4. 近くて遠い
看板娘サシャとは何者なのか。
サシャにはスバルに言っていないことがある。マスターに助けられ、ここで世話になっている理由やその事情は、出会って日も浅く深い絆で結ばれたわけでもない一回のアルバイトには伝えたくないことなんだろう。その心情はスバルにも容易に推測できた。
言いたくないだけならいい。知りたくないわけではない。でも、スバルだって自分の秘密をおいそれと他人に話したくはない。それくらいの節度はある。世界の命運を左右するような重大な秘密でなくてもいい。とっても恥ずかしい思い出話とか、過去の笑い話とか、そういったものであってもある程度の信頼関係がなければ言おうとは思わないだろう。だからいい。今はそれで。
けれど同時に思うのだ。
――僕は、サシャの秘密を知ってどうしたいんだろう。
隠し事をさせることは、少なくとも愉快な事態ではない。信頼されていないんだという落胆、疑念、余計なことを考えてしまう。芽生えてしまった感情は決して見てみぬふりはできないし、特にスバルは嘘やごまかしがあまりうまくはないからすぐに顔に出る。あるいは活動に支障が出る。今回の風邪がそうだとは言わないが、一因にはなっているかもしれない。
野次馬的な心情を、百パーセント否定することはできない。隠されたら知りたくなる。無理に話さなくていいとは思っても邪推はしてしまうものだ。ただ、そうやって知った秘密をどうするつもりなのか。彼女が話したがらない事情を理解したうえで、今まで通りに接することができるのか。
今まで通りを続ける必要があるなら、知ることなんて無意味なのだ。相手を理解するために事情を知っておきたいと言っても、その結果何も変わらないなら相手を傷つけるだけだ。スバルの好奇心は満たされるかもしれないが、暴かれたサシャはどう感じるだろう。
秘密を明かすということは、相手に何かのリアクションを期待しての行動だ。それに応えるだけの度量を備えていないというのなら、無理に追及する必要はない。
――じゃあ、どうしてこんなにモヤモヤしているの?
隠されていることが不満なのか、隠されてしまう程度の関係性に納得がいかないのか。どれも否定できない……と思考を止めようとしたとき、スバルのなかで何かが引っかかった。
「……ちがう」
掠れた声が宵闇に消える。
「僕は……悔しいんだ」
大切な言葉は口にするんだと、いつかの授業で国語の先生が言っていた気がする。古来より日本には言霊という概念があって、言葉を口にすることで意味を持たせるとかなんとか。受験で落ちる、すべるが禁句であるように、言葉遊びやゲン担ぎは奇妙なくらいあの国に馴染んでいる。おまじないとは迷信だ。だけど結局は気の持ちようで、自分の心を前に向かせるための儀式みたいなものだろう。
日本人は都合よく信じる神様を変える。神様を信じている人なんてほとんどいないのに。だからスバルも、言霊という概念を信じることにする。自分という存在を確かめるように。
「サシャの力に、なるんだ」
無力な己が嫌だった。秘密を明かされても何もできないだろう自分が嫌だった。ホールで働くのも体力の限界まで使って、なんとか食らいついている。マスターが「大丈夫」だといったサシャは、きっと一人でも大丈夫なんだろう。マスターとサシャがいれば、きっとデルフィネは問題なく回る。今までがそうだったように。
でもそれはスバルが嫌だった。スバルを拾ってくれたマスター。その恩義に報いたい、力になりたいと思っているのは本当だ。今は衣食住を保証してくれているマスターにどちらかと言えばお世話になりっぱなしだけれど、支えなしで歩けるようになったならばきちんと礼を尽くしたい。スバルは自分を義理堅い人間だとは思わない。ただ、助けてもらったのに何も返せないのが忍びないだけだ。
そしてサシャ。デルフィネにやってきたその日からかいがいしく世話を焼いてくれた。仕事の大半はサシャに教わったし、仕事終わりの一杯を交わすのがひそかな楽しみになっていた。毎日の仕事は体力的にもとても大変だけれど、子どもっぽく笑うサシャの顔を見れば疲れなんて一気に吹き飛んでしまうのだ。
その笑顔を曇らせたくないし、スバルもそれに救われた。そんな彼女がはじめてスバルの前で見せた陰のある顔を、どうにかして晴らしたい。
それはきっと、サシャのことが好きだから。
「……よし」
そうと決まれば早く寝よう。そして元気になって、マスターとサシャのために働こう。働いて、力になって、二人の朗らかな表情をもっと増やして、いずれは。
彼女が秘密を明かしてくれた時、君のことを好きだと言おう。
アシヤ・スバルの第二の人生で最も大きな、けれど密やかな賭けが、今ここに始まった。
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