第14話 浴室の戦い


 一体何が起こっているのかわからなかった。

 と言うか目隠しをされているから本当に何が起こっているのかわからない。

 パンツまで脱がされるのは何とか死守した陸だったが、風呂にはタオル一枚腰に巻いた状態で押し込まれてしまった。非常に頼りない。

 そしてさらっと体を流して熱い湯船に沈めると、すぐ後を空が追いかけて本当に風呂に入ってきたのだ。


「♪」


 風呂の中に空のご機嫌な鼻歌と、体を洗う音が響いている。

 目を閉じているせいで嗅覚が鋭くなっているのだろうか、いつも使っているボディソープの香りが鼻に届く。

 いま隣で、同い年の幼馴染が体を洗っている……というのか。

 いや、見ていない以上それはきっとシュレディンガーの猫だ。

 もしかしたらまだ俺をからかっているだけの可能性があるはず……!


「ねぇ」

「ひゃい!?」


 陸が頭の中でよくわからない何かと戦っていると、空がごく自然に話しかけて来る。だと言うのに陸はまるで女の子のような悲鳴を上げてしまった自分に顔を赤くしてしまった。


「こうしてるとさ、なんだか懐かしいよね」

「懐かしい? 風呂にはいつも入ってるだろ?」


 さっきは自分の家で風呂に入ろうとしている空に驚いたが、妹の美里がいるときはよく二人で一緒に入っている。一人でうちの風呂に入っているところは見たことがなかったのでああ言ったのだ。


