とある聖者のモノローグ
違うんだよ、聖なる身になれば俺の罪だってすべてまっさら、キレイになると信じ切っていた。
奴隷の身分だった俺が神を知るってえのはこりゃまた大変なことだったんだぜ。まず読み書きの問題からだ、小僧のおつかい程度の計算だってろくにできやしねえ。奴隷ってのはな、そんなモン知らなくったって生きてける。
俺はそんなアイツにしがみついた。説教が終わるとまずアイツのとこに駆け寄って、神父さま神父さま、もっと神さまのこと教えてってなあ、懇願をした、その腰の――艶やかで滑らかな青い青いヴェールのような布、奴隷の身からしちゃあおよそこの世のモンたあ思えないその布を、衣服として、聖なるころもとしてギュッと締めるその、ひも、そこに俺はいつもすがりついていた。
俺だってあんときゃガキだったさ。十だ。あんときゃ自分の歳さえ数えられなかったが――片手を超えちゃ、難しかったんだよ、なあ、わかるか。わかるのか。
俺はキッと両目で彼を見上げてたよ。いつだってな。……のちにライオンの目だねとソイツに言われる、少数民族特有の橙色の両目で、な。
「神父さま、神さまのこと教えてくれなかったら、いますぐにこのヒモ解いちゃいますからね」
「やあハーレ、それは、困るなあ、やめてくれないか」
「だったら、神さまのこともっと教えて」
「……ハーレは神さまのことが知りたくなるんだねえ」
「だから、いつもそう言ってるでしょ! 神父さまがいっつもいっつもはぐらかすんだ」
彼は――ヌイマン神父は、しゃがみこんで、……穢れた奴隷のガキの、俺の頭を、撫でた。
「神さまのことが気になるひとはね、神さまにも気にされているんだ。
……それは、とても豊かな恵みだ。
「……ぐれーす?」
「はは、……難しい言葉だからわからなくても無理はない」
「そうやってまた俺が奴隷だからって!」
「ううん、違うよ、ハーレ。……グレースなんて市民だってわかっていないさ」
市民のことをなんだか悪く言っているらしい――俺はその事実にポカンとしていた。
「ハーレのほうが、よっぽど神さまに近いんだよ」
「だったら、だから神さまのこと教えてよっ、ヌイマン神父――」
「だが、ハーレが神さまについて知ってしまえば、
……ハーレはもしかしたらいまより神さまから離れてしまうかもしれない」
「へ? ……なんで……?
だって、神さまのこと知れば、きっと、俺、いまよりもっともっと、あ……あい……」
「愛せる、かい」
「そう、いまよりももっと神さまのこと愛せるって誓えるよ」
「……誓っちゃいけない。誓っちゃいけないよ、ハーレ」
いつもの、穏やかな、笑みのまま。
でも、その顔は、なぜかどこか陰っていて。
「聖典……神さまの言葉をしるした本にね、にちゃんと書いてあるんだ、『誓ってはならない』って。
ハーレ、いまこの瞬間から君は誓えなくなった。わかるかい」
「……は? ぜんっぜん、わかんねえけど」
「つまり、神さまの本にそう書いてあるって知らなければ、ハーレはほかのひとにもしもね、『どうして神さまの禁止したことをなしたのか』と訊かれても、知りませんでした、だって本を読める身分じゃなかったから、って言える。
でも、ハーレはもう、知ってしまったよね。……誓ってはならないということ」
「……え……?」
「つまり、そういう、……どうでもいいようなことで争うようになる」
そのときの俺は、ぞくっとした。
――ヌイマン神父のそんなに皮肉っぽい顔を見たのははじめてだった。
その蒼い目で俺のオレンジ色の目をぐっと見つめてきた。
穴があくかのように。
「それでも、ハーレは、神さまに従って歩みたいのかい」
俺は――こくり、とうなずいた。
自分でも、自覚していない、うなずきだった。
「……よし」
ヌイマン神父は、予告もなしに俺の細い腕を――グイとつかんだ。
あまりに強い力。
そのまま、歩きだされてしまった。
ほかの奴隷たちの奇異の視線。
「……痛い、痛いよ神父さま」
「これからは、ヌイマン先生、と呼びなさい」
「……痛いんだってば! そんなに強く引っ張らないでよ!」
「敬語を使うこと!」
「敬語なんて、俺、知らねえよ!」
「これから努力して覚えなさい。……私が徹底的に仕込みますよ。ハーレ」
神父は――ヌイマン先生は、かるがると、奴隷街の、外へと、出ていく。
……俺ひとりだったらけっして越えられない壁だった。
生まれてはじめて来る、壁の外、は、信じられないくらいピカピカで、汚物がなかった。
そこでやっと、俺は、腕を離してもらえた。
「もう、君は、奴隷ではない。……ハーレ・ヌイマン。私の名字を与えます」
そして、ヌイマン先生は、哀しそうに――どこか泣き笑いのような顔で、言った、
「君は知っていくでしょう。そしてそれゆえに、罪深き者となるのですね」
俺は、先生が、なにを言ってるのか、……そのときはほんとにほんとになにも、わからなかった。
ただ奴隷区の壁の上に輝いている太陽があんまりにもギラギラしていて参ってしまった、その光に圧倒されていた。
★
そして俺の修道生活が開始された。
修道生活というのは厳しいものだ、とは先生から聞いていた。だが奴隷の身だったころからたいして時間も経っていなかった俺は正直、
ああわれらがセントコンフィーナ修道院の美しさよ。
均衡取れてじつに端正、おおげさでありながらも適切。重厚でどっしりかまえてえへんと威張る、建物だ。そう、そうだぞわれらには「このくらいこそふさわしいのだぞ」って、町じゅうに世界じゅうになんなら天の楽園にさえも主張しているかのような――は、はは、
われらが修道院の――かくも罪深き美しさよ! ああ、護り給え、護り給え、われらが罪を……告白を……。
……聖なるしらべが聞こえてくる。どこからか、いつも、鳴り響いてくる。
聖歌だ、合唱だ、――福音は来たると高らかに高らかに歌い続けているのだ。
修道院で、もう何年、何十年、いや何百年ももう続いているのだと修道院長が誇った、しらべ。
「神よりひとつ短命」なのだという、サンタコンフィーナ修道院は――たしかに、
エンジェルス・ソプラノ。選ばれた少年だけが人生のほんのいっとき、その声をもつという。
俺は違った。俺は、天使に選ばれた声をもたなかった。ただ儀式のときにはいつも縮こまって歌声を聴いていた。きれいだと思った。救いだと思った。だが俺は先輩司祭たちのように涙をはらはらと流すほど感動することはできなかった。そういうときには俺はいつも、自分が奴隷の出身だからかとそっとうつむいて心底、恥じた。
それだけではない。
俺は、いつでも恥じていた。
奴隷時代と違って本も読めるようになりゃヌイマン先生とおなじ重厚な服に身を包む。
街を歩けば、かつての俺みたいにみんなが手を出して恵みを求めていたのさ。
俺はなんどもなんども個人的にヌイマン先生の部屋を訪れた。変な深夜に、だ。
ヌイマン先生のベッドにすがりつくようにして嗚咽ともに懺悔を繰り返した。
「ヌイマン先生。私、おかしいんです。罪人なんです。――ちっとも救われたと思えなくて」
俺はいつだってそう感じていた。
しかし、ヌイマン先生は、言ったのだ。
優しく。そして、残酷に――。
「私は、神ではないよ。ハーレ。……それとも私を神としてしまって、いいのかい?」
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