6-15 口に出せない言葉
その頃、朱莉は蓮の為にベビー服を縫っていた。すると携帯に着信が入って来た。
「え・・?翔先輩?」
時計を見ると午後1時を過ぎた処である。平日のこんな時間に電話なんて珍しいと思いつつ、朱莉は電話に出た。
「はい、もしもし。」
『朱莉さん。実は・・・今部屋に帰ってきているんだよ。今日は訳あって早退してきたんだ。』
「え・・・?もしかして具合でも悪いのですか?熱でも出ましたか?」
『いや、そう言う訳ではないんだけど・・・もしかして心配してくれているのかい?』
「当り前じゃないですか。でも・・具合が悪くて帰って来たのでないのならば安心しました。」
『朱莉さん・・・実は少し話したい事があって・・・今、お邪魔してもいいかな?』
朱莉はチラリとリビングに置かれたベビーベッドを見ると、蓮はベッドの中でぐっすりと眠っている。
「はい、大丈夫ですよ。今レンちゃんはぐっすり眠っていますし・・・。お待ちしていますね。」
『ありがとう。5分程で行くよ。』
そして電話は切れた。
(翔先輩が来るならお茶の準備をしておかなくちゃね。)
朱莉はキッチンに向かうとウォーターサーバーの水をやかんにいれ、IHクッキングヒーターに乗せるとスイッチを入れた。
その間にカップを2つ出してくると、買い置きしておいたドリップバッグを食器棚から取り出した。
(確か以前に翔先輩にキリマンジャロのブレンドコーヒーを出したら美味しいって言ってくれたよね・・・。)
朱莉がカップにドリップバッグをセットし終えた頃に、丁度お湯が沸いた。沸いたお湯を魔法瓶に移し替えた直後、ドアのインターホンが鳴ったので朱莉は急いで玄関に向かうとドアを開けた。
「こんにちは、朱莉さん。」
そこには普段着姿の翔が立っていた。
「こんにちは、翔さん。どうぞおあがりください。」
「ああ、ありがとう。それじゃお邪魔します。」
玄関で靴を脱ぎながら翔は思った。
(いつになったら俺はお邪魔します、ではなく・・ただいまと言える日がくるのだろう・・。)
そして朱莉を見ると、にこりと笑った。
「・・・。」
思わずその笑顔に見惚れ、動きを止めると朱莉が首を傾げてきた。
「翔さん?どうかしましたか?」
「あ、い・いや。何でもないよ。」
そして部屋の中へ上がり込み、ベビーベッドで眠っている蓮の様子を見に行った。蓮はバンザイをした格好で眠っている。
「しかし・・・何故赤ちゃんと言うのはバンザイをして寝るのかな。不思議なものだ。」
翔は蓮の寝姿を見ながら言った。
「あ?バンザイして寝ていましたか?可愛いですよね。その寝姿。バンザイして眠っているのはリラックスしている証拠らしいですよ。他には体温調整をする為もあるみたいですね。」
朱莉はコーヒーを入れながら言う。
「あ、そうだ・・・。実は今日赤坂で食事会があったんだ。ただ・・・俺は分け合って途中で退席したんだけど・・・それで駅に向かう途中で行列が出来ているスイーツの店があったんだ。俺も並んで買ってきたから・・・2人で一緒に食べないかい?」
言いながら翔は持ってきた紙の箱をテーブルの上に置いて、中を開いて取り出した。
「あ、これは・・今人気のバスクチーズケーキですね!」
朱莉の目が輝いた。
「ああ・・そう言えば確かそんな名称だったと思うな・・・。でもよく分かったね。どうもスイーツにはあまり詳しくなくて・・・。」
翔は言葉を濁しながら言った。
「そうなんですか?最近はスイーツ男子なんて言葉も出ていますけど、まだ甘いものが苦手な男性は多いですからね。このバスクチーズケーキっていうのはケーキの上の部分が焦げているのが特徴なんですよ。スペインのバスク地方のチーズケーキなのでバスクチーズケーキって呼ばれているそうです。」
「へえ~なかなか詳しいんだね。」
翔は感心したように言った。
「え、ええ・・・でもまだ一度も食べたことが無かったんです。だから・・・買ってきて頂いてとても嬉しいです。ありがとうございます・・。」
