第18話 母の襲来と決意
ゆっくりと歩いて部屋へ戻ると、部屋の中が騒々しかった。
「ちょ、ちょっとお母さん! 苦しいよ!」
扉を開けて中を覗くと、そこにはベッドの上で娘に抱き着くみちるの姿があった。
「苦しいですって? それはとてもよろしい、もうちょっと苦しい気持ちを味わっていなさいな」
「えぇ!? 何で!?」
「何でですって……? よくもまぁいけしゃあしゃあと……!」
空に尋ねられたみちるが動きを止め、背後にゴゴゴゴという効果音を背負って見えるかのような表情を見せる。空が蛇に睨まれたカエルのように固まった。
「この羽は何! こんなことになってるなんてお母さん知らなかったわよ!? 何で言わないの!」
「うひゃぁ」
そう言ってみちるは空の背中の羽を遠慮なく触り始めた。ペタペタと触ったかと思えば羽を一枚一枚めくってみたり、なぞってみたりと色々だ。
「ちょ、ちょっとくすぐったいよお母さん!」
「何なのコレ、本当に生えてるじゃない。痛くないの?」
「くすぐったいって言ってるでしょ!?」
まるで言うことを聞く様子のないみちるに空が目を白黒させて叫んでいる。
だがみちるも別に怒っているわけではないようだ。
単純に心配なのだろう。
元からみちるは空とあまり会えないせいで顔を会わせると過剰にスキンシップを求めるところがあった。だがここまでひどいのは珍しい。
しばらく会えていなかったことと、空が熱を出したと言う知らせを受けて感情が爆発しているのかもしれなかった。
しばらくはこのままだろうと陸は諦めたが、一人そう言うわけにはいかない者がいた。
「もう、いい加減にしてよ!」
そう叫んでみちるを突き放す。不機嫌そうな顔をしてようやくみちるは離れた。
「そもそもお仕事はどうしたの?」
「あーそれならお父さんに全部押し付けて来たわよ」
「え!?」
空が驚愕に固まる。陸も同じだ。
空の両親が同じところで働いていることは知っていたが、どうやらそんな荒業も使えるらしい。
「何でそんなこと」
「何で? そんなの決まってるじゃない!」
そう叫ぶと再びみちるが空の体に抱き着く。
だが今度は力任せな物ではない。優しくふわりと外側から包み込むような抱擁。
「自分の娘がこんなに苦しんでて帰ってこないわけないでしょう! 大体何よこの羽、聞いてないわよ!?」
「それはその、心配させたくなかったし……」
「馬鹿! 子どもは親に心配かけていいの! ……そうしてもらえる親でいられなかったのは、悪かったと思ってるけど」
「そんなことっ……!」
みちるが悲しそうに言うと空が声を詰まらせながら叫ぶ。
「そんなことない! お母さんたちはずっとお仕事頑張ってた」
「でも、だからずっと傍に居てあげられなかったわ」
「寂しかったよ、一緒にいて欲しかったよ……でもお母さんたちも頑張ってたの知ってたから」
「あなただって頑張ったでしょう。寂しい時は寂しいって言ってよかったのよ」
「お母さん……」
空の目から一滴、涙が頬を伝う。
涙は後から後から溢れて来る。
もしかしたら小学校に上がって両親の仕事が忙しくなってからずっとため込んできたものだったのかもしれない。だとすれば10年分だ。止まるはずもない。
空がしゃくりあげる声を聞きながらみちるは抱きしめた背中を撫でる。
「これからはもうちょっと帰って来るようにするわ」
「お仕事は……?」
「お父さんが何とかするわよ」
それはちょっと無慈悲が過ぎませんか、と思ったが陸は口を挟まなかった。
空が少し笑っていたからだ。
「えへへ、それじゃあ今日ももう少し一緒に居られる?」
「もちろんよ。今日は後の事はお父さんにブン投げて――任せてきたからね」
「そっかぁ、ありがと……」
その様子を見て、陸はそっと部屋の入り口から離れた。
今は二人っきりにしてあげたいと思ったからだ。
「あ、陸君?」
「え、はい」
床の軋みでいることに気が付いたのか、それとも最初から気が付いていたのか。みちるに呼び止められる。
「連絡くれてありがとう。本当に助かったわ」
「いえいえ」
「後で色々聞きたいことがあるから。空とどこまで行ってるのかとか、さっきの連絡の件とか……本当に心配したのよ?」
「あ、ばれてるんだな……」
声ににじむじんわりとした怒りを感じながら、陸はそそくさと逃げ出した。
◇
家の中にいると声が聞こえるだろうと思って陸は少し外に出ていることにした。だがその足は玄関から出たところで止まる。
「あれ、大地君かい?」
「相本?」
そこにいたのは隣の家の呼び鈴を押そうとしている相本だった。学校の制服を着たままで、手にはスーパーの袋を手にしている。
「家が隣って言うのは本当だったんだね」