「そうじゃなくて、りっくんと一緒に入るのがってこと」

「ああそういう。それはまぁ、確かにそうだけど」


 小学校の高学年で疎遠になってからは風呂どころか会話すらなかったのだから仕方ないだろう。もう一度こんなことになるとは思ってもいなかったが。


「だからさ、ね」

「ん?」


 ピン、と脳裏に嫌な予感が響く。


「頭洗って?」

「絶対に断る!」

「えーなんで?」


 湯船に浸かる陸の耳元で空の残念そうな声が響く。見えないがかなり近くに顔を寄せているらしい。湯船の中、腰にかぶせたタオルを手探りで押さえた。


「やるか! 俺もお前ももう大人なんだから出来るだろうが」

「でも昔はやってくれたでしょ?」

「今は大人だっつってんだろ!? あと、昔はお前目を開けてシャンプーできなかったからな。仕方なくだ、仕方なく」

「むー……」


 むくれたような空の声。

 空気が動く気配。

 空が顔をさらに近づけたのだ。


「どうしてもいや?」

「どうしてもだ」

「じゃあ目隠し外しちゃうね」

「はあっ!?」


 言葉だけではなく、伸びてきた手を気配だけを頼りに弾く。

 冗談ではない、本気で外そうとする手の動き。陸は慌てて再び伸びてきた空の手を正面から掴んで動きを封じた。


「お、おまっ、何やってんだよ!」

「えー? だったら頭洗ってよ」

「脅迫!?」

「ほらほら、どっちにするの?」


 空のからかうような声。

 連想されたのはもう一人の幼馴染だ。

 絶対に千秋に悪い影響を受けている……。

 腕に伝わる空の力は本気で、湯船の中で座ったまま腕を伸ばしている陸には明らかに不利な状況だった。このままではいずれ目隠しを取られてしまう。


「……分かった。洗ってやるから目隠しを外そうとするのはやめろ」

「やったっ」


 空の短い快哉に陸はため息をつく。

 腰に巻いたタオルが落ちないよう再度手で押さえつけながら湯船を出る。腰に張り付く感触が頼りない。


「こっちこっち。はいこれシャンプー」


 風呂場に立ったところで手を引かれ、開いた手のひらに冷たい感触のとろりとした液体が注がれた。仕方なしにシャンプーを手の中で泡立ててやる。


「それじゃ、お願いしまーす」

「はいはい分かりましたよっと」


 泡立てが終わったところで空の手が伸びてきて引かれる。指先が湿った空の頭に届いた。つるつるすべすべとした感触。

 少しドギマギしながらも陸は空の頭を洗い始めた。

 出来るだけ丁寧に髪と地肌を洗っていく。

 指が地肌を擦るたびにそらが「んぅ」とか若干色っぽい声を上げるのが心臓に悪い。

 しかも目隠しで視界を封じている状態のためか、より指先の感覚が鋭敏になっている気がする。

 指が髪の間をすり抜けるたびに柔らかい地肌をなぞり、髪に隠れた空の頭の形が脳裏に描かれていくのだ。頭をそうやって撫でていく間に陸自身その感覚が楽しくなってくる。


「……流すぞ、シャワーくれ」


 だがいつまでもやっているわけにはいかない。全体にシャンプーがいきわたってところでシャワーを要求する。

 だが、空からの返事がなかった。


「空?」

「ハッ!? う、うん。シャワーだね」


 空の少し焦った声と、シャワーが流れ始める水音。


「お前もしかして今寝てたか?」

「うっ、だって気持ちよかったんだもん」


 椅子に座ってるとは言え、器用なことをするものだ。


「ほら、流すぞ」

「はーい」


 手渡されたシャワーのノズルから出る水温を確かめて、ひと声かける。髪に優しく指をくぐらせながら、頭を洗っていった。


「はぁー、すんごく気持ちよかった。なんかりっくん昔よりもうまくなってない?」

「んなわけないだろ」


 こうして誰かと風呂に入るのも本当に久しぶりだ。


「ホント気持ちよかったー」


 そう言って目の前の空が腰を上げる気配がする。


「何言ってんだ。まだ終わってないだろ」

「え?」

「次はリンスよこせ」


 さぁしっかり洗ってやろう。


   ◇


「はぁ~。気持ちよかった……」

「そりゃよかった」


 しばらくして、浴室には満足げな空の声があった。

 陸は空の声音に安堵する。もし万が一にでも満足できなかった場合、何を言われるか分かったものじゃない。


「じゃ、もういいだろ? 俺は風呂で温まれたし、もう出るから」


 安堵のため息とともに腰を上げるが、そこに空の声が被せられる。


「え? 何言ってるの、次はりっくんの番だよ」

「は?」


 ぴしり、と陸は自分の体が彫像と化したかと錯覚した。


「ほらほら座って座って」


 上機嫌な空の声と手に引かれ、あれよあれよという間に椅子に座らされる。そもそも陸は目隠しをされたままで、抵抗できる状態ではなかったが。


「お、おい空! 俺は別にいいって!?」

「遠慮しない遠慮しない。ほいシャワーかけるよ」

「うぉっ!?」


 いきなり頭からかけられたシャワーに慌てて口を閉じる陸。あとちょっと閉じるのが遅ければお湯が入っていたところだった。

 同時に、シャワーのノズルを握っていない左手が少し乱暴に陸の髪をかき回す。


「それはシャンプー始めるね」

「もう好きにしろ……」


 もはや戦う気力をなくした陸は空にされるがままだった。

 と言うよりも、空にしてもらうシャンプーとリンスが気持ち良すぎて変な声が出るのを我慢するので精いっぱいだったからなのだが。

 それと同時に、目隠しで奪われたはずの視界に昔の光景がよみがえって来る。

 あの頃もこうして一緒に風呂に入ってお互いに洗いっこをしたものだった。その時に見た光景を思い出しそうになって、記憶を振り払うように頭を振る。


「ああっ、ダメだよりっくん。動かないで」


 その言葉と共に空ががしっと陸の頭を固定する。

 すでに今はリンスで髪を洗っているところだ。


「でも本当に懐かしいね。昔はこうして一緒に洗ってたもんね」


 どうやら空も同じことを思い出していたらしい。無意識に同じことを考えていたことに何となく胸が高揚する。その気持ちは隠して、口を開く。


「だから昔の話だろ」

「今だってこうして一緒にお風呂に入ってるよ?」

「それはお前が無理矢理――」

「ねぇりっくん」


 いきなり空の声が真剣な物に代わる。

 リンスで洗っていた手も止まっている。


「もう昔みたいにはいられないの? 私はずっと、あの頃と同じように――」

「空……」


 目隠しされているために見えないが、きっと今の空は寂しそうな顔をしているのだろう。それが容易に想像できるような声だった。

 だが、言わなければいけない。


「無理だよ、空」

「っ!?」

「俺もお前もこれからもっと大人になっていくんだから。昔みたいな子どものままじゃいられない。関係だって変わってく。お前もいつか誰かと結婚して――相本みたいな男と一緒になった時に俺とこんなことしてたらおかしいだろ?」

