戦争「蝉が鳴いたら戦争なんだよ」
蝉が鳴いたら戦争だ。
黒板に書かれたまっしろいチョークと、可哀想に僕たちなんかのためにお盆前にも関わらず休日出勤しなければならない補習の先生のだるっとした解説と、意味も意義も感じ取れないよくわからない数式たち。
蝉は、校舎の壁なんか存在しないかのようにみんみんみんみん鳴き続ける。
蝉が鳴いたら戦争なんだ。
「……こら、
僕が、呼ばれた。正確に言うなら「僕」という人間に知らず知らず貼りつけられていた、「豊木」という名字のラベルが、だけども。
先生というのもばかだよなあ。聞いてるか、と言われれば、答えはそれこそ数学風に言えば解はひとつに決まるじゃん、聞いてます、だよ、それに決まりだよ、それ以外のこと言えるわけないじゃん。たとえばここでね、聞いてません、だとか言える生徒なら、最初からここにはこないの、そうでなければ、それはマイペースなただの変人だから、やっぱり最初からここにはこないの。こんな、中学二年の夏休みといういちばん楽しい時に、学校なんか、補習なんか。だってそうだろう? 図形の証明問題みたいに、証明してやろうか? いいかい、まず聞いてませんと言える生徒は僕の分析と考察によればふたつにわかれる、ひとつはわからないことをわからないと素直に言えるタイプの優秀なやつで、もうひとつのタイプは「聞いてません」とか答えて教師にもクラスメイトにも「変人」と思われたってかまいやしないマイペースタイプだ。僕はね、凡人なの。おあいにくさま。
「聞いてません」
そして、僕は答えた。自分でも不可解なくらい、不可解だ、聞いてますって言わないのは僕という人間の致命的な、ミスかな。
聞いてます。
聞いてません。
聞いてます。
みんみんみん……。
先生は曖昧な顔をしてよくわからない頷きを小刻みにみせると、振り返ってふたたびトントンと黒板に向かい始めた。
トントントン。トントントン……数式がそこに書きつけられているけれど。
そんなものよりもっと大切なことを僕は知っている。
蝉が鳴いたら戦争なんだよ。
先生への質問を終えて、補習が終わったのは夕方の五時だった。
「おおい、豊木」
校舎からでると、グラウンドの真ん中から
安然はちらりと他の部員たちを伺うと、こちらに駆けてきた。声をひそめて、僕にきいてくる。
「おい、大丈夫かよ、
「問題ないよ。みんなが思うより、あのひと、なんともないし」
「でも話がつうじないだろ」
そうだね、と僕は笑っておいた。
「それより、安然。そっちこそ、準備、大丈夫?」
「は? なにが?」
「ほら、蝉が鳴いてるでしょいま」
「うん」
「戦争が起きちゃって世界が滅びるからさ」
みーん、みんみん。
安然は、顔をふしぎな形にゆがめた。
「……おまえ、まだそんなこと言ってるのか? 小学校でそういうのはもう卒業したかと――」
僕は静かにほほえんでおいた。
「僕は、ほんとうのことを、教えてあげてるだけさ」
――豊木。おまえな。しゃんとしろ。一学期の成績があれ。数学がこれ。そんで今度は妄想か? ……程度が知れるな。精神病院にでも入ったほうがいいんじゃないのか――。
「……僕はこの世でとってもやさしい」
「帰るのか。……気をつけろよ」
僕はひとつ頷くと、幼馴染にも背を向けた。
蝉が鳴いたら、戦争が起きる。だって、日本の歴史をみれば、そんなことはあきらかだ。たいせつなこと。こんなに、たいせつなことを。だれひとりとして、わかっていない。
僕は何度もいっているのに。僕は、黒田先生も、安然も、みんなのことが好きだから。だから、伝えているのに。だれも理解しない。できないんだ。蝉が鳴ったら戦争だ。蝉が鳴ったら戦争なのだよ。そんな、シンプルで当たり前のことがつうじない世界、世界を――僕はどうしてこの期に及んで救済しようとし続ける?
帰り道、通学路に忠実に素直に帰っていたら、蝉の抜け殻が落ちていた。しゃがみ込んで拾って、指でくしゃりと潰せば、ああ、今この瞬間戦争がはじまったんだなと実感があった。
蝉は、陽が暮れかけても鳴き続けている。
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