第3話 訪問者

(何だか、おかしな夢を見た気がする。脱皮したような……)

 奇妙な夢から目を覚ました六つ目は、自分の見た夢を思い出せないまま、様子を見ようと蝶へと近づいた。


(なくなっている)

 蝶の胸の上に置いた蜜はきれいになくなっていた。

「どうだった?その蜜の味は」

 六つ目は尋ねたが、相変わらず彼女からの返事はなかった。だが、六つ目は、自分が必死に集めてきた蜜を蝶が残さず飲んでいた事に満足した。自分以外の者の為に食料を集める事など、以前なら考えもつかないことだ。 


「よーし、次は別の花の蜜を持ってきてやる」

 彼女に背を向け巣の上を移動し、六つ目が木の枝に掛けた彼の糸に脚を置いた時、小さな声を聞いた。

「ありがとう」。

 確かに、そう聞こえた。


 六つ目は振り返った、そして蝶と目が合った。彼の中に不思議な何かが広がっていく、それが何かは解らない。だが、とても心地よく、体がふわふわと浮きそうになった。自分の糸から落ちないように歩くのが精一杯だ。そんな動揺を蝶にみられないように、振り返らず木の上を歩き、彼女から見えない所までやってくると自分を落ち着かせる為に呼吸を整えた。


「何かもっと美味しい蜜を探さないと。よし、少し遠くまで行ってみよう」

 六つ目の足取りは軽かった。


 蝶は、六つ目の巣の上で落ちかけた夕陽を眺めた。六つ目が糸を緩めたおかげで少しは身体の自由がきく。彼女の仲間たちの話によると、蜘蛛クモの巣に捕らえられることは、死を意味していた。


 何故、蜘蛛は、自分を殺さず蜜をあたえるのか?そのことについて、この蝶がどの様に自分の状況について考えていたのかは本当のところ知る由もない。だが、いずれにせよ、この網に捕らわれた時、完全に諦めた自分の命ではあったのだが、もう一度、仲間のもとへ帰れるかもしれないという希望の火が彼女の胸に灯りだしたことは確かであった。


 日が暮れかけて、空は滲んだだいだい色から紫へと変わり、今またその色を群青色に染めていった。蝶の体に蜘蛛の巣を揺らす振動が伝わってくる。反射的に六つ目が去った木の方を振り返った。しかし、そこに六つ目の姿はなかった。


 小刻みに揺れる彼女の身体、囚われの蝶の憔悴しょうすいによる気のせいではない。何者かが彼女の右頭部後方から近づいてくるのは確かだ。

「六つ目さん?」


 返事はない。

 蝶は不安になり、もう一度、蜘蛛の名を呼んでみた。

「六つ目さんでしょう?」

「なんだ、まだ生きているのか」

 彼女のすぐ近くから甲高かんだかい声が聞えた。

「六つ目?…」

 独り言のような声が聞こえた後、何者かが蝶の視界を塞いだ。そしてその何者かは彼女の顔を覗き込んでいる。それは、六つ目よりひと回り身体の大きい別の蜘蛛だった。目は六つ目と違い切れ長だ。いかにも大食漢というような大きなあごを持ち、キノコのような形をした密集したオレンジ色の毛が頭の上に乗っている。顔の色が妙に白い。


「六つ目というのは、ここの奴のことか?」

「えっ、ええ」

 六つ目が帰ってきたとばかり思っていた蝶は、予期せぬ訪問者に声が震えた。

「奴は何処にいるんだ?」

 蜘蛛は落ち着かない様子で、辺りを見回した。

「彼なら出掛けました……」

 蝶は蜘蛛に答えながら、突然の訪問者を観察した。

(顔に何かを塗っているのかしら?綺麗だけど不自然。何だか分からないけど、見ていて気持ち悪い)


 六つ目の留守を聞いて、蜘蛛は少し落ち着いたのか、ゆっくりとした調子で喋った。

「お前、何も知らないんだな……そうか、なるほどね。それにしても、この縛り方は何だ、奴も焼きが回ったな。そもそも糸の使い方にしろ、巣の張り方にしろ、我が偉大な一族の発明なんだ。他の蜘蛛は、それを真似しているだけだ」