「こんなところでどうした――って、聞くだけ無駄だな。空のお見舞いか?」
いきなりの事だったが動揺も見せずに相本がこちらへ歩いて来る。
「うん、代田さんから住所を聞いてね。迷惑かもしれないとは思ったけど、どうしても気になって」
「あー、そうか」
「……?」
妙に歯切れの悪い陸の言葉に相本が首を傾げる。
ちょうどこれからインターホンを押すつもりだったようで相本は気が付いていないが、空は今陸の家にいる。何度インターホンを鳴らそうが出てくるはずがない。
だからと言って自分の家の方に空がいることを言うこともできない。
もしこのまま相本が家から何の反応もないことに気が付けば大騒ぎする可能性もあるだろう。それは、まずい。
「大地君も休みだったのは天野さんの看病かと思ってたんだけど」
「……ちょうど空が寝付いたところだったから一度自分の家の方に戻ってたんだよ」
「そうなんだ。体調は大丈夫そうかい?」
「熱もだいぶ下がったところだ。明日からはまた学校に行けると思う」
「良かった」
陸の言葉に相本がほっとしたような笑顔を見せる。
本気で心配してくれていたらしい。そのことが分かって少し罪悪感を覚える。
目の前にいる男は本気で空の事が好きだ。
にもかかわらず、自分は幼馴染と言う立場だけで同じ部屋で生活している。今さらながらその事実に胸が苦しくなる。
だがそれでも空の手を放すことは出来ない。
「良ければそのお見舞い、後で渡しておいてやろうか?」
「本当かい? それは助かるよ」
相本の笑顔が胸に刺さる。
だが、それでも知られるわけにはいかない。
相本が差し出したビニール袋を受け取る。
その時だった。
「ちょっとやめてよお母さん! 本気で怒るよ!」
「いいじゃないの、久しぶりの家族の団らんよ」
「りっくん助けてー!」
半開きにした扉の隙間から声が聞こえてくる。
ビニール袋を受け取った手が硬直した。
今のはどう考えても聞こえただろう。
何でこのタイミングで叫んだ!
陸はそう叫び返したかったが、そう言うわけにもいかず歯を食いしばる。
相本から非難を受けると思った。
なじられると思った。
付き合ってはいないと主張してはいるが、好きな女の子が自分以外の男の家にいるのだ。冷たい視線の一つや二つ、送ったとしても仕方ない。
だが、相本からは何も言葉がなかった。
恐る恐る陸は視線を上げた。
そこにいた相本は、視線を陸の背後の部屋へと向けているだけだ。
顔に浮かぶのはどんな怒りだろうかと恐れていた陸だったが、浮かんでいるのは優し気な微笑だけだった。
「相本……?」
「元気そうだね。良かった」
不審に思って声を掛けると、相本はただそう言って首を振るだけだった。
だが陸の顔を見て、何を考えているのか察したのだろう。
「正直、こういうこともあるかと思ってた」
相本は通路の柵に背中を預けながら、飄々した笑みを浮かべて言った。
「でも、君たち本当に付き合っていないのかい?」
「そうだよ……悪いかよ」
少し拗ねたような口調になるのはどうしようもなかった。
相本と話していると、陸は自分がひどく子どもに見えて仕方ないのが恥ずかしかった。
「何と言うか、それは大変だね……」
その目に怒りの感情は微塵もない。
呆れを通り越して憐れみにも似た感情が浮かんでいるように見えた。
陸は背後の扉を完全に閉じて、相本の隣に並んだ。これでも中から声は聞こえてこないだろう。
「何で、そんな顔してられるんだよ」
「怒った方がよかったかい?」
「そんなことは、ないけどさ」
相本の薄かった笑みが深まる。
陸の困ったような顔が面白かったのだろう。
「別にそういう感情がないわけじゃないよ。でも少し前から思うんだ。天野さんが自然に話していられるのって大地君の前だけなんだろうなってさ」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ。僕はね、天野さんには笑っててほしい。僕があの日見た天野さんの笑顔がいっぱい見たくて、彼女が好きになったんだ」
「……よく、分からない」
「あはは、まぁ仕方ないね」
声に出して笑う相本。
「りっくーん、どこー?」
だがすぐに扉の向こうから空の声が聞こえて来る。
「ほら、行ってやりなよ。お姫様のお呼びだ」
「……分かったよ。お見舞い、ありがとな。空にも伝えておく」
「頼むよ」
手を振って笑顔を浮かべる相本に背を向ける。
吹っ切れたような笑顔だったと、別れを告げてから陸は気が付いた。
だから扉が閉まる直前に滑り込んできた言葉が印象に残る。
「さて、僕もそろそろ腹をくくるとしようかな」
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