むさしのスロージューサー物語
冬野こたつ
むさしのスロージューサー物語
「もう3日目だぞ。動きがないな」と桜山が言溜息をついた。
「そうですね。もう戻ってこないかもしれませんね」
「ところで、田村お前張り込み初めてだろ?3日目なのに元気だな」
「桜山さん、こう見えて俺、健康には気をつけてるんですよ」
「へぇー」
田村は一日一回時間が空いた時にはランニングをし、食事も自分で作れないときはスロージュースを飲んでいるという。
「ところで田村、スロージュースってなんだ?」
「野菜や果物の栄養素や酵素を壊しにくいジュースらしいです。俺、署の近くの三鷹に引っ越してきてから野川公園をランニングすることが多いんですけど、家から公園までもいろいろな道を通って走ってるんです。その道中に東京なのに意外と農家があって、野菜の直売所とかもあるんですけど、その中にスロージュースをやっているところがあって知ったんです。ちょうどこの近くですよ」
田村は対象者の家の玄関から目を離さずに答えた。
1週間前に雑居ビルの廊下で刺殺体で発見された30代女性の交友関係を調べていて、連絡がとれない者が二人。その内の一人が小林だった。刺殺されたと思われる次の日から会社を休んでいる。休暇届けはでているが行き先が不明だ。小林の家が見えるところにちょうどアパートの空き部屋があったので、そこで田村と組んで張り込みを始めたのが3日前だ。
それにしてもと桜山は呟いた。
「俺と5歳も離れていないのに、俺はすっかりおじさんになっちまったな。最近すぐ疲れが顔に出てしまう。張り込み中はコンビニのおにぎりやサンドイッチ、普段もコンビニの弁当だしな。知らず知らずのうちに衰えてるのかもな」
「なあ田村、そのスロージュースっていうのはおいしいのか?」
「まあ組み合わせによるんですけど、俺はにんじんとりんごとレモンのシンプルなのが好きですね」
「ふーん。たまには俺も体によさそうなもの取った方がいいかもな」
「そうですよ。桜山さん、ちょうどお昼だし昼飯食った後にでも寄って飲んでみてくださいよ。ちょうどあの道を右に100mぐらい行ったところにありますよ」
「そうか。じゃあ悪いけど先に昼にさせてもらうわ。動きがあったら連絡くれ」
「わかりました」
俺は部屋を出て歩いて行った。張り込み中なのでのんびり昼を食っているわけにはいかない。仕方がないので今日もお昼はコンビニのおにぎりをイートインで食べてすませることにした。味気ないお昼をすませ、田村に教わったスロージュースを探してみることにした。
「おっここか。スロージュースあります。と書いてある」
「いらっしゃいませ」
「えっと。にんじんベースの一つください」
「はい。500円になります」
えっ?ジュース一杯に500円もすんの?と内心びっくりしたが、何食わぬ顔で500円を出した。
ギギギという音を鳴らしながらスロージューサーが回っている。スローというほどスローでもなくほどなくしてオレンジ色のジュースが出来上がってきた。
「できたらすぐ飲まれた方がいいですよ」
俺は少し離れたところで飲み始めた。りんごやレモンが入っているからかそれほどにんじんの味は感じない。美味しい。とても美味しい。疲れている胃腸に染みわたっていくようだ。
「いらっしゃいませ~」
後ろでまた声がした。またお客が来たらしい。ちらっとそちらを見ると小ぶりのスーツケースを引いた男が立っていた。
「こいつ、小林じゃないか」
小林は呑気に店の人としゃべっている。
「小林さん、ひさしぶりじゃない」
「えぇ、たまたま休みがとれたもんだからあちこち旅してたんですよ」
「いいわねぇ」
旅?ここの常連なのか。こんな呑気な奴犯人じゃないよな。逃亡しているという気配がない。話しかけるか。が、万が一犯人だったとしたら、声かけたせいで逃げられたら困るな。田村を呼ぶか
俺は田村にスロージュースのところまで来いとメールした。
その間に小林は買ったスロージュースを飲みながらのんびり歩いていく。
「このまま家に帰るのか?」
張り込みしている家から田村が早歩きでやってきた。のんびり歩いている小林とすれ違う。
「桜山さん。あいつ事件と関係なさそうですね」
「そうだな。このまま家に帰りそうだから、それまで待とう」
「はい」
小林は足取り軽く二階まで登って行った。
「よし田村、行くぞ。あっ待て。係長から電話だ」
「はい桜山です。えっ?犯人が捕まった?千田が犯人だったんですか?はい。はい。わかりました」
「捕まったんですか?犯人」
「あー行方が分からなかったもう一人の男千田だったそうだ。今日はもう帰っていいってよ」
「昼から休めるなんて最高ですねー。こんなこともあろうかと俺いつもランニングウェア持ち歩いてるんですよ。桜山さんも一緒にどうですか?これから野川公園走りにいきませんか?
「いや俺はこの格好だから・・・。でも折角だから散歩するか」
ランニングウェアに着替えた田村と歩いているとなんだか変な感じだ。
「桜山さん、野川公園って武蔵野の森って感じで気持ち良いですよ。ホント」
野川公園に着くと、田村はお先ですとあっさり走りに行ってしまった。その姿を見送って気がついた。
「緑ってこんなに目に優しかったか?気づかないうちに犯人の背中しか見ていなかったんだな。生きていくために刑事になったのに、仕事のために毎日生きてるだけになってた。犯人ではなかった小林の担当になったおかげで、こんなにゆっくりした昼下がりを味わえるとは運が良かった。明日からはスロージュースを見習って、身体に良いもの食べて飲んで自分も大事にしよう」
「桜山さーん」遠くから田村の声がする。
「おーまた明日。お疲れさん」
終
むさしのスロージューサー物語 冬野こたつ @kotatsufufufu
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