2. 君はどうして
「今日も忙しかったね。スバル君、体調は大丈夫?」
「ありがとうございます。さすがに疲れましたけど、大丈夫です」
サシャさんは、と聞き返せる勇気があればよかったのにとスバルは己の小心さを呪う。周囲の目が気になるせいか自分に自信がないせいか、どうにもうまく言葉を返せない。
思えばサッカー部でも受け身だったなと振り返る。二年生で補欠止まり、友人の中にはレギュラーで活躍している奴もいた。加えてそいつはムードメーカーであり、自分から輪に入れないスバルを半ば強引に引っ張ってくれるような男だった。
――どうしてるかな。
疲労が蓄積し、頭がぼんやりしてくると時折ふっと思い返してしまう。芦屋昴が生きていたはずの世界のことを。
あちらを現実と呼び、エリンダス王国を夢と呼ぶのもなんだか抵抗があるが、本来生きているはずの世界のことを思うとスバルの胸は自然と重くなった。邪竜の脅威なんてものはゲームの中だけで、戦争の渦中に飛び込むようなこともない。考えればいいのは部活のことと進路のことで、それも毎日楽しければそれでいいやと思ってしまったりもする。きっと、普通の高校生の日常。
その世界には、たぶんもう帰れない。夢だったらいいけれど、こんな明晰な夢を長く見るなんてあり得ないだろう。
「スバル君?」
「――え」
サシャの呼びかけでスバルは我に返った。サイダーを半分くらい注いだコップを持ちながら、サシャが不安そうに様子をうかがっている。小首を傾げた小さな動きで桃色の髪がわずかに揺れる。漂うフローラルな香りにスバルは慌てて身を引いた。
「大丈夫? ぼーっとしてたみたいだけど」
「すみません! 考え事をしていて」
「考え事って?」
「……元の世界の、ことを」
サシャに問われて、一瞬言葉に詰まった。言っていいものかという逡巡があったのだ。けれどスバルは隠し事が上手い性分ではない。嘘なんてもっと下手くそだし何より罪悪感がある。特段隠さなければまずいということでもなかったのだが、それでも転生者である自分の悩みがサシャを困らせはしないかと、少し不安に感じた。
スバルは言い淀んだものの、静かに言葉を続ける。
「時々、ふと思い出すんです。僕がいた世界で暮らしているみんなはどうしてるかなって。多分、向こうで僕は死んだことになってるんだろうし、僕一人がいなくても世界は普通に回って、みんなも僕のことを忘れてしまうのかな、とか思ってしまうんですけど」
「忘れられるのは嫌?」
「そりゃ……嫌ですけど。でも、引きずってほしくもないから」
複雑です、とスバルは呟く。サシャの顔を見ながらだとうまく話せる気がしなかったから、俯き床を見つめた。
「僕の祖母が死んだとき、僕はすごく悲しかった。そのとき僕は十歳で、もう遊んだりできないのかと泣きじゃくっていました。でも、悲しい気持ちはしばらく経つと忘れてしまうんですよね。穴が塞がって、気にならなくなる方が近いのかな。僕も、きっとそうなんだろうなって」
サシャは何も言わなかった。
「死んだ人のことは、悲しいけど……忘れずに思い出すことが、何よりの供養だと聞いたことがあります。だから、僕の祖母も……僕も。誰かが時折思い出してくれれば、それでいいのかなとは思ったんです、けど。なんだか話が逸れちゃいましたね、すみません」
「……ううん。貴重な話を聞いたよ」
サシャの声は普段よりも幾分低く聞こえた。スバルの湿っぽい話に合わせてくれているのだろうか。茶化したりする人ではないと思うが、その声は真剣みを帯びていた。
スバルはゆっくりと顔をあげる。サシャの表情はどことなく強張っているようにも見えた。
「忘れずに思い出すことが供養、か。それがスバル君の理ならきっと素敵なことだと思う」
「えっと。ありがとう、ございます」
どう返せばいいかよくわからなかったので、スバルは曖昧に返事をした。
「あの、サシャさんはどうしてここで働いているんですか?」
サシャが真剣にスバルの悩みを聞いてくれている今なら、と思い、なけなしの勇気を振り絞ってスバルは聞いてみた。サシャは一瞬目を丸くしたが、すぐに柔和な笑みを浮かべる。
「私? スバル君と似たようなものだよ。マスターに助けてもらったの」
「助けてって……サシャさんも、あの、転生者なんですか」
「違うよ」
「じゃあどうして」
そう尋ねた瞬間、サシャの表情がわずかに歪んだ。笑顔が可憐な看板娘。苦しんでいる表情なんておどけてみせるくらいで、スバルは彼女の「本当」にまったく触れていなかったんだなと初めて知った。
何かを耐えるような、振り切るような、苦しんでいるとも受け取れる表情をしていた。サシャのそんな顔を見るのは初めてだった。彼女だって人間だし、苦しいときや悩んでいるときだってあっただろう。だけどそれをスバルには見せなかった。……見せたくなかった、のかもしれない。
悲痛に歪んだ瞳に映るスバルもまた、傷ついたような顔をしている。
「……どうして、だろうね」
それが会話の終わりだと言うように、サシャはコップに残っていたサイダーを飲み干した。
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