第17話 熱と本音


 ベッドに背中を寄りかからせながら、陸は左手で文庫本をゆっくりと読んでいた。耳にはざらざらと窓の外で降り続ける雨の音が届いている。

 今読んでいる小説は、ファンタジー物の冒険小説だ。初めは何の能力も持たなかった主人公が旅を通じて仲間を増やし、自分の居場所を作っていく。お人好しな主人公と彼の元に集まる優しい登場人物たちの物語が読んでいてとてもワクワクとさせられる。そんな小説だ。

 だから物語に引き込まれて緑の草原を通り、生い茂る森林を抜け、大海原を渡り、満点の星空の元砂漠を進む物語からふとした時に自分の部屋で雨音を認識すると自分がどこにいるのか一瞬わからなくなるのだった。


「んっんん……」


 その引き戻される一瞬も、背後のベッドから伸ばされた手を握る右手の感覚が強くなった時だけだ。

 本を閉じ、ベッドに目を向ける。

 陸の布団の上で寝るのは空だ。

 今その顔は赤く上気し、汗の粒が浮かんでいる。

 空が熱を出したのは今朝の事だった。

 目を覚ました時、空は苦しそうですぐに体調が悪いことは分かった。この前飲み物を頭からかぶったことが原因と言うわけではないだろう。ここ数日雨が降ったりやんだりを繰り返して気温の波も大きかったことが原因だろうと思われた。

 それで空の看病のため、陸は学校を休んでこうして一緒に部屋にいるのだった。そもそも手を放していると眠った空は浮いてしまうので離れられなかった。

 以前はがっしりと抱いていないと浮き始める空の体だったが、ここしばらくはどういうわけか手を握っているだけでもほとんど浮かばなくなっていた。だからこうして隣で手を握りながら本を読むことが出来るのだった。

