3. 凡人だからできること
サシャがマスターに「助けられた」理由。その事情を彼女は伏せている。言いたがらない、という方が正確かもしれなかった。
結局、スバルが宛がわれた部屋に戻り、就寝したのは閉店時刻を過ぎたくらいになってしまった。そのせいかどうかわからないがとにかく眠い。労働者に配慮した法律がないせいというか、これはこき使うマスターの問題のような気もするが、さすがにこう何日も昼夜問わず働くといかな若者の肉体でも堪えるものがある。
と、スバルが恨み節を垂れたくなるのも、ホールにスバルとサシャの二人しか配置しないせいだ。店の繁盛ぶりに比べてホールの人間が明らかに少ない。調理場のアルバイトを増やすことはできるわけだし、金を惜しんで採用しないわけでもなさそうだ。もっと恐ろしいのはスバルが来る以前はあのホールをサシャ一人で回していたという事実だ。それは何故なのか。マスターの意向だとサシャは言っていたが、それ以上のことを話してくれる気配はない。
それは、サシャがマスターの元で世話になっている理由にも関係することなのだろうか。
と、あれこれ慣れないことを考えたせいなのか。あるいは、日頃の疲労が蓄積した結果なのか。
スバルは風邪をひいた。
「……ずみまぜん」
「いいから、無理して喋らないで。氷枕、替えが必要になったらすぐ呼んで」
「慣れない環境で負担もあっただろう。今日はしっかり休め」
マスターの言葉には「そしてまた明日から働け」と続きがありそうな気がした。だが問いただす気力は今のスバルに残っていない。「はい」と蚊の鳴くような声で返事をし、そのまま眠りに落ちた。
考えたいことはいっぱいあったし、それで倒れてしまった自分がふがいないとも思っていた。異世界転移したとわかり、特殊能力だとか才能に期待しなかったわけではない。でもそういったものはスバルには確認されず、ステータスだって元の肉体のままだ。体力が無尽蔵になるとか、バッドステータスを引かないとか、そういった期待も今回の体調不良で脆くも崩れ去った。本当にスバルは元の世界の身体のまま、ここにいるらしい。無理をすれば身体を壊す。
それなら、とますますサシャへの疑問が膨らんでいく。今日の店はどうするつもりだろう。不慣れなことを勘案しても、男子高校生のスバルが倒れるようなハードスケジュールだ。それを彼女は笑顔を浮かべて毎日昼夜こなしている。おかしいのだ、どこかで身体を壊すのが普通ではないのか。それともエリンダス人は転生者よりも丈夫な構造をしているのだろうか。
……スバルが意識を取り戻したのは、耳元で食器が鳴る音を聞いたためだ。
ゆっくりと瞼を開く。頭はガンガンと響くし顔の火照りも続いている。まだ熱は引いていないらしい。ぼんやりとした頭の中で音のした方を向く。そこにいたのはサシャではなくマスターだった。
「マスター……?」
「起こしたか。悪いな」
「いえ……あの、店は」
「今日は昼営業だけにした」
疑問には先を越される。今が何時かわからないが、氷枕はすっかり常温に戻っている。それなりの時間が経過したのだろう。マスターの答えは端的であり、スバルの疑問に対し的確だった。そして連鎖するだろう疑問にも先行して回答する。
「付添人のいない目覚めってのは不安だろう」
「あの……サシャは」
「買い出しに行ってもらってる。直に帰ってくるさ」
その答えをどう受け止めていいか、スバルは悩んでいた。サシャが戻ってくるまでに時間があると考えていいのだろうか。ずっと悩んでいたことに踏み込んでもいいのだろうか。スバルはいわば居候で、余所者で、マスターとサシャの間にどんなものがあるのか知らない。それに軽率に踏み込むのは野次馬のすることではないかとも思ってしまうのだ。だけどこれからもここで仕事をするのなら、理解しておいた方がいい気もする。
理屈をこねくり回してしまうが、結局、スバルは自分が知りたいと思った。だから聞きたい、行動原理はそれだけなんだろう。
「……サシャのこと、聞いてもいいですか」
「内容によるな」
撥ねつけるような返答にスバルは尻込みする。でもダメだったら答えられないと言われて終わりだ。スバルが何を失うわけではない。悪かったら全部風邪のせいにしてしまおうと、スバルは弱音を呑み込んだ。
「サシャは、平気なんですか」
「平気、とは」
「僕でさえ、昼夜働きづめでこんな風に身体を壊してしまうのに……サシャはずっと一人で、ホールで働いていたんでしょう。僕の身体が弱いせいなんでしょうか。それとも……サシャが、特別なんでしょうか」
マスターの答えはまだない。
「ホールの人を増やさないのは、マスターの事情だと聞きました。ホールの人を増やさないことと、サシャの事情は……何か、関係があるんですか」
長い、沈黙だったと思う。マスターはひときわ長い息を吐き、それからスバルを見た。ほんの少しだけ目尻が下がる。笑っているようにも見えた。
「俺からサシャの事情は話せねえ。あいつが話すことだ。だが」
同じだ、と思った。
何か悲しいものを抱えている、歪んだ表情。
「あいつなら心配いらない。そういう体質だ、と思っていてくれればいい」
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