第22話 天使の午睡
翌朝、隣の家へ行くと空は既に出た後だった。
「あら、おはよ。空ならもう学校に向かったわよ」
そうみちるに言われたのだ。
また避けられたか、そう思って顔を曇らせる陸だったがそれを見たみちるは眠そうな顔をからかうような笑みに替えた。
「やっと好きだって言ったんだって?」
その言葉にぶわっと顔に血が上るのを感じる。
「な、なんでそれを!?」
「空から聞いたわよ。ホントに今更ね。あの子もうじうじ考えずにさっさとくっつけばいいものを……」
「お、おばさん?」
ぶつぶつと何かを呟き続けるみちるの様子に恐る恐る声を掛けると、みちるはまっすぐに陸を見つめた。
「あの子のことよろしく頼むわ。私はあんまり傍に居れないから。あなたが傍に居てあげて」
「おばさん……」
ぽん、と肩に手を置かれる。
「でももしあの子を泣かせたらコロスからそのつもりで」
みしり、と音がするほどに肩を握られると同時に色々な念の籠った声で言われる。陸はそれにこくこくと頷くほかなかった。
学校への道を急ぐ。
談笑しながら、ぼんやりしながら、人それぞれのペースで歩く学生の群れの中を陸は追い抜くようにして歩いていった。
だが、空の姿は見つからなかった。
別に今すぐ答えが欲しいわけじゃない。
ただ、少しでも話していたかった。
空の顔が見たかった。
結局、空の姿を見つけたのは教室に入ってからだった。
陸の前の席に座って、クラスの女子たちと話している。今はまだ朝のホームルームにも早すぎる時間帯で、教室の中には人が少ない時間だ。あまりにも急ぎ過ぎて普通の時間に家を出たにもかかわらずこんなに早く着いてしまった。
「陸君おはよ~。珍しいね、こんなに早く」
「千秋か。おはよう」
教室に入ったところで突っ立っていた陸の背後から千秋が現れる。それに押されるようにして、陸は自分の席へと向かった。
一瞬、空の周りで談笑していた女子たちの視線が陸へと集中する。
だが、空が何も言わないのを見て静観を決め込んだようだ。特に何も言うことなく、元の話題に戻ってゆく。
陸も空に声を掛けることはせずに、自分の席へと座る。
本当はこうなる前に何か話したかったのだが、あるいは空自身がそうならないようにしたのかもしれない。
一瞬浮かんだ考えに気落ちしそうになるが、それよりも気になったことがあって陸の視線が固まった。
「……」
「どうかしたのかにゃ~?」
「いや……」
席に座って、前の席に座る空の後頭部を見ていると、自分の席からわざわざやって来た千秋が訊ねて来る。
いつもの様にいたずらな笑みを深めると、顔を近づけて小声でささやく。
「そんなに熱心に見つめて大好きだね~」
「そうじゃねえよ、なんつーか」
肩を押して、千秋から身を離して言いよどむ。
「なんとなく、体調悪そうだなって思っただけだよ」
どこが、と問われると困るのだが少し疲れているような、眠そうな感じがしたのだ。
「……そうかにゃ~?」
周りに立つ友人の隙間から幼馴染を覗き見て、千秋が首を傾げる。
だがこと空に関してだけ言えば陸はそのなんとなくが、今まで間違っていたことはない。
朝のホームルームが終わり、一時限目の授業が進み始めたところでその直感が正しかったことを陸は知った。
授業は世界史の授業だった。
朝のこの時間から眠たくなる授業だ。既に教師の話を真面目に聞いているクラスメイトはほとんどいないだろう。
そんな中で、空の頭が不意にかくっ、と横に揺れるのを陸は見たのだ。
「!?」
空の後ろの席になってから、今まで空が授業中に居眠りをしたところは見たことがない。
「空、大丈夫か?」
だから陸は休憩時間になって、空の周りから友達がいなくなったタイミングを見計らってこっそりと話しかけた。
「え?」
「え、じゃねーよ。体調悪いんだろ」
何故か話しかけられたことに空が目を大きく見張っているが、そんなことはどうでもいい。しっかりと授業中に寝そうになっていたことを突き付けてやる。
「う、ちょっと寝不足なだけだよ」
「……お前、もし授業中に居眠りなんてしたら」
「分かってるよ」
二人の頭には同じ光景が思い浮かんでいただろう。
居眠りする空。
その体が次第に宙へと浮いていき、最後には天井に背中が付く。その辺で目を覚ました空はクラスの皆に見守られ、指を指されながら床へと落下する。
「ギャグか何かじゃないんだから、やめろよ? 笑えないぞ」
「大丈夫だよ」
そう言って笑みを浮かべる空だったが、その顔に精彩はない。
間違いなく寝不足だ。
本当に起きていられるのか?
