第13話 雨音と記憶


 ふと、昔のことを思い出す。

 小学校の頃、空との間に溝が生まれる前の話だ。

 当時はほとんど朝から晩までずっと一緒で、夜寝る時も大抵は一緒だった。

 寝る時空は陸の胸に顔を押し付けて来ることが多かった。だから陸は空の頭を胸に抱くようにして眠ることが多かったのだが、なぜか朝目が覚めると空の顔が真正面にあることが多かった。

 朝目が覚めて一番に目に入る光景。

 空の長いまつげと陽光を反射する白い肌。わずかに開いた口元からは安らかな寝息が漏れている。瞼が閉じられたその寝顔は安らかで、朝起きて一番にその顔を見ると陸はなぜか安心したものだった。

 朝の光を感じて目を開く。

 目の前にあったのは記憶と同じ位置にある空の寝顔だった。

 ただ、その顔は記憶の中の物よりも幼さが抜けて大人びている。空の寝顔を見て感じる安心感はあの頃のままで、けれどそれと同時に胸の中に湧き上がる別の感情だけが当時と違っていた。


「ん……」


 わずかに震えて、瞼が持ち上がる。

 一瞬だけ、焦点がさまよってから陸を捉えた。

 ふんわりとした笑顔になって、空が口を開く。


「おはよ、りっくん」

「……おはよう」


 たったそれだけのことに動揺して、声が憮然としたものになってしまう。

 怒っていると勘違いさせたかと一瞬心配になるが、目の前の天使はまだ眠いらしく目が半分閉じかけている。その顔がとてつもなく愛おしくなって手を伸ばす。


「ふにゃ!?」


 頬をつねられた空が変な声を上げる。


「にゃ、にゃにするの!?」

「柔らかそうだと思ってさ」


 怒っている、と言うよりも驚いた声を上げる空の頬を放してやると、つねられた部分をさすりながら身を起こした。

 陸も目の端に涙を浮かべる空に続いて起き上がると、窓へと向かった。シャッと音を立ててカーテンを開くとうっすらと隙間から差し込むだけだった光が一気に部屋へと侵入する。


「今日は雨が降りそうだな」


 遠くの空に黒く垂れこめた雲を見つけて小さく呟く。

 

