第89話 心の蓋⑤
「もう、わかった。」
僕は怒りに震えながら、真奈美の言葉を遮った。何故真奈美なのか、何故真奈美がその様な仕打ちを受けなければならなかったのか?男への憎しみと、真奈美の苦しみとを思うと、僕は吐き気を覚え、ソファーから立ち上がるとそのまま床にかがみ込んでしまった。
「それは…。それは私にとって初めての事でした。私は、愛を知らずに穢(けが)れてしまったのです。」
もう誰も、もう何も言う事ができなかった。
「怖かったんです。何が起きたのか、何をされてしまったのか?私は今でもその時の事をうまく思い出す事ができません。」
真奈美は泣きながら小さく笑うと、
「何が悲しかったって、何が苦しかったって…。それから先、私はもう、誰も愛する事ができなくなってしまいました…。」
部屋に舞う埃の音さえ聞こえてきそうな、そんな静けさが部屋を包んだ。
「真奈美さん…。」
僕も菅ちゃんも言葉を失う中、達夫が静かに話し出した。
「僕なんかが言うのもなんですが…。僕にできる事があったら何でも言って下さい。僕が真奈美さんの力になります。僕が真奈美さんを助けます。」
柔らかだが、力強い声だった。
真奈美はその言葉を聞くと、大きく目を見開いて達夫を見た。そしてその瞳から大粒の涙をこぼして達夫にほほ笑んだ。
「ありがとう達夫君…。誰かがその言葉をかけてくれるのを、私、ずっと待っていた気がするわ。」
そして、すがりつく様に達夫の胸に泣き崩れた。
僕はただ…。僕はただ、偉そうに達夫に話をしていた自分を恥じていた。何も知らないのは、僕の方だ。大切な…自分の命より大切に思っているはずのスタッフの真奈美に、言葉の一つもかけてあげる事すらできなかった。真奈美を慰める言葉すら見つける事が出来なかった。
そしてその時の達夫と、達夫の言葉を、僕は一生忘れる事はない。人を想う時、言葉としての内容は意味を持たない。ただ、心あるのみだ。その言葉にどれだけの心があるか。ただそれだけだ。
傷つき、疲れ果ててここにやってきた達夫の言葉が、一瞬にして真奈美の心の氷を溶かしていった。
それから真奈美は、ぽつりぽつりと、誰に言うでもなく話し始めた。
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