第19話 不定形の感情



 空は栄子と椎――いつもの三人でホームルームも終わった後、昨日会えなかったためか何となく長居をしてしまっていた。そうして下校時刻も迫ったころになってようやく重い腰を上げ、駅前をぶらぶらして帰ろうと言うことになった。


「あ、ゴメン。ペンケース忘れたみたい」


 空が教室に戻ったのはそんな何でもない理由からだった。

 二人には先に校門で待つように言って空は一人教室へと戻った。

 ついさっき出たばかりの教室は近づくと明かりが漏れている。外はまだ日が出ているものの、既に夕暮れだ。三人で教室を出た時にはもう他に誰も残っておらず電気は消して出てきた。


「誰か戻ってきたのかな?」


 部活が終わった後、自分と同じように忘れ物でも取りに誰かが戻って来たのかと空は思った。

 そしてその予感は的中する。

 教室の扉を開くと、窓から暮れていく空を眺めている男子生徒の姿があった。


「相本君……?」


 教室の中にいたのは相本だった。

 他には、誰もいない。


「あれ? 天野さん?」


 声に振り向いた相本の目と目が合う。

 二人っきりと言う状況に、少しだけ教室の入り口で足が止まる。

 空は相本から告白を受けていた。

 好きだ、と。

 気持ちは嬉しかった。クラスメイト達の前で告白されたのはちょっと恥ずかしかったけれど、それだけ大きな気持ちを持ってくれていることに嬉しさを感じずにはいられなかった。

 ただ、空にとって相本はクラスメイト以上ではなかった。

 断る空に対して相本は「振り向かせて見せる」と宣言していたのだった。

 そんな相手とたまたまとは言え二人っきりになってしまったことに空は気まずさを覚えずにはいられなかった。


「こんな時間にどうしたの?」

「ちょっと忘れ物が合って」


 空はそう言うと自分の席からペンケースを取り上げて見せる。

 そしてそそくさと教室を出ようとするのだった。


「じゃ、もう行くね」

「天野さん」


 相本に背を向けた空に、真剣な声が届く。

 その声を聞いて、空の足がぴしりと止まった。

 本当は聞くべきではない。

 そう思った。

 だが足は素直に立ち止まってしまう。


「少し、話したいことがあるんだ。聞いてくれるかな」

「……うん、いいよ」


 少しの逡巡を経て、空は頷きを返した。

 相本安堵の笑みを浮かべながら窓枠に寄りかかったまま「ありがとう」と言って笑った。

 その顔に、空は普段と違う雰囲気を感じずにはいられない。

 こんな顔は今まで何度か見たことがある。

 相本に告白される前にも何度か想いを伝えられることがあった。大半は付き合えたらいいな、位のものだったが中には本当に本気で想いを伝えてくれる人がいた。

 今目の前にいる人の顔はまさしくそれだった。


「天野さんは覚えてる? 女子バスケ部の練習試合に助っ人で入った時の事。あれ、僕も見てたんだよ」


 そう言われて空は思い出す。

 確かに女子バスケ部の練習試合に助っ人で入った。確か背中に羽が生える直前位の事だった。


「シュートを決める瞬間の真剣な顔と、シュートを決めた時の笑った顔が、どうしても頭から離れなかったんだ。それから気が付いたらずっと君のことを視線で追ってた。いつの間にか、本気で好きになってたんだ」

「相本君……」


 まっすぐな言葉が空に刺さる。

 紛れもない相本の本心だった。

 そうだと分かったから、空は何も言葉を返せなかった。

 けれど困ったように口ごもる空を見て、相本は穏やかに笑みを浮かべる。


「最初君に告白した時は、思わずどうしても言いたくなってしまったんだ。普段よりもずっと柔らかくて暖かな表情が素敵だったから。まぁ、言ってから失敗したと思ったけどね」


 教室の、みんなの前での公開告白。

 あれには空も驚かされた。


「うん、驚いたよ」

「ごめんね。でも、天野さんはそのあとの僕の呼び出しに応えて屋上まで来てくれた。正直来てくれないと思ったよ。あんな恥ずかしい目に合わせちゃったからね」

「でも、相本君は真剣だったよ。それが分かったよ」

「……ありがとう。僕の話を聞いてくれて、その言葉をしっかりと受け止めてくれているのが分かったから君に断られた時も、正直ショックは大きくなかったんだ。でも、だからこそ僕を見て欲しかった」


