晩ごはん、月、天使「月にかえるまでが遠足だよ」
ねえ、あした、遠足なの。そんな簡単なことですら言うのにすごく勇気がいる。べつにいまさら……望まない。お菓子のおだちんとか、お弁当とか、みんなもってるインスタントカメラとか、そういうの。
その大きな背中はゆらっとかげろうみたいで返事がない。
私は仕方なくもういちど言った。
ねえ、あした、遠足なの。
その背中は、ゆらり、とゆれた、……やっぱり陽炎みたいで。
かつてはその椅子の背中に私のランドセルをひっかけていたのに、
「そう。月にかえるまでが遠足だよ」
唐突に返事があって、……その言葉、私、よくわからない。
ほんとうに、よくわからない。
おかあさん。……ただし、血はつながっていない。
きっと、すごくいま、酔ってるから。そう。それだけ、だ。
お父さんがいたから私たちは親子になった。お父さんが選んだひとならだれでもよかった。だれでも。ほんとうに、だれでもよかった。
だからべつにお父さんの選んだ相手がずんぐりむっくりなスーパーのバイトのおばさんでも、よかったの、……べつに。
お父さんがそれで幸せなら、って。
……お母さんのいたころのゆかいなお父さんに戻ってくれるなら、って。
だから、私、祝福さえもしたんだよ。
お父さん。……なんで、いっちゃったの。
私も、……おかあさんも、お父さんの影ばかり追ってもうひなたに生きられないよ。
ああ、ずるい、……ふたりともずるいよ、
娘の私のことはこうやって地上にほっぽっといてふたりでラブラブお星さまになってデート、してるんだから。
ぴっかり、ぴっかり、遠足の日はちゃんと晴れました。
「はーっ? おまっ、べんとっ、コンビニべんとーじゃーん!」
「……るさい」
でも、そう言うのがほんとうにせいいっぱいなのだ。……だって遠足にコンビニ弁当だなんて。私だって、お父さんがいてまだちゃんと家族だったときには、そんな子がいたら、堂々とは笑わなくてもひそひそ友だちと言い合いっこしたよ。
私の隣には、いまはもうだれも、寄ってくることはないけれど。
くらく、なった。おとうさん、しんだから、って。
そう噂されてるの知ってるけどそんなのほんとうほんとうにあんたたちに言われるすじあいでは、ないのだ。
「せんせーっ、あいつコンビニべんとーでーすっ」
おせっかいな猿の男子は、たたたっと先生のもとに行って、自信満々にチクる。
とても優しい若い男の担任の先生はいつも通りとても優しそうに私の隣にしゃがみこんだ。先生は自分のお弁当をもっている、……シンプルだけれどとってもおいしそうなカラフルお弁当。コンビニ弁当の茶色っぽいのとは、ちがって……。
「おお。うまそうだなあ、それ。先生にもひとつ分けてくれよ。ほれ、このからあげと交換な」
いやだ、とも言えない、……言えないじゃない。だから私は黙ってコンビニ弁当のとんかつと先生のからあげを交換する、というかさせられてしまうの。
先生は目を細める。
「晴れてよかったなあ。雨降るとな、大変なんだよ、中止とかなんとかでさ。ほら、××先生とかさ、みんなに負けないくらい楽しみにしてたりしするんだよ、ははっ、晴れてよかったなあほんと。……なあ、××。このごろは、どうだ」
私はどう答えていいのかわからずに割りばしをもったままおもしろくもないコンビニ弁当をじっと見下ろしている。
「お家のこととか、問題はないか」
私は、うつむいたままで。
「大変な時期だと思う。……なにかあったら先生たちにも頼ってくれていいんだからな。いや。先生に、頼ってほしい。先生はおとなだからいろんなことができるんだぞ?」
先生は茶目っけたっぷりで、でも、私は、……うつむいたままで。
「××がしっかりしているのは先生もよーく知ってる。えらいぞー。ただな、××は、まだ子どもなんだ。もっとおとなに頼って、いいんだぞ?」
私は、うつむいた、ままで、
「……おとなに頼れば月に行けるんですか」
私は私が情けなくってぶわっと涙をあふれさせてしまう。
「月は私の天国なんです。……月には私のお父さんとお母さんがいて毎晩私を見下ろしてデートしてるの。ずるい。ずるいと思いませんか」
自分が、変だってことくらい、わかって、る。
きっと、変な子だって、せんせい、あきれて、る。
……なのに先生は私の頭にぽん、と手を乗せた。すぐに、離したけれど……。
「××がそう思うのも無理はない」
先生の横顔は、さんさんの太陽に照らされて、まぶしそう、だった。
