第90話 心の蓋⑥
「父が自殺してしまったあの日、私は偶然にもあの場所にいました。たまたまあの時間、私は学校から家へと帰っている途中でした。河原で数人が大騒ぎをしていて、倒れている二人を抱きかかえているのが見えました。片方だけ靴が脱げたその足を見た時、何故でしょう私は、それが父であると直感しました。
ゆっくりと父に近づくと、真っ先に目に入ってきたのは、父と彼女を結びつけていたあの真っ黒な紐の一部でした。それは固く固く二人を結びつけていて、二人の頬は優しく重なったまま、二人は静かに息絶えていました。
手首、足、そして腰にまでその紐は巻かれていました。」
ふと、真奈美は顔を上げて僕に聞いた。
「先生、その時、私が何を思ったかわかりますか?」
僕はゆっくりと首を振った。
「私その時、「父はこの紐をどこで買ったのだろう?近所のあのお店かしら?それとも少し離れたあのスーパーかしら?」とそればかりを考えていました。」
真奈美は少しだけ首を傾げて僕を見ると、
「今考えれば私、少しおかしくなっていたのかもしれません。」
そして今度は、達夫を見た。
「だから私、今日のあなたが良くわかったの。あなたがここに来た時から、何故だかわからないけど、達夫君の苦しみが痛いほどわかったの…」
「父のお葬式に、母は参列する事を拒みました。当時高校生だった私が喪主を務める事になったのですが、私はお葬式の始まる直前まで、あの紐を探してまわりました。あの時ほんのわずかな時間だけ見たその紐は、4件目の小さな文房具屋さんで見つけました。その紐を見つけた時、私はやっと父を見つけた様な気がしました。そしてそれを大事に抱えて、葬儀場に向かいました。
葬儀の事は全く覚えていません。葬儀が終わった後、私は例の紐を持って私の部屋へと急ぎました。そしてそれを小さく小さく切り刻みました。そしてそれらをまとめて乱暴に引き出しに入れようとしたその時、私は小さな封筒を見つけました。封筒の表には、父の字で「真奈美へ」と書かれていました。」
真奈美はきりりと顔を上げた。
「死ぬ間際の父が、どんなに感動的な言葉を私に残したかわかりますか?」
それから真奈美はひどく疲れてこう言った。
「中には便せん1枚。句読点まで入れて、たった38文字でした。
“真奈美、すまない。今世で彼女と一緒になれないならば、来世で彼女と一緒になる。”
私ではなく、母でもなく、父が選んだのは彼女でした。そして父が私に残したのは、たった38文字でした。私への想いを綴る事なく、私への愛を語る事なく、父は勝手に旅立っていきました。」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます