第13話 メタモルフォシス
六つ目は未だ木を登っている。だが、彼はほとんど動いてないように他の者には見えるだろう。それほどに鈍い動きだ。前足を一歩進める度に休憩を要する。
遅い動きとはうらはらに、彼の気持ちは急いていた、一刻も早くステファニーに、
もし、今ここで
もう限界だ、と諦めかけそうになった時。彼の登る木の幹の上方、彼の行く先に小さな洞が開いているのが見えた。が、洞の手前で木は、かなりオーバーハングしている。運命の神は、六つ目に試練を与えるつもりだ。幹の反対側に回りさえすれば、オーバーハングを回避出来るだろうが、今の彼にはその少しの遠回りで体力を削る余裕はなかった。
(あの洞が蟻の巣だったり、中に危険な先客があれば、俺はもう最後だ)
そう分かっていても、今の六つ目には他の選択は出来ない。
六つ目は力を振り絞って登り。その洞が空き家であることに賭けるしかない。
一歩、また一歩と足を進める。そして、やっと六つ目の前脚が洞の入り口に掛かった。
よし!と安心した瞬間、前足二本を残して残りの六本が空中を掻く。六つ目は懸垂するように洞の縁からぶら下がってしまった。前脚二本の力だけで必死に身体を引き上げる。
「ウグッオブッアー」
ボディビルダーのような雄叫びを上げる彼の肩の傷から体液が流れ出した。身体が持ち上げられ、中脚の内一本が木の表面を再び捉える。その力を借りて、ようやく彼は洞の中に転がり込んだ。
「ハァハァハァーッ」
呼吸は乱れたままだ、そのまま暗闇に目が慣れるのを待つ、どうやらこの洞は空き家のようだ。
(ここで少し休みさえすれば)
六つ目は全身を投げ出し、八本の脚を放り出した。もう一歩たりとも動くことができない。早く黄色い薔薇へ戻りステファニーに会って話がしたい。今の六つ目の望みは、ただそれだけだった。
やがて、そんな彼の強靭な精神をものともせず耐え難い睡魔が襲ってきた。今迄に経験したことのないほどのだ。少しだけ休むつもりの六つ目の気持ちとは裏腹に、この睡魔は、彼を捕らえて自分の牢獄へと幽閉しようとする。
六つ目の耳に優しく語りかけるステファニーの声が聞こえてくる。
『ある日とても眠たくなって、とにかく今迄にないくらい、ひどく眠たくなった、そして私、隠れなきゃと思ったの、そして目が覚めたら私、蝶になっていたのよ』
六つ目は自分の身体が固くなってくるのを感じた。
(ああ、俺はまた脱皮するのかな、蟷螂との闘いは俺の生き残る本能を刺激して、身体を大きくさせようとしているのだろう。とにかく、このまま眠ってしまおう。脱皮してしまうまでは動くことが出来ない)
そう思った途端、六つ目の背中にある二筋の傷から蝶の羽が飛び出した。純白に輝く大きな羽、パリパリと音を立てて蜘蛛の体が二つに割れ、粉々になって崩れ落ちる。そこにいるのは一匹の若々しい雄の蝶だ。
六つ目は自分の前脚を見る。それは、いつも見慣れた無骨な蜘蛛のそれではない。動かしてみると少しぎこちないが、彼の思い通りになるようだ。
(これが、俺の脚?)
六つ目は体を洞の出口に向け、恐る恐る顔を外に出してみた。
風が彼の触角を優しく弄っていく。
「気持ちいい」
彼は体を洞から出した。そして一本ずつ自分の脚を動かしてみる。
脚の数が減っている。八本あったはずの蜘蛛の脚は、今六本の蝶のか弱い脚に代わっているのだ。だが、失くしたはずの二本の脚は、今でもそこに存在しているかのように六つ目には感じられる。
試しに彼は失くしたはずの脚を動かしてみた。すると、彼の大きな白い羽は羽ばたき、彼を空中へと放り出した。ひらひらと木の葉が舞うように地面へと墜落していく。六つ目は必死で失くしたはずの脚を動かす命令を出し続けた。
すると彼の羽は空中を捉えて彼を上方へと運んでいくのだった。
自分自身の思いのままに空を飛ぶ事は、六目にとって当然のことながら初めての経験だ。彼は、この新しい移動手段を使いこなす試みに夢中になった。どのように自分の体を使えば、どの様な飛び方になるのか様々な実験を行う。
上下左右への方向転換、旋回の角度、左右の羽の力の配分でのターン、体を傾けるだけで行うターンを発見したり、羽の角度を変える事で急速に下降出来る事も分かった。速度を上げ最高速を知ろうと試みたかと思えば、風に逆らってみたり、逆に風に乗り、羽ばたきを止めてグライダー飛行をし、急激にスピードを落とし停止、そのまま同じ位置を保つ事にも挑戦してみるのだった。
辺りを飛び回った六つ目の二つの目に、あの黄色い薔薇が見えてきた。そこへの着地を開始する。まず一番大きな花の周りを旋回する。そこは、つい先ほど蟷螂との死闘が演じられていた場所だ。今の彼にはもう遠い過去のことのように感じられてしまう。当然の事だがもうそこに蟷螂の姿は無い。もはや、六つ目にはどうでもいいことである。
練習の成果もあって、六つ目は、初めての着地を一発で成功させた。かれが狙ったポイントより若干のズレはあったが、今、彼が見せた飛行技術からは、元蜘蛛とは思えないほどの才能を伺い知ることが出来る。
「いい香りだ」
初めて花の香りをそのように感じた。バリバリの肉食男子を自認していた彼は、今や完璧な菜食主義者だ。阿鼻叫喚の修羅の世界から抜け出し、生まれ変わったのだ。
六つ目は初めて味わうこの穏やかな気分に身を任せて目を閉じた。
「俺は、本当に蝶になれたんだ。≪夢はきっと叶う、信じていれば≫ あれは本当の事だったんだ」
「そうよ、あなたは生まれ変わったのよ。奇跡は誰にでも起こる、そう願えば」
六つ目は、目を開いた。そこにはステファニーが、あの美しい青い羽を広げて、彼女の前脚を差し伸べている。
今、六つ目にはハッキリと分かった、幸せと云うものが目の前にあるのだと。
「俺はやったよ!ステファニー。あの蟷螂をこの黄色い薔薇から追放してやったんだ。もう奴は戻って来られない」
「殺してしまったの?」
「いや、まさか殺したりしないよ、俺は蝶だから」
「そうよね、あなたは元々、私たちの仲間だったのよ」
ステファニーは、自ら六つ目の右の前脚を取る。
「さあ、行きましょう」
「どこへ?」
「私と一緒に旅に出るの、美味しい蜜を探す旅よ」
(もうこの手を放しはしない、何処までも俺達は一緒だ)
旅立つ二匹の蝶の背中を、彼らを引き合わせた黄色い薔薇がいつまでも見送ってい
た。
つづく
次回予告 六つ目への復讐。そして再戦への対策を万全にした蟷螂であったが、何故か彼は記憶を失ってしまう。
次回 六つ目と蝶 第14話 また逢う日まで! また逢う日まで にご期待ください。
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