「相本君、と?」


 ずっと思っていたことがある。

 再びこうして空と一緒にいるようになってから、空は意識して関係が崩れる前と同じことをやろうとしている。陸はそれに別に違和感を抱かなかったが、今はっきりと感じた。

 空は昔に戻りたがっている。


「俺だって、あの頃はいつも楽しかった。戻れるなら戻りたいって思うときもある。でも俺達はもうこのまま行くしかないんだから。大人になってくしかないんだから」


 だから、胸の中にある重たい気持ちをそのままに告げる。


「俺に昔みたいな関係を求めるのはやめろ。俺はそれに応えられない」

「……」


 反応は、無い。

 目隠しが邪魔だった。

 ちゃんと目を見て話せれば空が何を思っているかぐらい大抵は察せると言うのに。

 もどかしい感情を押さえながら一秒、二秒、三秒、時間が過ぎていく。

 わかってくれないだろうか、そう心配になって陸がついに声を掛けようとしたときになって背後にいる空がすっと動いたのが空気の動きで分かる。


「うわっ!?」


 水音と共に頭からいきなりシャワーをかけられる。


「あはは、冗談だよ。心配した?」


 無駄に明るく、陽気な声で空がそう言いながらシャワーをかけて来る。


「空……」


 見るまでもない。

 声だけでわかる。

 でもそれは空も同じだった。陸が誤魔化されなかったことはすぐに分かったのだろう。


「それじゃこれで頭はお終い。次は体行こうか」

「おい待てそれはさすがにシャレになんねえぞ!?」

「ほら動かないの」

「ふぉっ!?」


 慌てて立ち上がろうとした陸の肩にのしかかるように空が体を預けて来る。

 肩から背中の前面にかけて暖かい感触が広がった。大きくはないがしっかりと柔らかな双丘の感触もある。だがなぜかその感触はつるつるとした感触に包まれている。

 そのことに疑問がもたげた陸だったが、それよりも肩から体の前面に垂らされた空の両手が無秩序に動いて陸の体を撫でまわしたことでそんな疑問が吹っ飛んだ。


「うわー、結構体ごつごつしてるし固ったいんだね。これは洗い甲斐がありそう」

「おい馬鹿っ」

「安心してよ、しっかり背中ももちろん――下も洗ってあげるからね?」

「~~~っ!?」


 耳元でささやかれたその言葉が限界だった。


「やめろって言ってるだろうが!?」


 背中に覆いかぶさったままの空を気にすることなく強引に立ち上がる。同時に空から距離を取ろうと狭い浴室内で背後にいるはずの空を振り向いた状態で後退る。

 しゅるり、と音を立てて視界を覆っていたタオルが落ちて視界が一気に明るくなる。

 しまった、と思う間もなく目の前の床で尻餅をついたままの空の全身が視界に映った。

 心は見るな、と言っているのに肉体が言うことを聞かずその全身を余すことなく視界に収めたところで陸の口から低い声が漏れる。


「お前……なんで水着着てんの?」

「あはは、ばれちゃった?」


 ちらりと舌を出して笑う空は見覚えのないセパレートタイプの水着を纏っていた。

 薄青色のそれは、こんな状況だと言うのに空によく似あっているように見えた。


「もうすぐ夏本番だからこの前美里ちゃんと買いに行ったんだ。似合う?」

「似合ってるけど、いやそんなんじゃ誤魔化されねえぞ!」

「きゃー、怒った?」


 目隠しの向こうでは全裸の空がいると思っていた陸は胸の中に怒りと安堵と落胆が入り混じった複雑極まりない心境で、悲鳴を上げてしなを作る空の姿にこの気持ちをどこにぶつければいいのか分からなかった。


「じゃ、そろそろ体洗おっか?」

「やらねえよ!」


 手にボディソープを出して言う空に今度こそはっきりと突っぱねる。

 だがそれがよくなかった。

 勢いよく言い放ったためか、元々緩んでいたのか。

 ぱちゃん、と小さな音を立てて濡れたタオルが浴室の床に落ちた。

 耳に届いたその音と同時に、自分の腰回りが涼しくなったことを受けてゆっくりと視線を下げる陸。

 同時に、同じく下がっていくのを刺さる視線から感じる。


「っっっっ!????!!?!?!?!」


 声にならない悲鳴が浴室にこだました。


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