陸のその不安をよそに、空は次の授業からしっかりと起きていた。
もしかしたら後ろの席からこうして見ていることをはっきりと認識して、緊張感が出たのかもしれない。
兎にも角にも、陸はほっと胸をなでおろした。
だがそれも、午後の授業が始まるまでだった。
◇
安心していられたのも束の間の事だった。
昼ご飯が終わり、午後の授業が始まってすぐに、空の頭が小さく突発的に揺れ始めた。
そりゃ寝不足で、ご飯を食べた後の古典の授業は眠くなるよなぁ……
陸は内心で仕方ないとは思うものの、だからと言ってそのままにはしておけない。
だんだん空の頭が下がる動きが大きくなりだした。
「空、おい空」
小声で、背後から声を掛ける。
「……」
だが返事はない。
空の頭も下に下がったままついには上がって来なくなった。
寝ている。
そう思うのと、空のお尻が椅子からわずかに浮き上がったと見えたのが同時。
その瞬間に陸は立ち上がっていた。
「先生、天野さんの体調が悪いようなんで保健室に連れて行きますね!」
言いながら、それ以上浮かないようにと思って空の肩に手を置いた。本人はその衝撃で目を覚ましたようだったが。
「うん? はい、分かりましたお願いしますね」
一瞬陸の顔と空の顔の間で視線を行ったり来たりさせた古典教師だったが、空の顔にいつもの元気がないと気が付いたかすぐに了承する。この辺陸や冬彦なんかが言えば仮病を疑われるところだ。優等生の役得である。
「行くぞ」
「え、あ? りっくん?」
何が起こっているのかまるでわかっていない空を無理矢理立たせるとそのまま教室から引っ張っていく。教室を出るまでクラス中から視線が痛いほど刺さってきていたが、すべて無視した。
そんなことよりも空の方が大事だ。
空は廊下に出てからは素直に手を引かれるままついて来る。既に授業の最中と言うこともあって、廊下では誰にもすれ違わなかった。静かな廊下の中、微かに聞こえる授業の音と二人分の足音だけが響いていた。
「すみません」
保健室の扉を開けながら声を掛ける。
薬品の匂いが微かに鼻に届いた。
「誰もいないのか?」
反応がなく、見回してみればいつもいるはずの養護教諭の姿はない。他に休んでいる生徒の姿もなく、無人だった。
「ま、その方が好都合だけどな」
「え、それってどういう……?」
ぼそりとつぶやかれた言葉に背後で空が肩を揺らす。
「決まってるだろ」
再びぐい、と引っ張ってベッドへと空を押し込む。
「ふぇ、へ?」
背中から、押し倒されるようにベッドへ寝ころぶ空。
ベッドわきに立ったまま見下ろす陸を空はとろんとした瞳で見上げた。
空の頬に赤みが差している。
それを認めた陸は、
「じゃ、寝ろ」
「はい?」
一言、短いその言葉に空がきょとんとした声を上げる。
「傍に居てやるから、とりあえず少し寝てろ。誰もいないなら手を握ってても問題ないしな」
そう言いながらベッドサイドに椅子を引っ張ってきて腰かける。
本当に誰もいないのは助かった。さすがに養護教諭もいる前で手を握っているのは恥ずかしかったし、隣に寝ている生徒なんかがいた日には学校中に変な噂が広まりかねない。
とは言えもしそれらがいたとしても陸は空が寝ている間、隣で手を握っているつもりではあったのだが。
「ん? どうした?」
だがなぜか空は最初にベッドへ倒れ込んだまま、布団に入りもしない。
不審に思って声を掛けると、空の顔が一気にトマトのように染まった。
「知らない! りっくんの馬鹿!」
それだけ言うと、履いたままだった上履きを乱暴に脱ぎ捨て布団にもぐりこむ。
頭からかぶるようにしてもぐりこむその様はなぜだかたいそう不機嫌そうで、陸にはよくわからなかったのだがどうやら何かやったらしい。
まぁ寝るならいいか。
そう思っていると、布団の端から細い手が差し出された。
「……握っててくれるんでしょ?」
「ああ」
空の不機嫌丸出しな声に頷くと、その手を取った。
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