第21話 天使が落ちるとき
廊下に勢いよく飛び出した陸だったが、出てすぐに左右を見渡して佇む千秋の目と合った。一瞬キョトンとした千秋の視線が、自分の足もとへ動き陸の視線を誘導する。
するとそこには廊下に膝を抱えて座り込んだ空がいた。
扉から出た体勢で固まっていた陸だったが、その気配に気が付いたのだろうか。
「え?」
空が顔を上げて、陸の視線とかち合った。
二人視線が空中で絡まる。
瞬間、
「っ――!」
空の顔が真っ赤になる。
「あっ」
「ゴメンっ」
また逃げられる、そう思って呼び止めようとするもそれよりも先に空が走り出してしまった。
背中があっという間に小さくなっていく。
「空、なんで……」
何で逃げるんだ?
「早く追いかけなよ~」
陸が逃げる背中を呆然と見ていると、脇からそう声がかかる。
「千秋……」
「ただ恥ずかしがってるだけだよ~。さっさと行って捕まえてきなって~」
「……分かった、行ってくる」
色々言いたいことがあったが、今優先するべきは空を捕まえることだ。
そう思って陸も廊下を駆け出した。
廊下は既に授業が始まるまでもう間もない時間帯で、人通りがかなり減っている。二人の甲高い足音だけが廊下にこだまする。階段まで差し掛かったところで空の後ろ姿が上へと昇っていくのが見えた。迷わず陸も階段に足を掛ける。
「な、何で追いかけてくるの!?」
見上げると、階段の踊り場からこちらを見下ろしている空の姿がある。
「お前が逃げるからだろ!」
そう言って一段飛ばしで一気に駆け上がる。空もまたその様子を見て再び階段を駆け上がり始めた。
「聞いてほしいことがあるんだ!」
駆け上がりながら陸が叫ぶ。
「私は何もないよ!」
より一層空が階段を駆ける速度が上がる。さすが運動部に助っ人を頼まれるくらいなだけあって、走る速度はかなりのものだ。なかなか追いつけない背中に陸は内心舌を巻く。
だが、どうしても聞かないと言うのならこちらにも考えがある。
「空!」
「何!?」
聞くことはない、と言いながらも空は駆け上がりながら反射的に尋ね返してくる。
だから大きな声で言ってやった。
「好きだ!!!」
「ふぇっ!?」
空もまさかさすがにこのタイミングで言ってくるとは思っていなかったようだ。
素っ頓狂な声を上げる。
そして、
「あっ――」
足が階段を踏み外す。
ふわりと広がる白い羽。背中から落ちて来る。
陸はその様子を見て一気に足を踏み出した。
両手を広げて、落ちて来た天使を受け止める。
腕の中に入った空は体を小さく縮めて固くしていた。
その空が、地面にぶつからなかったので目を開けた。腕の中の空と目が合う。
「やっと捕まえた」
「あ、なっなっ……」
口をパクパクとさせて何か言おうとする空。
こんなところで突然告白したことへの抗議だろうか。
階段を踏み外させてしまったことだろうか。
だがそれよりも先に陸が口を開く。
「好きだ」
「ひうっ」
「何度でもいうけど、俺は空の事が好きだ。お前が理解するまで何度だって言ってやる。もう俺はお前を手放したくないから」
相本の存在にはヒヤリとさせられた。
もっと早く、やり直せばよかったのだ。
そして認めてくれるまで主張し続ければいい。
もしダメだったときは、その時考えろ。
どうせずっと同じではいられない関係なのだ。
どうせ変わるならいい方へ、求める方へ変える努力をしろ。
「空の事が、俺は好きなんだ」
捕まえた空に言い聞かせるようにして伝える。
「――わ、わかったから! もう、言わないでっ……」
顔を真っ赤に染めた空が、視線だけなんとか陸から逃げてかぼそく言う。
形のいい唇が小さく小刻みに震えていた。
聞きたい返事をまた聞けていないが、これ以上は今は期待できそうにない。
「――分かった」
そう言うほかなかった。
背中から抱きしめたままだった空の体を離したところでタイミングよく始業を始めるチャイムが廊下に鳴り響いた。
「い――行かなきゃ」
「空」
逃げ道を得たとばかりに階段を下りて教室へ足早に向かい始める空を呼び止める。
空は、振り向かなかった。
「返事は、いつでもいいから」
「……」
その言葉に、空は答えなかった。
空から答えが返って来る、その時がこの関係の終わりを意味していると二人とも理解していた。
◇
だがその日一日、空と話すことは出来なかった。
教室に戻った陸たちに、クラスメイト達は色々聞きたそうな視線を送ってきてはいたが、誰も触れることが出来ない雰囲気に口を開くことは出来なかったのだ。
空は、視線が偶然合うたびに顔を赤くしていた。
「ゴメン、今日はその……家の方にいるね」
家に帰ってきても空が陸を避けようとする雰囲気は変わらず、しまいには自分の家の方に入って行ってしまった。
「おにいちゃん、そらねえに何かしたの?」
「……してねーよ」
夕飯を二人で食べながら、不機嫌を隠すこともせずに陸が答えるのを美里はため息をつきながら見ていた。
◇
『空の事が、俺は好きなんだ』
自室のベッドの上で横になった空の頭に、今日陸から言われた言葉がリフレインする。
空はようやく、陸が自分の事を好きだと――一人の女の子として好きなのだと理解した。
「私にとって、りっくんは、家族、だった、けど」
初めて会った時のことは覚えていない。
気が付いたときにはすぐ傍に居た。
