樹角送り
漉環利郊
樹角送り
私は幼少の頃から幽霊を見ることができた。唯一の長所と言ってもいいだろう。
幽霊と言っても世間一般で言われているような、髪の長い女だとか、黒い人影のような人間の恐怖心を逆撫でするようなものではない。
羽の生えた小人、人語を喋る動物等、ニュアンス的には妖怪に近い類のものだ。
中でも私は『面子』と勝手に名付けた幽霊と一番仲が良かった。彼女はいつも真っ白い浴衣を着て、顔には変な文字が書かれた楕円形のお面をかけていた。肩まで伸びた黒い髪がとても綺麗だったことを覚えている。
面子は近所の廃屋に住んでいた。草と木に囲まれた小さな森のような廃屋だった。私が室内に入ると、音もなく現れいつの間にか隣に座っているのだ。
私は面子から得た幽霊界隈の情報をクラスで披露し、悦に浸ることを日課にしていた。
幽霊博士の称号を獲得してから私の人気は鰻上りだった。その称号を印籠のように振りかざしては、霊障とは一切関係ないクラスの揉め事にまで尽力し解決に導いた。
トイレから変な音がすると聞けば「霊の仕業に間違いない」と言い、給食のカレーが足りないと問題が起これば「霊の仕業に決まっている」と言う。
インチキ紛いかもしれないが、私は自身の正義感に誇りを持っていた。
学校で起こった出来事を面子に報告しに行くのが週末のルーチンワークになっていた。
彼女は私のくだらない話にも耳を傾け、お面越しにクスクスと可愛らしく笑っていた。
そんなルーチンワークが崩れ始めたのは中学生の時だ。残念な事に幽霊博士という称号は有効期限付きだった。気付けば周りのクラスメイトは幽霊だのオカルトに一切興味を示さなくなり、私の唯一の長所はいつの間にか短所に変わっていた。
毎週通っていた廃屋も、隔週、月一回と次第に間隔が合空く様になり、中学二年生になる頃には行かなくなっていた。
中学の卒業式の日。ふと気になって廃屋の傍を通ると、木々や建物は綺麗に取り除かれ開けた土地になっていた。どうやらマンションが新しく建設されるらしい。
「……謝っておけばよかったかな」
言葉にしがたい感情が心の内壁に芽生えた。あの時の感覚を私は死ぬまで忘れないだろう。
◆
夏の夜。生暖かい風に頬を撫でられ目を覚ます。私は道端のベンチに腰かけていた。
目の前には小さな森のように木々が生い茂っており、木々の向こうから川の流れる音が聞こえる。澄んだ夏の匂いと樹の匂いで、私の意識は少しずつ醒めていった。
「……どこだここは」
懐かしいような感じはあるものの、はっきりと思い出せない。背後には住宅街に続く道が伸びていた。
スマホで現在位置を確認しようとポケットを漁るが何も入ってない。辺りを見渡すも常用のバッグすら見つからない。二人掛けのベンチの横には新聞が一部置かれているだけだった。
酒に酔っているのか朦朧として頭が重い。とりあえず新聞でも読んで落ち着こうと新聞に手を伸ばすと、背後に気配を感じ私は振り返った。
私のすぐ後ろには、お面をかけた浴衣姿の女の子が立っていた。
真っ白い浴衣に変な文字が書かれた楕円形のお面。街頭の光を反射するきめ細かな黒い髪―――面子と別れて十四年経つが、彼女の外見は一切変わっていなかった。
唐突過ぎる再開に言葉が出ない。私が戸惑っていると、面子は何も言わず住宅街の方を指さした。
促された方に目を向けると、見覚えのあるマンションが建っていた。
「……ああ、そうだ。私は実家に帰省していたんだ。散歩に出かけて……玉川上水のせせらぎを聞きながら酒を飲んで……それで酔いつぶれて寝ていたの……か?」
記憶は曖昧だがきっとそんなところだろう。数年ぶりに帰省して気分が良くなっていたのかもしれない。近所ならスマホやバッグを持っていないのにも頷ける。
面子は何も言わず手招きをして、御殿山通りを東に進みだした。
「おい、どこ行くんだ」
私の問いかけに答えることは無く、面子は振り向いて小さく手招きをした。
せめてどこに行くか説明して欲しいと思うが、昔の事を根に持っているのかもしれないという気持ちでいたたまれなくなり、私は渋々後に続いた。
むらさき橋を過ぎしばらく歩くと、井の頭自然公園から伸びた樹と街路樹が重なり、木のトンネルのようになっていた。街頭に照らされた木々が風に揺られ音を立てる。綺麗だと思う反面、人とも車ともすれ違わない閑散とした道路に違和感と不気味さを覚えた。
萬助橋に差し掛かかり、面子は吉祥寺通りを左に折れた。静まり返った道路で、信号機だけが静かに点滅を繰り返している。
道の先に立っている面子の姿が見え、私は駆け寄った。
面子が立ち止まったのは、井の頭自然文化公園の前だった。営業時間をとっくに過ぎた正門が寂しく街頭に照らされている。塀の向こう側の木々が風でざわめき、まるで森と対峙しているかのような圧迫感を感じた。
「ここに何かあるのか?」
面子は何も言わず塀の上を指さした。何を伝えたいのか分からないまま、私は塀の上に目を向ける。