 蜘蛛は一人で頷き、六つ目が蝶の為に緩めた糸を見ながら言う。

「どうもお前は世間を知らなすぎのようだから、教えてやってもいいぜ」


 蝶が黙っていると構わず蜘蛛は続けた。

「いいかいお嬢ちゃん、ここは奴の巣なんかじゃないんだぜ」

 蝶は、話がよく理解できない。

「えっ、ここは、六つ目さんが作った巣ではないの?巣は自分で作って自分で使うものですよね」

 蝶は、何処どこかで聞いたことがある知識を披露した。蜘蛛は、大きくため息をつき、肩をすくめた。

「それが、チョット違うんだな」

「どういうことなのかしら?」

「解るだろ?色々あるんだよ」


 教えてやるといいながら、質問に答えない蜘蛛に蝶は少しばかりイライラして来た。六つ目が自分を食べなかった事で彼女の蜘蛛に対する警戒心は、いつの間にか薄くなっているのかもしれない。もちろんそれは完全に、というわけにはいかないが。


 女という生き物は、自分の好みのタイプではない異性や自分に好意を持っていると分かっている相手には、往々にして図々しくなるものだ。そしてやはり、この蝶も例外ではない。


 蝶は絶対的弱者の立場も忘れているのか?。多分、この蜘蛛の他者を見下したような態度が彼女のプライドを刺激したのだろう。


「あなた、六つ目さんのお友達なの?」

「友達?」

 突然、蜘蛛は大きな声を出した。

「友達だと!何を言っているんだ、奴は平民!俺は貴族だぞ」

「貴族?!ああ、あなたセレブなの?ねえセレブ?」

 蝶は急に声を弾ませた。

「そうさ、それだ!お前たち蝶はそう言うんだったな、セフレだ、セフレ」

「??セフレ?セフレじゃなくて、セレブ、セレブリティよ」

「知ってるよ、それだ!わざと言ってるんだ、解るだろ?」

 蜘蛛は慌てて言い返した。


「俺はなあ、本来だったら貴族。それも上級貴族なんだ。だが、ここの蜘蛛に突然拉致されて、俺は無理矢理連れて来られたんだ、俺の親も殺されてな!解るだろ?俺は被害者なんだ!かわいそうなんだ、同情していいぞ。なあ、解るだろ?」


 蜘蛛は、唐突に泣き叫び始めた。

「うがーおーヒック、ヒック」


 話の内容はよく分からないが、こういう時は心配そうな顔をして、一緒に泣いてあげなければと彼女は思った。それが蝶の世界の習わしなのだ。そういう蝶は、優しくて、いい性格だと皆に思われている。それが心の底からの感情であるかどうかは別にして、そうしておくと、自分が綺麗な心を持っているのだと自分自身を安心させておくことが出来た。彼女の生きる蝶の社会は、嫌われないことが最も重要な事の一つだ。彼女は、それを忠実に守った。


「まあ、大変だったのね、かわいそう」

「そうなんだ、そうだろう?可哀想なのはいつも俺だ。解るだろ?」

 蜘蛛は泣いてスッキリしたのか、顔を上げ、そして静かに言った。

「だから」

「だから?だから何、どうしたの?」

 蝶は、なるべく優しい声を出そうとしながら尋ねた。


「だ・か・ら・お前を喰う!」

「えっ!」

 蝶は突然の展開についていけない。頭の中は真っ白だ。

「なんで?なんで?」

「俺に食われながら理解しろ!貴族は自分で働かない、平民は俺の為に働くのが当然なんだ。だから、この巣に掛かったものは俺のものなんだ!それに俺は被害者で奴は加害者。永遠に俺に謝罪しなければならないし、賠償し続けなければならない。ずっと、ずっと、ずーうーっと、俺の子供たちや、その子供たちにも奴の子供たちが謝らなければならないんだ。解るだろ?」

 どうやらこの蜘蛛の口癖は解るだろ?だ。蝶に解ったのは、それだけだ。


「じゃあいただくとしようか、先ずはお前の脚からな」

 蝶は顔を背けた。

(今度こそお終いだ)

 そう諦めたかけた時、ドォーーンという大きな音と共に体が揺れた。

                

                 つづく 


次回予告 謎の蜘蛛と六つ目の過去とは? そしてついに蝶は六つ目の呼びかけに応えた。蝶に心を奪われていく六つ目に蝶が要求した物とは?

 次回 六つ目と蝶 第4話 永遠の被害者! 永遠の被害者にご期待ください。

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