央に歩いていく。そして並んで立ち止まると、セイラは空を見上げた。点在する一面の光が、それを受けてほのかに大河を描く夜空の濃淡が、幾星霜もの物語を繙くように果てしなく、頭上を彩っている。すると、焼けた痛みが強くなって、手の中の星が身じろきしたのがわかった。久しぶりに仲間の姿を見て、興奮したのかもしれない。セイラは意識をそちらに向け直して、軽く包み込む力を強くする。
「来るぞ」
父の静かな声で再び夜空を見上げる。その瞬間だった。一閃、光が駆け抜けた。それを皮切りに、ひとつ、ふたつ、みっつ、それから数え切れないほどの星が夜空を駆け回る。幾筋もの星の軌跡が光の繭となって世界を包み込む。それらは時折低い空に降り落ちては空の裾を白く染めていた。幻想的なその光景に見入っていると、再び父の合図が飛ぶ。
「今だ」
セイラは頷いて、星を包み抱いている手を空に掲げる。蕾が花を咲かせるようにゆっくりと手をひらく。橙色の光が広がって、村全体を明るく照らす。星が少しばかり宙に浮かんで、皮膚が引き剥がされるような痛みがセイラの手のひらに走った。だが、セイラは痛みを隅に押しやって、背中を押すようにそっと、星を仲間のもとへ誘う。すると、星はゆるやかに行き交う光の中に飛び立っていった。仲間が待つ群れの中へ勇んで駆けていくように高く高く、弱弱しかった光が次第に息を吹き返すように強くなっていきながら、橙色の星が瞬き空に昇っていく。その様子を見ながら、セイラは昨夜、父が言った言葉を思い出していた。
『実は星は、日々進化を遂げて五年以上、それよりも長く生きられるようにはなっているんだ。
だが、願いは、叶おうが叶わなかろうが、必ず手放さなければならない』
星が昇って行った先には同じ色をした、橙色の星がいた。彼らはぶつかり合うことはなく、もとより空にいた星がその場所を譲るように夜闇を降り出した。そうして、放物線を描きながらこちらに向かって駆けてくる。光を弾けさせ、尾を引きながら大きくなる光が次第に色濃くあたたかな橙色に染まっていく。
『そして、また新しい願いを紡ぐんだ』
父は空に両手を差し出して、星を迎えた。あたたかな色が村全体を包んで、星がゆっくりと、父の手のひらの中に落ちる。その手を胸の前に引き寄せると、我が子を抱くような優しい手つきで星を包み込む。わずかに漏れた光が生まれたての拍動のように強く瞬いて、戻った夜闇に息づいていた。星を包み抱き目礼する父の姿は、まるで祈りを捧げているようだった。村人たちも目を閉じて、組んだ両手を額に寄せる。中には十字を刻む者もいた。セイラもまだ新しい火傷の跡を庇いながら、軽く手を組み、目を閉じた。隙間からもたらされた冷たい風が、焦がれた手のひらを柔らかに撫でる。先程までこの手の中にあった星のぬくもりが、少しずつ吹かれて消えていく。新しい願いが、この村で再び紡がれる。
そうして星の声を聴くように静謐で長い祈りが終わると、父は神殿に向かう。セイラは父が中に入れるように麻布の暖簾を上げた。父が神殿に入った後、ふと夜空を見上げる。流動する光の中で、静かに橙色の星が夜空に腰掛けている。懐かしい星の面影が、遥か彼方にいってしまっても見えた気がした。
「さようなら、お星さま」
セイラは微笑んでつぶやいた後、身を翻して神殿の中に入っていく。呼びかけられたその星は、答えるように一等強く瞬いた。
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