   ◇


 陸の言の通り、朝学校に着くころには外は既に土砂降りの様相だった。

 雨音を聞きながら一日の授業を受ける。教師の声と、雨が地面を打ち付ける音だけがずっと聞こえてくる環境は、陸の眠気を限界まで引き上げていた。

 いつも夜隣で寝ている空を意識してなかなか寝付けないでいることも影響していただろう。

 それでも最後のホームルームまでは起きていたのだ。


「おい、陸。さすがに起きろよ」

「ん?」


 冬彦の声で陸は自分が眠っていたことに気が付いた。机の上に腕を枕にして眠っていたようだ。上体を起こし、開ききらない目を擦って無理矢理に開ける。


「さすがに寝過ぎだね~。夜寝られてないのかにゃ~?」

「別に……」


 好奇心むき出しの顔で訊ねて来る千秋に陸はぶっきらぼうに答える。

 この女にもしばれようものなら一瞬で学校中に秘密が暴露されかねなかった。


「ねぇ、大地君ちょっといい?」


 と、そこへ声が聞こえた。

 顔を上げるとそこには栄子と椎が立っている。話しかけてきたのは椎の方だ。


「あぁん? 何か用かよ?」


 だがなぜかチンピラのような声を発したのは冬彦だった。

 その声に反応したのは栄子で、彼女も目を吊り上げながら、


「はぁ? あんたには聞いてないっつの」

「んだとごらぁ」

「あぁん?」


 何故か額を突き合わせてガンを飛ばし合う二人。

 がるるるる、と犬歯をむき出しにしていがみ合っているが、この二人こんなに仲が悪かっただろうか。ふと疑問に思う。あまり相性のいいようには見えなかったが……。


「あの二人の事は、気にしないで」


 椎が小さなポニーテールを揺らしながら、陸に顔を近づけて来る。

 ふわり、と柑橘系の匂いがした。

 空とは違う、甘い空気。

 だが空ほどにどきりとはせず、ただ普段話さないこのクラスメイトが何の用かという警戒心だけが胸を満たした。


「大地君はさ、結局そらっちと仲いいの?」


 その言葉は、警戒していたほど陸の胸を抉りはしなかった。

 むしろすっと陸の口から言葉が出る。


「昔はな。仲良かったよ」


 きっと以前ならもっと動揺していただろう。


「昔は、ってことは今は?」


 そう問いかけてきたのは冬彦にチョークスリーパーをかけた栄子だ。


「今は、仲はいいと思うよ」

「……ふーん」


 栄子の若干納得していない返事。

 それよりも早くその手を放して下さい冬彦の顔が青紫色です。


「それより、何でそんなこと俺に聞くんだよ。そ――天野は?」

「そらそらは今日はもう帰ったわよ」


 そう言いながら栄子がようやく手を放す。冬彦が膝から教室の床に崩れ落ちてぴくぴくしていた。それを千秋が面白そうにつついている。


「昨日の二人の様子、見てたら普通じゃなさそう、だったから……」


 昨日の様子を不審に思ったらしい。だがそれも仕方ないことだろう。普段空とはほとんどかかわりを持とうとしなかった陸がいきなり手を引いていたのだから。


「二人は幼馴染なんだよ~」

「っ、千秋!」


 いきなりの千秋の暴露に陸が慌てる。

 だがそれを聞いた栄子と椎は落ち着いていて、


「ふーん、昔は仲良かったってのは?」

「男の子の思春期ってやつかにゃ~」

「あぁ、なるほど、ね」

「もうやめてくれ……」


 聞かれたくない黒歴史を掘り起こされた気分で机に思わず突っ伏す。


「んで、これは結局そらそらの事が好きなわけ?」


 その問いに、がばっと体を起こし千秋をにらみつける。言うんじゃないぞ、という圧と共にだ。


「あ~、まぁこういう感じかにゃ~」


 珍しく苦笑いした千秋が陸を指さして言うと、栄子と椎が頷いた。


「なるほどね……」

「うああああああああ」


 周りを囲む女子たちの目が、陸の心をはっきりと理解したことを示していた。

 今度こそ、体から力が抜け落ちた。

 何も考えられず机の上にだらりと溶ける。


「もうさっさとくっつけばいいのに~」

「いや、でもそらそらとこれがくっつくのはさぁ」

「相本君……かわいそう」

「にゅふふふ~、まぁそう簡単にはいかないよん」


 もう好きにしろ……

 絶望と共に女子たちの会話から耳を遠ざけるために、雨音に耳を傾けるのだった。


   ◇


「ああくそっ、濡れた!」


 陸は悪態をつきながら家のドアを開けた。

 結局女子三人から解放されるにはかなりの時間が必要で、まだ誰もいないらしい家の中は暗く沈んでいる。

 ドアを閉めると朝から一切勢いの衰えない雨音がようやく少し静かになった。

 陸はぐっしょりと濡れた靴下を脱ぎながら脱衣所へ向かう。


「あんのトラックマジ許さん……」


 家のすぐそばで盛大に水をかけて来たトラックに呪詛の言葉を吐く。

 体に張り付いて気持ち悪いシャツを脱ぐ。廊下に点々と水跡を残すことになるが、片付けは後だ。今はとにかくこの不快さから逃げたかった。

 体も冷えているし、出来れば湯船に浸かりたかったがそれには一度沸かす必要がある。一度シャワーを浴びてから入り直すことになりそうだ。

 うんざりしながらも風呂へと急ぐ。

 途中、人気のない家の中を見回してそう言えば空はどこにいるのだろうと思うが自分のくしゃみでその思考を途切れさせる。


「今はシャワーだシャワー」


 そう思って脱衣所の扉を開けた陸は体を硬直させる。

 誰もいないはずなのに脱衣所の電気が付いていて、いきなり目がくらむ。

 だが目がくらんだのは灯りのせいではない。

 真っ先に目に入ったのは真っ白な肌だった。

 小柄で華奢な背中と、そこに広がる一対の小さな羽。

 振り返った黒い瞳がキョトンとこちらを見ていた。


「あれ? りっくん?」


 辛うじて前を隠していたタオルを握っていた手が疑問から力が抜けたかだらりとぶら下がり、空の大事な部分が一つ残らず露わになる――


「うわあああああああああああああああああ!」


 直前に陸は絶叫と共に脱衣所の扉を勢い良く閉じた。

 それと同時に扉に背中で張り付きながら思わず周囲を確認する。間違って隣の空の家にでも入ってしまったのかと思ったのだ。


「んなななななな、なんでコッチで風呂に入ってんだよ!?」

「うちのお風呂、壊れちゃったみたいでお湯出ないんだよね。それよりもりっくん大丈夫? ずぶ濡れじゃなかった?」

「おいやめろ! ドアを開けようとするんじゃない!」

「えー? でも開けないとお風呂入れないよ?」


 そう言いながらも陸が張り付いた扉を開けようとしている。


「やめろ、バカ!」

「むー、なんだよう。一緒に入ればいいじゃんか」

「入れるわけないだろお前! 俺達はもう高校生なんだぞ!?」

「小学生の頃は一緒に入ってたじゃない」

「そんな昔のことを今更持ち出すな!?」


 陸の悲鳴にも似た絶叫に、ようやく扉を開けようとする力が弱まる。


「じゃあどうやったら一緒に入ってくれるの?」

「どうやってもねぇよ……見えたらお互い恥ずかしいだろうが」


 一体どこに羞恥心を忘れてきてしまったのか。

 陸は頭を抱えたくなった。


「あ、そっか。見えなきゃいいんだね」

「は?」


 一瞬気を緩めたのがよくなかった。

 背後の扉に一気に力がかかり、勢いよく脱衣所への引き戸がスライドした。

 陸は引き戸に背中を預けるようにしていたため、いきなりそれがなくなったことで当然の如く背中から倒れることになった。後頭部がゴン、と大きな音を立てて床とぶつかるがそれどこではなかった。

 視界が一気に明るくなり、目の前に再び真っ白な空の足が映る。一瞬の間にふくらはぎから上の方へと無意識に視線が昇っていく。

 だがその視界が上から降って来た何かによって閉ざされる。


「これなら見えないしいいでしょ?」


 顔に触れたのは柔らかい感触の布――タオルだろうか。うっすらと布地越しに天井の光が感じられる。頭上で空が床にかがみこんだ気配があって、床にあおむけで倒れたままの陸の頭にその手が回された。


「ちょっと頭上げてね」


 陸の頭の後ろでタオルが結ばれる。

 いや、確かにこれなら見えないけども。

 そう声を上げようとした陸だったが、その言葉が出ることはなかった。


「じゃ、ぬぎぬぎしましょうねー」

「え、は?」


 今日最大の爆弾が投下されたからだ。

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