朱莉は頬を染めてお礼を言った。
「い、いや・・・ほら。この間のバレンタインのお礼・・・うっかり忘れてしまっていたから・・ホワイトデーのほんのお返しだよ。」
実は先週がホワイトーデーだったのだが、その頃仕事が立て込んでいたのでうっかり失念してしまっていたのだ。気付いたときにはもう遅く、今になってしまっていた。
「そんな・・ホワイトデーのお返しなんて気にしないで下さい。こんな立派なお部屋に住まわせて貰ってるだけで私は十分ですから。」
住まわせて貰ってる・・・。朱莉のその言葉を聞くと翔の胸は痛んだ。
朱莉のその言い方は自分と朱莉の間で一線を引かれてしまっているようで寂しく感じてしまう。翔の気持ちは朱莉と正式な家族になりたいという思いで一杯なのに、当の朱莉はいつまでたっても雇用主と雇用者の関係としか捉えていない事実を突きつけられているようなものだった。
本来なら明日香との関係が終わってしまった時点で、朱莉との契約婚は終わりにするべきなのかもしれない。だが、今更になって今度は翔が朱莉を手放したくない気持ちで一杯になっていた。だからこそ朱莉から契約婚の終了を言い渡される前に、本当の家族になろうと伝えたいと思ってはいるのだが、いざ朱莉を前にすると何も言えなくなってしまう自分が不甲斐なかった。
「どうかしましたか?翔さん。」
不意に声を掛けられて、翔は我に返った。目の前には入れたてのコーヒーが置かれている。
「あ、ああ。コーヒー淹れてくれてたんだね。有難う。うん・・いい香りだ。」
「このコーヒーはキリマンジャロのブレンドコーヒーなんです。以前美味しいと言っていましたよね?」
「覚えていて・・・くれてたのかい?」
翔は目を丸くして言った。
「はい、私もこのコーヒー好きですから。」
「そうか・・・俺達気が合うな。」
翔は朱莉を意識しながら言うと、少し間を開けて朱莉は答えた。
「・・・そうですね。」
答えながら朱莉は思った。
(翔先輩・・・突然どうしちゃったんだろう・・。あんな台詞今迄一度も言った事無いから、驚いてなんて答えればいいか一瞬分からなくなっちゃた。)
一方の翔は朱莉の返事に間があったことが気になって仕方が無かった。
(何だ・・・今の間は・・・。ひょっとして気が合うと言われた事が嫌だったのだろうか?だけど、そうですねと答えてくれたし・・・いや、そもそもその返答が単なる社交辞令かもしれないし・・。)
翔の落ち着かない様子を朱莉は不思議そうに見つめていた。
(そう言えば・・・今日はどうして会社を早退してきたんだろう・・。どうしよう・・聞いても大丈夫かな・・・?)
そこで朱莉は躊躇いがちに翔に尋ねた。
「あの・・・翔さん。差し支えなければ・・・何故本日会社を早退したのか・・教えて頂けますか?無理にとは言いませんので。」
「ああ・・実は今日は姫宮さんを連れて二階堂先輩と食事会をしたんだよ。先輩も自分の会社の女性秘書を連れて来る予定だったのに、秘書の娘さんが風邪を引いてしまったから会社を本日は休んだと言う事で連れて来なかったんだけどね。でも俺は途中で退席してきたんだ。そして今日はもう会社に戻る事は辞めにしたのさ。自宅でも仕事は出来るしね。」
「そうなんですか。でも・・二階堂さんの秘書の方はお子さんがいらしたんですね。それにしても凄いですね・・・お子さんがいながら秘書をやっている方なんて・・本当に尊敬します。」
「朱莉さんも・・・子育てしながら働く女性は素晴らしいと思ってる?」
「ええ、勿論です。でも家にいて子育てを頑張っているお母さんも凄いと思っています。」
朱莉の言葉に翔は笑いながら言った。
「ハハハ・・・何言ってるんだい。朱莉さんだって子育て頑張ってるじゃないか。」
すると朱莉は翔の目を真っすぐに見つめると言った。
「はい・・・でも期間限定ですけどね・・・。」
「!」
その言葉に翔は凍り付いた―。
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