2-12 月夜とビール

「九条さん。遠慮しないでビール飲んで下さいね。今お風呂の準備してきますから。」


「あ、ああ。ありがとう。それじゃ・・後はお風呂に入ってからビールを頂く事にするよ。」


琢磨はテーブルの上に飲み終えた缶ビールを置くと言った。


「そうですか。では少しお待ち下さいね。」


そして朱莉はバスルームへと消えて行った。琢磨はそんな朱莉の姿を見つめながら思った。


(何だか信じられないな・・・今こうして朱莉さんの部屋で食事をご馳走になって、ビールを飲んで・・お風呂まで用意してもらって・・そして・・・。)


その時、突然ベビーベッドで鳴き声が聞こえた。


「う、うわっ!目が覚めたのかっ?!」


慌てて琢磨は蓮の様子を見に行くと、顔を真っ赤にして泣いている蓮がいた。


「ど、どうすればいいんだ・・・?」


今迄一度も・・しかも生まれてまだ間も無い赤子の世話など焼いた事が無い琢磨は焦ってオロオロしていると、そこへ朱莉が戻ってきた。


「あ、朱莉さんっ!大変だっ!れ、蓮が・・っ!」


すると朱莉が慣れた手つきで蓮を抱き上げると、言った。


「レンちゃん。おむつが気もち悪くて目が覚めちゃったの?」


笑いながら話しかけると、朱莉はおむつを交換する為に準備を始めた。そして手早く交換する様子を琢磨は黙って見つめていた。


「はい、レンちゃん。綺麗になりましたよ。」


そして朱莉は蓮を抱き上げると、自分の胸に押し当て、背なかを撫でながらキッチンへ向かった。


「あ、朱莉さん。次はどうするんだ?俺・・・何か手伝うよ。」


「大丈夫ですよ?九条さん。お風呂も沸いてますし・・・どうぞごゆっくり入ってきて下さい。」


朱莉はまだ力なく泣いている蓮を抱きしめたまま琢磨に言った。


「いや・・・でもそれだと・・・。」


「私はレンちゃんのお世話は慣れてるので平気ですから。着替えもだしてありますし。」


流石にここまで言われれば、朱莉の言う通りにせざるを得なかった。


「あ、ありがとう・・・それじゃお風呂・・・頂くよ。」


「はい、ごゆっくりどうぞ。」


朱莉の笑顔に見送られながら琢磨はバスルームへと向かった。


バスルームへ行くと、朱莉の話していた通り、タオルにバスタオル、着替えにパジャマが用意されていた。それを見て琢磨はポツリと呟いた。


「子育てで忙しいのに・・・俺・・・朱莉さんに迷惑かけてるな・・・。これじゃあ航に知られたら大変だ。」


琢磨は苦笑すると、服を脱いで風呂場のドアを開けた―。



 お風呂から上がると、朱莉の姿が見えない。


「朱莉さん?」


部屋の中を探してみると、客室で明かりが漏れていた。中を開けて覗いてみるとそこには朱莉が客室の準備をしていた。


「朱莉さん、ここにいたんだ。」


「あ、九条さん。お風呂あがったんですね?どうですか。パジャマのサイズは?」


ベッドの準備が終わったのか、朱莉が振り向いた。


「あ、ああ。大丈夫、びったりだよ。」


「そうですか、それは良かったです。九条さんと翔さんは背恰好も似てますからね。」


「そうだね。確かに俺と翔は身長も体型も似ているかもな。それで・・寝る部屋まで準備してくれたんだね。朱莉さん・・・色々ありがとう。返って迷惑を掛けてしまったね。」


琢磨は頭に手を置くと言った。


「そんな事無いですよ。九条さんには今迄お世話になりっぱなしだったので・・これ位どうって事ありませんから。本当に色々ありがとうございました。」


「い、いや・・・俺はお礼を言われるような事は別に何も・・・。」


「九条さん。ビールどうぞもっと飲んで下さいね?冷蔵庫にまだ沢山入っていますから。」


「あ、ああ・・・ありがとう。でも・・何故こんなに沢山冷やしてあるんだい?」


すると朱莉が頬を染めながら言った。


「え・・・っと・・・それは・・翔さんもビールが好きだから・・です。」


「え?」


「沖縄で明日香さんに聞いた事があるんです。翔さんがビールを好きだって言う事・・。それでこれからは1週間に1度は・・レンちゃんの面倒を翔さんが見てくれることになって・・・・。その間に母のお見舞いに行くんですけど、お礼に今度からその日は食事をして行って貰えればと思って・・・ビールも用意してあるんです。」


