武蔵野の思いで。変わりゆく想いは、きっとまたもとに戻ていく
さかき原枝都は(さかきはらえつは)
もう一人の自分へ
私があの地にいたのは、まだ幼き時だった。
幼少のころ。
正直私にはあの頃の記憶はほとんどない。
されど、あの地で感じた幼き想いは未だ、忘れることのできない体に刻まれた思い出である。
世田谷区上野毛。
等々力通から路地にはずれ、東急大井町線のガードを潜った住宅街に当時私は住んでいたようだ。
おぼろげながら、住んでいた住居の赤い屋根だけは記憶にある。
この地に住んでいたのはたった1年間だけだったようだが、この地に来れば、自然と懐かしさがこみあげてくる。
街並みは幼少期のその時とは、かなり変わってしまったのかもしれない。されど、ここに来れば、私の心はまたあの頃の無垢なまっさらとした心に戻ることが出来る。
地方に越した私は高校までをその地方で過ごした。
卒業後、私の家庭の事情は必然的に東京と言う大都会へといざなった。
正直幼少のころ、この東京と言う地で時を刻んだ想いがあったためか、東京と言う都会へ戻れるという思いもなかったと言えば嘘になるだろう。
ただし私が赴いた先は幼少のころ暮らしていた場所ではなかった。
急激な環境の変化と、極限に抑えた生活。
毎月、実家には仕送りをしないといけない。自分自身の生活は全てが、困窮したものだった。
物質的にもそして精神的にも追い込まれた時、先に見えたのは真っ暗な世界しか私には見えていなかったのだ。
そんな時、私の心は二つの心に分かれてしまった。
そう、もう一人の私がこの世に存在してしまったのだ。
二人の私。
私に見えるその姿は私そのものだった。
だが、もう一人の私は誰にも見えない。
私にしか見ない存在。
そのもう一人の私が話しかけてくる。
「もういいんじゃないか。もっと楽に生きようよ」と。
そうしたい、もっと人生と言う時間を私は自分自身に使い、その時間を楽しみたかった。しかし現実はそれを許してはくれない。
「だったら。切り捨てればいいだろ」
もう一人の私がつぶやく。
「切り捨てるって?」
「そんなの分り切ってるじゃないか。やめるんだよ、すべてを」
「すべてをやめるって言うのは……、もしかして死ぬっていう事を言っているのか」
「んー、それはどうだろうね。死んだら何も残らないけど、自分が一番楽だと思うんだったら、それも選択肢の一つかもしれないね」
「そうか死ぬという事も選択肢の中にあるんだ」
その時もう一人の私に言われた言葉を、私は何の疑念を持たずに受け入れていた。
「でもさぁ」
もう一人の私はその後に言う。
「死んだら何もかも失くしてしまうんだよね」
「そうだね」
「だったらさぁ、どちらか一人になればいいんじゃないのか」
どちらか一人って?
「またもとに戻るっていう事?」
「そうじゃなくてさ、入れ替わるんだよ。そうしたら、もっと楽な人生を送れるかもしれない」
「もう一人の自分はそうしたらどうなるの?」
「消えるだけさ」
「消えたらまた元に戻れるの?」
「さぁ、それは分からない」
「あのさぁ、半分半分とかってできないの」
「無理なんじゃねぇ。そんな都合のいいことなんてあり得ねぇし」
やっぱりそうなんだ。
「少し考えさせて……」
都合のいいことなんてこの世にはあり得ない。
世界は自分の為には回ってはくれない。
何となく電車に乗り、行き先も決めずにたださ迷うように乗り継ぎ、降り立った場所がここ上野毛だった。
何故ここに来たのかは分からない。
だけど、ここで暮らしていたという事は知っていた。
住んでいたのは本当に幼いころだったから、街並みがどう変化したかなんて分からない。初めて来た場所の様な気もするけれど、どことなく懐かしい感じがずっとしている。
静かな住宅街の路地を通ると、一気に緑が映える。
都会の木々は地方で育つ木々とは何かが違う。
その違いは何だろう。
ふと思うこの胸の苦しさ。
何かが窮屈なんだ。
この木々たちは、昔は自由にこの広大な大地で育っていた。
誰もがこの地には手を付けようとはしない、ありのままの姿をその昔、広がっていたことを知っている。
実際にそれを見ていたわけではないが、この窮屈さは時の流れが、この地を変えたことを意味しているものだという事を感じ取っていた。
武蔵野と言う地名は、今も存在し得るが、その姿は全く変わってしまっているものだという事を……。
それは致し方ないことなんだろう。
人が住み、地を変え生きるすべを変えて来た。
そして今がある。
この大地はもう昔の姿へと戻ることは出来ないんだろうか。
もし、今ここにあるすべてが無くなってしまったら、また木々は自由に伸び映え、この地を埋め尽くすんだろうか。
そしてそれを誰かが望んでいるのだろうか?
多分元に戻ることを望んでいる人なんかいないだろう。
それを今の自分に言わせるのか?
少しずつ削られていく昔の面影を、大切に残しておきたい。たとえそれが小さな面影にとどまったにせよ。
その昔この地に広がっていた緑の大地の面影を、これからも残していければそれでいい。
それは人がこの地で生きて来たあかしでもあるのだから。
私はもう一人の自分に自答する。
「やっぱり、入れ替わらないよ」
「どうしてさ。辛いんだろ」
「うん、辛いから入れ替わらないんだよ」
「それって変じゃねぇのか」
「ちっとも変じゃないよ」
辛さがあるから生きていけるんだ。
楽な生き方だけに目を向けてはいけないんだ。
もう一人の自分はこれで消えてしまうのかと思っていた。
でも、その姿は誰もがはっきりと見る事が出来る姿となって私の前に現れたのだ。
その姿は、森の木々の様に綺麗な緑を思わせた。
幼き日にいたこの気持ちの面影は影薄く、まだ私のこの想いでの中に存在している。
あの時私と共に過ごした時間を今も彼女は忘れてはいなかった。
そうだったんだ、どうしてこの地に私はやって来たのか。
ここが私が生まれたその地であるからだ。
たとえどんなにこの地が変わろうとも変わらないものもある。
それは自分が培った思い出だ。
この地はそれを私に思い出せてくれたんだ。
あれから何年の歳月が流れたんだろう。
すっかりと外見が変わってしまった私に、この地の木々たちは囁く。
たとえどんなに変わろうとも、また再びこの大地は元に戻るという事を。
武蔵野の思いで。変わりゆく想いは、きっとまたもとに戻ていく さかき原枝都は(さかきはらえつは) @etukonyan
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