2. アシヤ・スバルの焦燥
部活はサッカー部。部の未来を担うエースストライカー、などではなく補欠の二年生だったけれど、練習はちゃんとサボらず参加していたし、同級生とも一緒に汗を流して充実した日々を送っていた。
そんな彼の日常が脆くも崩れ去ったのはある夏の日の帰り道だ。
夏時間だからと日が沈むのも遅くなったので練習をいつもより長めにして、さあ帰ろうと自転車をこぎだしたのは夜七時を回っていたと思う。何度も往復した通学路を迷いないハンドルさばきで駆け抜けて、開けた交差点に出た瞬間――昴は自動車に激突したのであった。
ブレーキをかけても間に合わなかった。青信号だからと減速せず交差点に突っ込んだせいもあったかもしれない。曲がってきていた自動車に気づけず、大きなクラクションが鳴って、そのまま身体が宙に放り出された。コンクリートに激しく打ち付けて、そこから先のことは覚えていない。ただ、二度と意識が覚醒することはなかった。その肉体では。
次に目を覚ました時、昴は森の中にいた。学校の近くに森なんてなかったから見知らぬ景色に昴は激しく動揺した。頭を打ってついに気でも狂ったかと思ったけれど、そこからさらに想像を絶する事態が続く。
魔物と呼ぶにふさわしい獣が眼前に現れたのだ。
山育ちでもなんでもない昴にとっては目の前に狼のような猛獣がでることすら非常事態なのだが、さらにそいつは二足歩行をしていた。それで確認する、こいつは普通の獣ですらないのだと。唾液を滴らせた牙は鋭く発達していたし、その図体は昴が見上げなければ顔が見えないほど巨大だ。身体全体は黒がかった灰色の毛で覆われており、三メートルくらいあるかもしれない。そして、獲物に飢えて凶暴さを微塵も隠そうとしないぎらついた二つの眼がスバルを捕捉する。
――死んだ、と思った。
「そこを、偶然通りかかった冒険者の人に助けてもらったんです」
自分の身に起こったことをどこまで話したらいいのかスバルにはわからなかったけれど、ここの酒場の人たちは自分が異世界の人間――転生者であるとわかっているようだったし、この先どうしたらいいかもわからない。だからすべて直截に、洗いざらい話してしまったほうが変に取り繕うよりもマシな気がした。スバルが嘘が上手くはない。それに冒険者の人が「頼れ」と言った人たちだ、無一文のスバルを騙しても何の利益もない、と思う。
サシャと名乗ったウェイトレスの女性はあの店では看板娘として人気者らしい。スバルにこの世界について教えてくれた常連客の男性もやたらと彼女を目で追っていた。ピンク色の髪というのがなんとも奇抜だけど、もしかしたらこの世界ではスタンダードなのかもしれない。それに奇抜とは言ったが、どうしてか彼女にピンク色はよく似合う。内巻きにした髪が時折ぴょこぴょこと跳ねて、それがなんだか可愛いなと思ったりもした。
「それはさぞ大変だったでしょう。お疲れさまでした」
まずはしっかり食べて休んでくださいと言われ、サシャに通されたのは二階の客室だた。この酒場が宿屋も営んでいるかはわからないが、客室と思しき扉がいくつも並んでいる。まるで寮みたいな作りだ。
サシャは慣れたようにクローゼットを開けて淡い水色のパジャマを取り出す。時刻は紫の刻……日が落ちたからもう夜、なんだろう。
「ひとまずこちらに着替えてください。シャワーは奥にありますのでご自由に。夜ご飯はお店が落ち着いてからだったらマスターにお願いするんですけど、これからかき入れ時なので……」
サシャは申し訳なさそうに両手を合わせた。
「とっても簡単なものになりますけど、それを持ってきます」
「すみません、忙しい時に」
「いいんですよ。詳しいお話はまた明日しましょう。今日はここでゆっくり休んでください」
サシャが踵を返す。ウェイトレスの制服なのだと思うけれど、膝上スカートが揺らめく姿にスバルはどきりとした。
「あ、の」
変に上ずった声で彼女を呼び止めてしまったとき、何とも言えない罪悪感が込み上げてきた。サシャはきょとんとした様子でスバルを見つめる。
「何か?」
「……いえその、お仕事頑張ってください」
ふわりとした微笑みを浮かべてサシャは頷く。そのまま今度こそドアノブに手をかけ、ぱたりと世界が閉じた。静寂がスバルに襲い掛かる。
「はぁ……」
その瞬間、今まで張っていた緊張の糸が一気に解けた気がした。途方もない疲労感が身体中にのしかかるみたいで、耐えかねてベッドに倒れこむ。スプリングがぎしりとなってスバルの全身を受け止めた。
鉛のように重たくなっていく身体。そして抗いようのない睡魔がスバルを襲った。あまりにもいろんなことが起こりすぎて、スバルはもうキャパオーバーだった。交通事故による死亡。そこからの異世界転生。ライトノベルとかだとチートとか特殊能力とか実は魔王の生まれ変わりとか、そんな壮大な秘密がセットでついてくるところだけど、スバルは目覚めた瞬間もうスバルだった。赤ん坊として生まれなおすとか、そういったことはない。
ともすると、これは異世界転生というより転移なのかもしれない、とぼやけていく視界の中で思った。トイレに席を立った時洗面台でようやく自分の姿を見たが、自分の容姿は生前のままだったのだ。自分は芦屋昴のまま異世界にやってきた。常識が通用しない世界で、特殊能力もないのにどうやって生きていけばいいのか。今日はここに寝泊まりできるとして、明日からはどうすればいいのか。
答えを見つけようと思って焦っても、打開策は出てこない。スバルの意識は深い眠りに落ちていった。
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