だから空にとって陸は生まれた時から傍に居る、家族。
そのはずだった。
「いつからだろ」
空が陸の事を家族として思い込まなければいけなくなったのは。
本当はもうとっくに、自分は陸の事を好きだったのだ。
でも、それをお互いに知ったときにそれからどうなるのかわからないのが怖かった。
失いたくない。
だから関係が断絶した数年間は胸にぽっかりと穴が開いたような空虚感をずっと抱いて生活していた。
ふと、空は横になったベッドの脇の壁に手をあてる。
その壁一枚隔てた向こう側に陸の部屋がある。
たった一枚。
ずいぶんと分厚い一枚だった。
再びその壁がなくなって、空はより自分が陸を失いたくなくなっていることを認識していた。
だから昔の関係に出来るだけ戻りたかった。
あの頃のままでいたかった。
「……何してるかな、りっくん」
ぼそり、と呟くのと携帯電話がバイブレーションに震えるのが同時だった。
寝ころんだまま、頭の上に置いてあった携帯電話を取る。
表示されたのは陸からの言葉。
『大丈夫か?』
「~~~~~~っ」
陸からたった一言を貰って、それだけで空はベッドの上で悶えていた。
陸の優しさが嬉しい。嬉し過ぎて顔から火が出そうだった。
今日の昼間、学校でも視線が合った瞬間に顔が真っ赤になってしまったのも、自分が陸の事を好きだと自覚してしまったのが原因だ。
自分の今までの行動を考えて空は今さらに恥ずかしくなっていた。
「もう顔も見られないよぅ……」
壁一つ越しに、二人は別々の理由で悶えているのだった。
傾きかけた日がさらに傾いて、日が沈む。
部屋の中が薄暗くなったところで空はようやく起き上がった。
「ごはん、作らなきゃ」
キッチンへ向かいながら、部屋の明かりをつけていく。
誰もいない部屋にいるのは、ずいぶん久しぶりだった。
「ただいま」
みちるが帰ってきたのはちょうど夕飯が出来上がったころだった。
「お帰り、早かったね」
「空が家で晩ご飯作って待ってるって聞いたら飛んで帰って来るわよ。お父さんは涙流しながら仕事してたけど」
「あはは……それじゃ帰りに残ったのはタッパーに詰めて持ってってあげてね」
さすがに父親が不憫でならなかった空はそう言わざるを得なかった。
「お、今日はカレーかぁ!」
部屋着に着替えたみちるがリビングへと向かうとテーブルの上には既にさらに乗った夕食が待っていた。並んでいるのは二人分のカレーと大皿に乗ったサラダだ。
ここしばらく自分の家で料理をしていなかったため、冷蔵庫には何も入っていないと思っていたのだが、ちょうどカレーの材料があったのだ。
「本当は自分で作るつもりだったんでしょ?」
「うっ、ご名答です……」
空の突っ込みにみちるが椅子の上でうなだれる。
例の一件以来、みちるは数日に一度は帰って来ると宣言していた。
まだあまり間が空いていないとはいえ、既に何度か帰ってきている。だが、その度にいるのはほとんど自分の家ではなく隣の陸の家だった。
その最たる原因はみちるが料理が出来ないことにあった。
「食べるならりっくん達も一緒の方がいいと思ってたけど、こんな準備してたんだね」
料理の苦手な母親でも出来る料理。
その準備をしてくれていたことに、空は嬉しさを感じずにはいられなかった。
「まぁ、正直もう料理は空とお父さんに任せるわ」
「ふふっ、今度一緒に作ろっか」
拗ねたように目を逸らす母親に、空はそう約束する。
陸達との時間も大事だが、こうして母親との時間を過ごすのも大事なことだと改めて思った。
「……んで? わざわざこっちの家にいるってことは何かあったんでしょ? 陸君に告白でもされた?」
「っ!?」
仕返しのつもりか、にやりとした笑みを浮かべながらみちるがいきなり言うのを聞いた空はカレーをのどに詰まらせる。
「げっほげほっ」
「その反応は図星みたいね」
「な、なんで分かったの!?」
「二人の様子を見てれば分かるわよ。昔よりもずっと、お互いを必要としてるっていうか、想い合ってるっていうか……そんなに驚かないでよ。あんまりそれっぽいことは出来てないけど、これでも一応あなたの母親よ、私?」
この短い時間でそこまでを把握されていることにぽっかりと大口を開けて驚く空に対してみちるが呆れたように言う。
「でも、今更やっとなのね」
「な、何が?」
「あなたたちがくっつくのはもっと早いって思ってたってことよ」
「う、で、でもりっくんのことはずっと、家族みたいなものだと思ってたし……」
「最初から家族以上だったわよ、あなたたちは」
「え?」
「今更自覚したのねぇ」
最初から分かってた、と言わんばかりの母親に、空は目を丸くするしかなかった。
「ま、せいぜい後悔しないように頑張りなさい」
「……うん」
後悔――その言葉に思い出すのはもちろん陸と離れていた期間のことだ。
もうあの時のようにはなりたくない。
だからやるべきことはもう決まっていた。
「でも、それはそれとして恥ずかしいよ……」
「あらら」
自分の鈍感さにテーブルに突っ伏す娘を見て、仕方ないわねと笑みを浮かべるみちる。
まぁ今晩くらいは悩みなさい、と思いながらみちるはカレーを口に運ぶのだった。
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