頬を染めて何処か嬉しそうに翔の事を話す朱莉を見ていると、琢磨の中でどうしようも無い位の嫉妬心が芽生えて来るのを感じた。

そして気付けば、琢磨は朱莉の右腕を掴んで引き寄せていた―。




 その頃、航は1人興信所のビルの真上の部屋で外の景色を見ながら缶ビールを飲んでいた。勿論飲んでいたのはオリオンビール。

航はあの時以来ずっと自分でビールを買って飲むときはオリオンビールと決まっていた。

興信所のビルは5F建ての雑居ビルになっていて、1F〜3Fまでが小さなオフィス仕様の作りで、安西弘樹興信所以外にも不動産会社や小規模の企業等が入居していた。そして4F〜5F迄が1Kの賃貸アパートになっているのである。

勤務場所が真下にあるので、航にとってはこれ以上ない職場環境ではあったが、調査員という特殊な職種である為に浮気調査等の依頼が入っている時は、部屋を何日も不在にするのはざらだった。なので航の部屋には生活に必要な最低限の物しか置いていなく、私物の殆どは下の事務所に置かれている。その為に父親の弘樹からは事務所を私物化するなと再三にわたり注意を受けていたが、航は一向に構わず聞く耳を持たなかった。

 

 今夜は上弦の月である。

ビル群に囲まれた上野は空があまり大きく見えない。航は月を眺めながため息をついた。


「沖縄の空は綺麗だったな・・・。朱莉・・・今頃何してるんだろう・・・。」


航は夢を思い描いていた。いつか、朱莉が鳴海翔との離婚が成立すれば、自分の思いを朱莉に告げる。そして朱莉がもし受け入れてくれたなら、2人で沖縄に移住して、航は自分の興信所を立上げ・・・朱莉と家族に・・・。


 その時、突然航のスマホが着信を知らせる音楽が鳴った。


「・・・誰からだ?」


航はスマホを眺めて、顔が曇った。電話の相手は京極からだった。


「もしもし・・・。」


『こんばんは。安西君。元気にしてたかな?』


「ああ・・お陰様でな。あんたからもう朱莉と会ってもいい許可を貰えたからな。」


『それは・・感謝の言葉と受け取ってもいいのかな?』


「おい・・・俺が感謝してるとでも思っているのか?勝手に朱莉に接近禁止令を出したかと思えば・・今度は朱莉に連絡を入れてもいいだとか・・訳の分からない事ばかり・・。」


『訳が分からない?それは以前にも言っただろう?朱莉さんの周りにはマスコミが張り付いていたから、君には一旦朱莉さんから離れて貰うって。・・・朱莉さんをマスコミの餌食にしたくはないだろう?」


「ああ、そんなのは当然だ。朱莉は鳴海グループの被害者だからな。」


『そうだよ、朱莉さんの事が大切なら・・・君はあの場で身を引いて正解だったんだよ。鳴海グループがあそこまで巨大な企業になれたのは・・・まあ言うまでも無いだろう?綺麗ごとだけで企業は大きくなれないからね・・・。』


「京極・・・お前の目的は何なんだよ?」


『目的・・?そうだな・・・。朱莉さんが好きだから、彼女を救いたい・・・それだけじゃ駄目かな?』


京極の何処か航をからかうような口ぶりに航は苛立ちを覚えた。


「お前が朱莉を好き?そんな話・・・信じられると思うのか?」


『信じようと信じまいと君の勝手だけどね・・・。僕は本当に朱莉さんの事を大事に思っている。多分君や・・・九条琢磨よりもね。何せ彼女は・・・・。』


「え?どうしたんだ?京極っ!」


『急用が出来た・・・悪いが電話を切らせてもらうよ。君は引き続き朱莉さんの周囲に気を配っててくれ。まだ僕はここを離れる訳にはいかないんでね。』


そこまで言うと電話は切れた。


「全く・・・何処までもミステリアスな男だ・・・。」


航はスマホをベッドの上に放り投げると、ビールの続きを飲み始めた―。






 

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