5-6 涙で濡れる彼の抱擁

 明日香は病室で今も眠っている。そんな明日香を翔は心配そうに見守っていた。

そして先程、朱莉に投げつけた言葉を思い返していた。


(少し言い過ぎてしまったか・・・?だが朱莉さんは明日香に色々嫌な目に遭わされて来ていた。だから・・・明日香の体調の悪さをわざと見過ごして・・・。)


 その時、明日香が突然寝言を言い始めた。


「いや・・・お母さん・・置いて行かないで・・。いい子になるから・・私を・・・捨てないで・・・。」


そして明日香の目から涙が頬を伝って流れて行く。


「明日香・・・あの時の・・・夢をみているのか・・・?」


翔は明日香の手をギュッと握りしめると、不意に明日香が目を開けた。


「翔・・・・?ここは・・・?」


「明日香、良かった!目が覚めたんだなっ?!」


翔は半分泣いたような笑みを浮かべると明日香の顔を覗き込んだ。


「あ・・・そうだった・・・。私は・・・夜突然お腹が痛くなって・・・。それで・・お腹の子供は・・・?」


明日香はまだ夢の中なのか、ぼんやりした声で天井を見つめながら言った。


「ああ・・・。今回は・・・駄目だったよ・・。」


「そう・・・。やっぱり・・・。」


明日香の言葉が翔は引っ掛かった。


「やっぱり・・?どういう事だ?」


「医者に言われたのよ・・・。エコーで胎のうって言うのが確認できなかったから・・もしかしたら子宮外妊娠かもしれないって・・。」


「何だって?その話し・・今初めて聞いたぞ?」


先程の医者の説明でも流産としか翔は聞かされていなかったのだ。


「今の話・・朱莉さんも知らなかったのか?」


「ええ。だって・・・言いたくなかったのよ・・・。」


明日香は言うと、目を閉じた。

確かにプライドの高い明日香の事だ。子供が出来た事を話しても、産むことが出来ないかも知れない等言えるはずも無いだろう。


「明日香・・・辛かっただろう・・?すまなかった。具合が悪かったのに・・・側にいてやれなくて・・・!」


翔は明日香の手を強く握りしめながら言う。すると明日香がふいに尋ねて来た。


「朱莉さんは・・・何処?」


突然明日香が朱莉の名前を口にした。


「朱莉さんなら・・・もう帰ったぞ?一体どうしたんだ・・?お前が朱莉さんの名前を口にするなんて・・・・?」


「そう・・・帰ったの。折角お礼を言おうと思っていたのに。」


明日香の呟きに翔は耳を疑った。


「明日香・・・今、何て言ったんだ・・?朱莉さんに・・お礼だって・・?」


「ええ・・・。だって彼女は具合が悪くなって・・すぐに救急車を呼んでくれたのよ・・。それに救急車が来る間に私の母子手帳を探し出してくれたし・・・運ばれている最中、ずっと手を握りしめていてくれたのよ。・・・お母さんにだってそんな事して貰った事・・無かったのに・・。」


明日香は言いながら目を閉じた。


「・・・っ・・・!」


翔は明日香の手を握りしめたまま、下を向いて嗚咽した。


(俺は・・状況を何も把握しないまま・・朱莉さんに言い訳する暇も与えず、冷たい言葉を投げかけてしまったんだ。つい・・・子供の頃の自分の過ちを思い出してしまい・・朱莉さんに酷い言葉を・・!いや・・全部こんなのは俺の言い訳だ・・。一緒に暮らしていたのに明日香が妊娠していた事も気付かなかったし・・・それに明日香は・・薬だって服用しているんだから、今の状態では子供なんか無理に決まっていたんだ。なのに・・・つい頭に血が上って・・。)