指の先にあるのは、街頭の光を帯びた木が闇の中で揺れているだけ。ざわめき立つ木々は、まるで生きているかのように音を立て自身の存在を主張していた。
面子が何をしたいのかさっぱり分からない。何故喋ってくれないのかさえ分からない。
昔の私だったら、もっと気軽に話しかけることができただろう。
肉体的には年をとっても、心は昔のままだと思っていたが、私は知らない間に随分と変わってしまったようだ。
面子は指をさしたまま動かないが、特段変わったことは起こらない。
そろそろ帰ろうか、と声をかけようとした時、塀の向こうから鈍い音が聞こえた。
「なんの音だ」
まるで巨大な鎚で地面を叩いているかのような音。一定の間隔で音は繰り返し、次第に大きくなっていく。何の音なのか考えるよりも先に、目の前の木々をかき分け音の主は私の前に現れた。
「……鹿……か?」
音の主は奇怪な姿をしていた。
高さは二十メートル程度だろうか。鹿の角のように頭から樹を生やし、顔には面子と同じように楕円形のお面をかけている。茶色の毛皮には白い斑点模様が散りばめられており、首から背中にかけて馬の鬣のように立った毛が並んでいた。
一見鹿のように見えるが、胴体や首の縮尺に違和感がある。この獣が何なのかは分からないが、一般的な動物に帰属する生物でない事は一目瞭然だ。
獣がゆっくり首を下げると、頭から伸びた樹の枝が下まで降りてきた。面子は枝に掴まると、私の方に手招きをした。
「それに乗るのか」
怖いと思う反面、乗ってみたいという気持ちが次第に強くなっていく。心臓の鼓動が早くなり、口元が自然と緩む。まるで子供の時のような感覚に駆られ、私は駆け足で獣の元へ向かった。
枝を掴むと、エレベーターのように枝がゆっくり上がっていく。頭の上に私たちを下ろすと、細い枝がベルトのように私の腰に巻き付いた。
獣は唸り声をあげると、鈍い音を立てながら歩きだした。歩くたびに夜風が体を通り抜け、尻から大地を踏む振動が伝わってくる。
眼前には寝静まった街が広がっていた。ミニチュアのような小さい建物に点々と光が灯っている。綺麗だと思う一方、街にとっては何の変哲もない夜なのだろうと思うと、自分の視野の狭さに悲しくなった。
「私と違って、この街は変わらないな」
歳をとって、大人になり、社会を経験した。
これを成長と呼んでいいのかは少し怪しい。知らず知らずのうちに、かけがえのない物を幾度となく取りこぼしてきた。面子もその一つだ。
遠くを見ながら意気消沈する私を見かねたのか、「変わってないよ」と隣から懐かしい少女の声が聞こえた。数十年ぶりに聞いた面子の声は、昔と少しも変わっていなかった。
「変わったさ。昔は誰かを助けたり、気に食わない不正に蹴りを入れたり、自分に正直に生きていた」
「今は?」
「今は人の目を気にしてばかりだ。自分の事だけで精一杯なのさ。さっきも面子になんて話しかければ分からなかった。いつの間にか冷めたオジサンになってしまったよ」
面子は悲しそうに俯くと、そっと私の方に手を差し出した。
手を握れという事だろうか。面子の手に触れようとすると、私の手は霞でも掴むように面子の手をスッとすり抜けた。
その瞬間、目が覚めた時から曖昧だった記憶が一気に呼び起され、私は驚きのあまり手を下ろした。
―――思い出した……私は……この前。
茫然としたまま黙り込んでいる私に、面子は「ごめんなさい」と申し訳なさそうに呟いた。
面の奥からすすり泣く声が聞こえ、私は我に返る。
気持ちの整理はできていないし、悲しくないと言えば嘘になるが、不思議と後悔は無かった。
何より、さっきまでの面子の行動の意図を理解できたことに妙な安心感を覚え胸をなでおろした。
「『ごめんなさい』はこっちのセリフだ。何も言わずに去ったことを私はずっと後悔していたんだ」
今度は私から手を伸ばす。面子もそっと手を差し出した。
「最後に会えて良かったよ。ありがとう」
もう二度と触れることはなし、二度と会うことも無いだろう。
私から見た私は随分と変わってしまったように見えるが、彼女は「変わってない」と言ってくれた。その一言で随分と救われる。
指先が触れる瞬間、数十年前から心に突き刺さった楔が消えていくのを感じた。
◆
目が覚めると、私は道端のベンチに腰かけていた。
空は次第に明るくなり、澄んだ早朝の空気が体に染み渡る。
隣に置かれた新聞には、武蔵野市で子供を庇った男が、車に轢かれて死亡した記事が載っていた。
私は何も言わず、川沿いの樹に頭を下げた。
ありがとうと言えばいいのか、さようならと言えばいいのか、いってきますと言えばいいのか、感謝の言葉を全て並べたらきりがない。
返事をするかのように、突き抜ける風が木々を揺らす。
優しい樹の香りに包まれ、朝日と共に私の体は視界から消えていった。
樹角送り 漉環利郊 @rokuwa-rikou
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