ぶどう「ぐじゅぐじゅのつぶつぶ」
たわわに実っているぶどうを、怖いと思いはじめたのはいつからだったろう。
帰り道ではいつもぶどう畑が見えた。なだらかな山々を背景にして、広々と広がる、ぶどうの屋根、いくらでも豊富にその果実が垂れ下がる風景。
ご近所さんの農家さんたちのつくっているぶどう。農家さんのおじちゃんやおばちゃんは優しくて、ランドセルをしょってかたわらの道をゆく私にいつも手を振ってくれたので、好きだった。くしゃっと折り紙みたいになる紙も、たまにぶどうをくれる手も、近づいたときにすこしだけ感じる自分の祖父母となぜか似ている体臭も、私にとっては、すべて懐かしく人生の原点の風景だ。
よくぶどうの実を口にいっぱいにしながら帰った。
家に帰ると、口も服も汚してと、都会出身の母に怒られた。
ぶどう農家さんたちを、なんとなく避けるようになってしまったのは中学生に上がったころからだろうか。学校への行きも、帰りも、ぶどうの下に立って仕事をして、おんなじ表情でおんなじふうにおんなじ角度で私に手を振ってくる、まるで不変なおじさんやおばさんを、私はどこか不気味なものに思いはじめ、うっすら嫌悪しはじめた。ぶんぶんと向こうが手を振ってきてくれても、軽く頭を下げて、そのまま通り過ぎるようになった。
ぶどうで口も服も汚さないようになった私について、母が言及したことはない。今日はぶどうは、などと訊かれたこともいちどもない。
なんとなく、私は田舎がかったるくなっていたのだろう。私の中学生活も終わりが見えはじめたころ、大人の都合とやらで一家が都会に戻ると決まった。でもりっちゃんの故郷はここなのだから、残りたいならば残ってもいい、高校三年間くらいはこっちのおじいちゃんおばあちゃんが面倒を見てくれるはず、好きにしていいのよと母にも言われたが、いや私も都会に行く、都会で女子高生になる、と、そっけない素振りで、言った。
高校も大学も都会で過ごした。驚くべきことに、ぶどうなんて、年にいちど見れば、多いほうになった。
さて、社会人になったいま。
お葬式があって、ひさびさにここにやってきたのだ。ランドセル姿ではない。慣れた、スーツ姿で――。
記憶にあった牧歌的なぶどう畑の風景はなくなっていた。
だって、そのままだったのだ。
緩やかな山々も。ぶどうの棚も。
手を振るおじちゃんおばちゃんも、嘘でしょう、おなじ――。
立ち尽くしていると、いつもの、おじちゃんがやってきた――。
「りっちゃん。元気かい?」
たわわに実ったぶどうを、手渡された。
私が呆然としていると、おじちゃんは、……やっぱりいつもみたいに、くしゃっと笑ったのだ。
手のひらいっぱいに載る、水分をたっぷり含んだ、ぐじゅぐじゅのつぶつぶ。
突き上げる、感情。
……それは、恐怖だった。
いつから。
いつから、私は――
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