 陸は文庫本を脇に置いて用意してあったタオルを手に取って空の顔の周りに浮いた汗を拭ってやる。

 すると目がうっすらと開いた。


「ごめんね、りっくん」

「何だよ。気にするなって」

「風邪、移しちゃうかも……」

「そん時はそん時だ」

「へへへ」

「今度はどうしたよ」

「りっくんは優しいなって」

「今更気が付いたのか?」

「へへへ、知ってた……」


 弱弱しい笑みを浮かべる空の顔を見ると、今すぐ布団の隣にもぐりこんで抱きしめたい衝動に駆られるがどうにか我慢する。

 代わりにすっと、冷却シートを張ったおでこに手を当てる。


「まだ熱が高いかな……もうちょっと寝てろよ」

「えー? もう眠くないよぅ」

「嘘だな。目が眠いって言ってるぞ」

「うー」


 何故か空が睨んでくるが、陸はそれを無視して握った手を放す。


「あ、どうして?」

「寝ないなら握ってる意味もないだろ」

「寝る! 寝るから握ってて!」

「はいはい……」


 まるで小さな子どもの頃に戻ったような空の言葉に、苦笑しながらもう一度空の手を握る。

 ほっそりとした柔らかい手だった。握りなれている手だが、いつ握ってもその瞬間はドキッとしてしまう。


「にへへへ……」

「笑ってないで寝ろ」

「はーい」


 だらしない笑みを浮かべる空にそう声を掛けると、陸は再び本を開いた。

 だが数行も進まないうちに背後から声を掛けられる。


「ねぇりっくん、静かだね」

「平日の昼間だからな。あと、雨の音がうるさいだろ」


 黙っていれば耳に入ってくるぐらいには雨音はうるさい。

 仕方なしに返事をすればやはり緩い笑い声が聞こえる。


「どうしたんだ、今日は?」


 熱のせいかだいぶ色々と緩い感じだ。


「うーん、そばにりっくんがいてくれるのが嬉しい、かな」

「何だよそれ。いっつも傍に居るじゃねえか」


 文字通り、家にいるときはほとんどずっと一緒だ。


「でも、いつもはこの時間学校だから」


 普段だったらそうじゃない、と言いたいらしい。

 若干熱のせいで頭が回っていないようだ。


「りっくんがいてくれるとやっぱり安心するよ」

「何だよ、いきなり」

「お祖母ちゃんがいたから、寂しくはなかったけど……寂しくて」

「どっちだよ」


 ぽつぽつという呟きは、うわごとのようにも聞こえた。

 見れば目がほとんど閉じかけている。熱のせいと言うよりは眠りかけてぼんやりとしているように感じた。


「りっくんにも、お母さんにも、お父さんにも会えなくてずっと、寂しくて……」


 瞼がさらに落ちる。


「傍に居てくれるのが、すごく、うれしくて……」


 声がかすれる。


「あり、がと、う……」


 声が途切れる。目はもう閉じて呼吸が安らかな物に代わっている。どうやら眠ったようだ。

 空に握られた手は、全く緩んでおらず力が入ったままだ。


「馬鹿だな、でもゴメン」


 空が感じた寂しさの何割かは陸自身のせいだ。

 だから、何とかしてやりたいと思う。


   ◇


 空が次に目を覚ましたのは陽が傾きかけた頃だった。

 体温計を渡して測らせると、熱は既にほとんど下がっている。


「うん、大丈夫そうだな」


 ほっと一息をつく。

 だがなぜか空は布団を頭までかぶって顔を隠していた。


「どうしたんだ?」

「その、なんていうか、色々言わなかった?」


 恐る恐ると言った顔で布団から覗かせた頬は赤い。


「色々言ってたな」

「全部! 全部熱のせいだからっ!」


 再び布団をかぶると空が絶叫する。今さら恥ずかしくなったらしい。

 布団の中で悶えている。


「ほーそうか全部熱のせいか。おばさん達に会えないって言ってたのも熱のせいか?」

「うっ、それは……」

「寂しいなら寂しいって言ってやれよ。頼られたほうががおばさん達も嬉しいだろ」


 空の両親は二人とも同じ職場で働いているらしい。仕事が忙しくほとんど家に帰ってこないため、陸もあまり顔を会わせたことはない。どうやら会社の近くに社宅を借りていて、そこに寝るためだけに帰っている状態だと言う。

 そう言えば最後に二人を見たのは空のお祖母ちゃんの葬式の時だった、と思い出す。


「……お祖母ちゃんのお葬式の時、言っちゃったもん」

「何て?」


 布団の中からもごもごと発せられる声に聞き返す。


「一人でも大丈夫だよ、って。もう高校生だから、って」

「……そんなことだろうと思ったよ」


 ため息とともにそう言う。

 空はそういう女の子だ。

 それを陸は知っていた。


「ところで空、おばさんと最後に連絡したのはいつ?」

「え? おばあちゃんのお葬式の後は……してない、かな?」


 言いにくそうにもごもごとした声が布団の中から返って来た。

 その様子にこれ見よがしにため息をついて見せる。


「仕方ないな、俺が何とかしてやるよ」

「……何とかって?」

「これだ」


 その言葉に空がようやくもぞもぞと布団から顔を出す。

 だが出した瞬間に首を傾げることになった。

 陸が手にしているのは空の携帯電話だったからだ。


「それが?」

「おばさんに連絡した」

「!?」

「熱が出て今にも死にそうって」

「っっっ!?!!?」

「おぉっと!?」


 布団から跳び起きた空が陸の握る携帯電話に手を伸ばすが、それは空を切る。その動きを予測した陸が後ろに下がって避けたからだ。

 だが少し下がったとはいえまだ熱がある為だろう。空はそのまま力なくべちゃりとベッドに崩れ落ちた。


「な、何でそんにゃことっ」


 ろれつが回らない舌で、混乱に目を白黒させながらも尋ねる。


「そりゃお前がいつまでたってもうじうじ立ち止まってるからだろ」


 このままだといつまでたっても変わらないだろう。

 人の携帯電話を勝手に使うことは気が引けたが、致し方なかった。


「で、でもお父さんもお母さんも仕事忙しいから……」

「さて、それはどうかな?」


 言った矢先、ピンポーンという呼び鈴が鳴る。

 しかも何度も連続してだ。


「え?」

「ちょっと待ってろ」


 そう言って陸は目を丸くする空を置いて部屋を出た。

 廊下を抜けて玄関へ向かうと、控えめな音ながら高速でノックが繰り返されているのが聞こえてくる。もし深夜にこんな状況に遭遇したら確実に泣く。

 妹の美里がいなかったのは幸いだった。


「はいはーい、今開けますよ――っと」


 鍵を開けるとドアノブを回す前に扉が外側から開かれた。

 ドアの外にいたのはセミロングの黒髪にパリッとしたスーツを着た女性。

 その険しい目と目が合って、


「あ、どうそ」


 と陸は道を開けた。


「ごめんなさい、ありがとう」


 短く女性はそう言うと靴を乱雑に脱いで部屋に急ぎ足で上がる。そのままわき目もふらずに陸の部屋へ向かって突撃していった。

 直後部屋から聞こえる悲鳴。


「……まさかここまで効果があるとは思わなかったな」


 手の中にある自分が連絡に使った携帯電話を見下ろしてそう呟く。

 彼女の名前は天野みちる。

 一見してかっこいいか怖い、と言う印象を抱くような女性だ。だが陸は知っている。彼女が自分の娘のことを本当に大切に思っていることを。自分が抱えている仕事上の責任と板挟みになって悩んでいたことも母親の水面伝手に聞いて知っていた。

 そう、彼女が空の母親だ。

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