片隅においてきたモノ

えむけん

第1話

 この重いドアを開けるのは何年ぶりだろう。

「あら、今、帰ってきたの。」

 今朝出掛けて戻ってきた子供を迎えるかのような言葉を口にした母。記憶の中の姿とあまり違いが無いことに、僕は少し安心した。週末に仕事のことを考えずに過ごせる目途がついたのは、二日前のことだ。電話で「今週末に、一度実家に戻るよ」と彼女に伝えたとき、心なしか沈んだ声だったことが気になっていた。

戦後生まれの彼女も、今では、歳相応に年老いて、日々物静かに暮らしている。

「変わってないね」

「そんなことないわよ。あちこち痛くて」

 彼女は、顰めた顔を作って見せた。

 古いアルバムの中で見た若い頃の母は、大きなサングラスを気障に着用して、幼い僕の手を引いている。色褪せたカラー写真の中でも、当時の同年代の女性に比べ、そこそこお洒落だった様子が分かる。今となっては、活動的だった頃の面影はすっかり影をひそめたが、マンションの八階で、毎日それなりに生きがいを作り出して生活していた。

 ここから最寄りの駅までは、彼女の足でもそれほどはかからない。けれど、僕が暮らす都心からでは、電車で小一時間はかかるだろう。社会人生活がスタートし始めてから数年は、季節の節目に、この実家に立ち寄ることもあった。けれど、ここ二年半は、全く戻っていなかった。その代わりに、近くに住む僕の弟夫婦が頻繁に訪れてくれている。義妹は、母と仲がいいらしい。


 父が死んでからは、もう、何年たっただろう。彼が肺癌でステージ3の診断を受けたとき、僕は、まだ自宅から都内の大学に通う学生だった。母とは違って人並み以上には体格に恵まれていた父。補欠ではあったらしいが高校野球の全国大会にも出場経験があった。彼が平均的な日本人男性の寿命より、かなり早くその生涯を終えるとは思ってもみなかった。

 当時、抗癌剤治療と放射線療法で、日に日に弱っていく彼は、自分の身体より、なかなか就職の決まらない僕のことを最後の最後まで気にかけていた。内定の知らせが届いたのは父が死んでから一週間たってのことだ。今、その会社を辞めて次の次の仕事先で働いている。


 ほとんど使っていない部屋の一つには、僕が昔使っていたものが未だに置いたままになっている。そこには立ち入らずに、リビングのソファーにカバンを置いて窓を開けてみた。陽射しは強いけれど、頬にあたる風は心地よい。階下を見渡すと家族世帯向け大規模マンションの敷地内には、子供を遊ばせる数か所のスペースがある。けれど、昼間でも、そこにはもう昔のような人影はない。

「随分と静かになっちゃったわよ」

 母は僕に近寄って呟くように言った。

 狭いベランダには、所狭しとプランターや植木鉢。記憶の中の光景より、その数が随分と増えていた。

「ここの高さだと、台風が来て飛ばされたら周りに迷惑かけるだろ」

 僕の後についてベランダに出た母に、若干諭すようなニュアンスを込めて言ってみた。

「天気予報で、近づいて来るのが分かったら、軽いものは部屋の中にしまってるから大丈夫よ」

 母は、足元のジョウロや小さなスコップを忙し気に脇へ寄せながら、笑って答えた。実際、目の前で少しでも重いものを持とうとすると、腰を押さえて顔をしかめる彼女。それ以上は、批判を込めた言葉はかけることが出来なかった。

 ホームセンターの園芸コーナー辺りで買って来るのだろうか。ほとんどのポットに、花の名前がカラー印刷されたプラスチックのラベルが添えられてある。いくつかは花弁を広げている植物たち。統一感こそないけれど、そこそこ見栄えがする。

隅の一角にまとめて置いてあるいくつかのラベルのないポットに、ふと目がと留まった。園芸用の栽培品種とは思えない植物が育っていたり、土だけで何も植えられてないように見えるポットが集められている。

「枯れた植木鉢は捨てればいいのに。雑草生えてるだろ」

 それらを指さして僕は言った。

「ここの高さでも、たまに鳥が飛んでくるのね。その子たちの落し物を集めて肥料代わりに植木鉢の中に入れておくのよ。そうしたら、芽が出てくるのがあって、大きくなってくるとかわいそうで捨てれないのよね」

 僕の言葉に対して、彼女は少し困ったような素振りで答えた。昔から何度か目にすることのあった母の表情だった。

「この前は、ゴマダラチョウが、そこの手摺に留まっていたのよ。翅はボロボロだったけれど」

 少し楽しそうに話す彼女の素振りに大げさに肩をすくめて見せた僕。

「久しぶりに僕も見てみたかったな」

 否定的な言葉が返ってくることを予想していたのだろうか。彼女は少し意外そうな様子だった。


 実家のマンションの周りに、まだ、少なからず雑木林が残っていた子供の頃。僕の虫取りに付き合うのは、仕事で忙しかった父ではなく、大抵の場合、母だった。キアゲハの幼虫を持って帰って来た時も、「逃がしてこい」と言う父とは違って、母は育てるための入れ物を用意して、どこからか食草になるセリ科の植物を採ってきてくれた。

 予想外にも、やがて、透明のアクリルケースのなかで幼虫は蛹になった。数日して、羽化した成虫を母と二人で近くの公園に放しに行ったことを覚えている。ケースの蓋を開けても、しばらくはじっとしていたチョウ。僕は、いつまでも翔んで行かないで欲しいと願った。

 あの時、翔びたたせたのは母だった。彼女は、手を近づけて追い払うかのようにチョウを羽ばたかせた。どこか冷酷にすら感じた彼女の手の動き。今でも脳裡で鮮明な映像として再生できる。

「ねえ。これも、育てているの」

 僕は、雑草にしかみえない植物を指差した。大きな素焼きの植木鉢。以前は、その様相に釣り合いの取れた別の緑が植えられていたのだろう。今は、不細工に長く伸びた茎に、バランス悪く数枚の葉がついている。

「そうよ。こんな植物でも、育てていれば、たまには立派な花が咲いたりするのよ」

 そう言った彼女は、僕を見て、愉しそうに、そして、僅かに悲しそうに微笑んだ。

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