そんな翔を明日香は不思議そうに見つめるのだった—。




 真っ暗な部屋の中―

朱莉は電気もつけずに部屋の隅に座り込んでいた。翔に冷たい言葉を投げつけられた後・・・朱莉は何処をどうやって自宅に帰って来たのか思い出せなかった。

気付けば部屋の隅に座り込んでおり・・・部屋の中は闇に包まれていた。


 ぼんやりとした頭の中で朱莉は思った。

今・・・何時なんだろう・・?毎日欠かさず通っていた母の面会も今日は行く事が出来なかった。・・きっと母は心配しているだろう・・・。


 朱莉の手には翔との連絡用スマホが握り締められていた。何処かで朱莉は期待していたのだ。

ひょとしたら・・・翔から連絡が入って来るのでは無いだろうかと・・・。

誤解してすまなかったと詫びの連絡が来るのでは無いかと心の何処かで密かに期待していたのだ。

けれど・・・何時間たっても朱莉のスマホには翔からの連絡は入って来なかった。

代わりに朱莉の個人的に所有するスマホには何件も着信が入っていたが・・・朱莉はそのスマホを確認する気力も持てないでいた。


 朱莉の部屋の壁掛け時計が夜の9時を示す音が鳴り響く。


「あ・・・もう、こんな時間だったんだ。」


しかし、今の朱莉はなにもする気力が湧かなかった。そして・・・今もこうしてかかってくるはずも無い翔からの電話を待ち望む自分がいる。


 朱莉の目に涙が浮かんできた。

馬鹿だ・・・私。あれ程・・・翔先輩に冷たい言葉を投げつけられたのに・・・顔を見たくないって言われたのに・・・今もこうして翔先輩からの連絡を待っているなんて・・。


 今迄我慢していた涙がとうとう堰を切って溢れ出してきた。朱莉は自分の膝に頭を埋め、声を殺して泣き続けた。

本当はこんな事をしている場合では無いのに。3年間で高校を卒業する為に勉強だってしないといけないし、レポートも書かなければならない。それに明日香には英会話の勉強もするように以前言われたことがあったので、並行して朱莉は英会話の勉強も行っていた。やらなければならない事は沢山あるのに・・・今は何も手に着かなかった。

マロン・・・こんな時、マロンが側にいてくれたら。

あの温かい身体を抱きしめて・・・自分の悲しい気持ちを、寂しい気持ちを慰めて貰う事が出来たのに・・・。

誰か、誰でもいいから・・・私を助けて・・・。お母さん・・・。いつになったら一緒に暮らせるの・・?


 その時―


 玄関のインターホンが何度も鳴り響く音が聞こえてきた。こんな時間に誰だろう・・・?でも朱莉は立ち上がる気力すら無かった。それでも何度も繰り返し響くインターホンの音。しかし、朱莉は応対する気力は皆無だったので、そのまま放置していると、やがて音は鳴りやんだ。

しかし・・それから暫くすると今度は玄関のチャイムが鳴り響く。やがて、ついにはドアをドンドンと激しく叩く音。

 流石にここまで騒がしくなれば応対せざるを得ない。億ションのフロントスタッフだろうか・・・?

普段の朱莉ならドアアイで確認してからドアを開けていたが、今夜の朱莉は思考能力も落ちていたので、そのままドアを開けた。


すると目の前には九条琢磨が立っていた。いつも冷静沈着な彼だが、今夜だけは違っていた。

荒い息を吐きながら、髪は乱れ、走って来たのだろうか?ネクタイも緩んでいた。


「え・・・?九条・・・さん・・?ど・・どうして此処へ・・?」


翔の秘書なのだから、当然琢磨は翔の元を訪ねていると思っていた。

それがまさか自分の元を訪ねて来るなんて・・・。夢にも思わず、朱莉は目を見開いた。


「あ・・・朱莉さん・・・。」


琢磨は息を切らしながら朱莉の名を呼んだ。


 次の瞬間・・・琢磨は持っていた鞄を床に落とすと、今にも泣きだしそうに顔を歪め、朱莉の身体を自分の方に引き寄せた。

そして力強く朱莉を胸に抱きしめると朱莉の耳元で何かを囁いた。

それを聞いた朱莉はみるみる内に涙が溜まり・・・琢磨にしがみ付くと、胸に顔を埋めて涙が枯れるまで激しく泣きじゃくるのだった―。







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