 その思いはバスケをする姿を見てはっきりと分かった。

 周りのクラスメイトが女子も、男子も目を奪われるようなプレイングだった。


「うん、すごかったよ」

「だけど、天野さんの心にはどうしても届かなかった。僕は入り込めなかったように思う。ずっと、天野さんは皆と仲良くしながら誰に対しても薄い壁を張って力寄らせない。僕もその内側には入れなかった気がする」

「そんなつもりは……」

「だからこれで最後にするつもりだよ。いつにしようかとは思ってたけど、ちょうどいい機会だからね」


 そう言うと相本は窓枠を離れ、空の下へと近寄る。

 数歩の距離を開けて二人は向き合った。


「天野さん。僕はあなたの事が好きです。僕と、付き合ってもらえませんか?」

「……」


 何の気負いもない笑みを浮かべて相本が言う。

 だが言葉にはしっかりと本気の重みが乗っている気がした。

 だから空ははっきりと返事をする。


「ごめん。相本君とは、付き合えない」


 真剣に考えて、そう口にする。

 相本の事は、とても優しい人だと思う。

 でも、相本の事はクラスメイト以上には考えられなかった。

 もしこれで相本を傷つけることになっても、自分の本心を捻じ曲げて伝えても意味はない。そう考えて可能な限り誠実に答えたつもりだった。


「そっか、やっぱだめかー」

「……相本君?」


 答えを聞いた相本が、空の予想に反してすごく晴れやかな笑みを浮かべているのが不思議だった。


「いや、ごめんね。わかってたことではあるんだけど、はっきり言われるとむしろすがすがしいというかね」

「……ごめんね」

「いや、天野さんが謝る必要はないよ。真剣に考えてくれて嬉しかったよ。それよりも聞いてもいいかい?」


 その笑顔のまま、相本が訊ねて来る。


「何?」

「やっぱり大地君のことが好きなのかい?」


 その言葉に空の頭の中に陸の顔が浮かぶ。

 好き、なのだろうか。


「……正直、よくわかってないのかも」

「そうなのかい?」


 自信なく呟く空。

 相本が視線で続きを促してくる。


「りっくん――大地君とは子どものころからずっと一緒だったし、もう家族みたいなものだと思ってたから。話さなくなってからもずっと」


 だからほとんど話すことが出来なかった数年間は寂しかった。

 寂しくて寂しくて仕方なかった。


「そっか、それじゃ大地君が誰か女の人と仲良くなっても大丈夫だよね?」


 その一言は、思っていた以上に空の心臓を跳ね上げさせた。


「え?」

「例えば、春日さんとか」


 陸が千秋と一緒にいるところが頭に思い浮かぶ。

 さっきとは違う、もやもやとした不定形な感情が湧くのを自分で感じた。


「でも、りっくんは――」

「つながりが消えなくても、家族でもいずれは離れるものだよ。それこそ進学や結婚なんかがあればね」

「それは……」


 確かにそうだ。

 もし県外の学校に陸が進学すれば、一人暮らしを始めることもあるだろう。

 ましてや結婚したらその相手の人と一緒に暮らすのだ。

 そこに空の居場所は、もうない。


「……なんだ、もうはっきりわかってるじゃないか」

「え?」

「今の自分の顔を見たら自分の気持ち、はっきりわかるんじゃない?」


 そう言われて、空は自分の頬にとっさに手を当てる。

 冷たい感触が頬を流れている。


「え? あ、あれ? おかしいな」


 なぜ自分が泣いているのだろうか。

 理由がわからなくて戸惑う。


「僕にははっきり分かるけどね」


 そう言いながら相本がポケットから取り出したハンカチを差し出してくれる。

 涙はあとからあとからこぼれてきて、手ではすくいきれない。ハンカチを受け取って目元を拭うもすぐにハンカチはぐしょぐしょになってしまうだろう。


「誰かに取られたくないんだよね。隣にいるのは自分であってほしいんだよね」

「でもっ、それは甘えたいっていう独占欲みたいなものでっ」

「僕は人を好きになるってことは、多かれ少なかれ自分の想いを押し付け合うことだと思うよ」


 自分の中の淀んだ、暗い感情を目の前にして言葉を詰まらせる空に相本が優しく言う。


「それはきっと、天野さんが大地君を本当に好きだと思っているからなんだろうね」


 そうなんだろうか。

 空の胸の中にこれまでとは違ったもやもやとした感情が芽生える。


「きっとこれは大事なことだから、もっとよく考えてみて」

「……うん」


 空は胸の中に渦巻く言葉に出来ない感情を押さえながら頷くのだった。

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