「……こんど、おうちにお邪魔させてもらおうかな。いや、そんな深刻な話じゃないよ、××の悪いようにはしない、……先生を信頼してほしい。ただ先生は、××がすこしでも楽になればいいなって思うんだ、……いまはお母さんとおふたり暮らしだったっけ。先生、こんど、××の家に遊びに行くよ。うん。……地球儀が好きなんだってな。先生に地球のこと、教えてくれよ」
「なにそれ……」
私は、すこし笑ってしまった。
一秒後には、笑ってしまった私を、殺したくなった。
家に帰るといつものごとく電気がついてない。けどきっとおかあさんはいる。
電気をつけるとおかあさんは獣みたいになってうめいてしまうから私は電気をつけないことにしている。
いまは遠足のあとで夕方だからまだ部屋のなかが見える。
「……おかあさん……」
おかあさんは、飲んだくれて、ダイニングテーブルに突っ伏していた。びんとか、アルコールとか、……すごい。
先生いやがらないかなあ。
「……おかあさん、きょう、晩ごはん……」
「あんたでしょう」
急に、言葉のナイフが、飛んできた。
「あんたけさ私の五百円盗ったでしょう」
「……だってお弁当」
「学校なんだから給食があるでしょう? あんたそんなに喰いたいわけ? ぶくぶくぶくぶく太って豚になるんだ」
……それ、おかあさんにだけは、言われたくない。
「遠足だって、ゆった」
「聞いてない」
「だって、おかあさん、すごく酔ってたもの」
「そうやっておとなのせいにするわけ? あたしあんたの親なのよ、いちおう。はあ。もう。あんたのせいでパート代がどんどんどんどん吸われていく……金かけて育ててもこんなクソガキじゃねえ」
「……べつに、施設に預けてくれて、いいってば」
「はあ? あんたあたしを悪者にするつもりなの? 勘弁してよ。そうやっておとなに甘えないで。死にたいなら自分できれいに死んでください」
おかあさんは、立ち上がった。
私の身体を、ランドセルごと、はたき落とした。
「五百円。返しなさいよ。あれあたしのきょうのおやつ代だったんだけど」
「……私は、あれがなくっちゃ、ごはん、食べられなかった……」
「しらなーい。自分で稼いでくれば? たったの五百円よ? 一時間働けばしろーとでもせんえーんっ」
「……だって私小学生だし」
「どっかに需要はあると思うわよ。身売りするならちょっとは手伝ってあげてもいいわよ?」
なんども、なんども、なんども、からだごと大きくなぐられた。
もう、なみだもでない。
かれてしまった。
……私はもうなくことすらまんぞくに、できないんだなって、私、かわいそう。
「あんたが。あんたが。あんたがいたから。邪魔なのよ。あのひとのおまけっていうからぎりぎりで承知してやったのにさ。あんな早く死ぬとは思わなかった。しかもなによ。遺産も私のほうにこないようになってたとかどういうことよ。愛してたんじゃなかったの。愛してんなら金をちょうだいよ。あの馬鹿。なにが信頼問題よ。愛してる妻に金を遺すことくらい当然でしょうがクズ男。なんであたしがあんなきもっちのわるい金ばかりブサイククズ男のガキの面倒見なきゃいけないわけ? ああ理不尽。理不尽。理不尽。パート代がガキに吸い取られていく……」
お父さん。お母さん。
月の、天国。
……どうしたらそこに行けますか。
この女にもがれたランドセルのかわいい翼を取り戻してくっつけて市でいちばん高いビルから跳べば、
飛べますか?
私も大好きなお父さんとお母さんのもとにいってしまうことが、できますか?
ひととおり私を殴り終わると、おかあさんは、家を出て行こうとする。
私はきょうもひもじいことが確定だからデパ地下の試食をしなきゃいけないんだけどいちばん近いスーパーはこの女の仕事場だから、自転車を二十分もこがなくちゃいけない。
……そろそろ、万引きも、考えなきゃなのかもしれない。
つかまってしまったら……もう、それこそにどとほんとうに、飛べない気が、してしまうけれど。
「……おかあさん」
振り向きもしないで似合いもしないハイヒールを履いているぶくぶくの背中。
「……先生がこんどうちにくる、」
って、とまで言い切らないうちに、バタン、とドアは閉まった。
私は、いつも通り、取り残されている。
電気をつけるともっと怒られるからどんどんどんどん暗くなる。
……デパ地下に、試食に行かなければ、いけない。おなかすいて……しんでしまう。
どうして? ねえ、どうしてなのですか?
いまさらだけれどほんとうに私はかなしいんだよ、
どうして私だけは天使になれなかったんですか?
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