第66話 今のお前は紛れもなく、うちの4番だよ
確かに芯で捉えた。間違いなかった。けれど田辺誠が放った打球は、ピッチャーの正面へ飛んでしまった。
咄嗟に出した投手のグラブの中へ、吸い込まれるように打球が飛び込んだ。直後に審判がアウトを宣言する。途中まで勢いよく走っていた田辺誠が、ライナーを捕られた瞬間を絶望の眼差しで見つめた。
顔面を蒼白にして、その場へ膝から崩れそうになる。ぐっと下唇をキツく噛んだあと、自分の太腿を一度だけグーで強く叩いた。
「田辺っち……」
ベンチで見ていたマネージャーの栗本加奈子が、何故か誰より泣きそうになる。瞳に映る小さな涙の雫がキラリと光り、どこか遠くの光景を映す。肩を落として戻ってきた田辺誠へ、真っ先に「ナイスバッティング!」と声をかける。
「この調子でいこう。今のだって惜しかったんだから、絶対、塁に出れるよ!」
栗本加奈子の声援に、ネクストバッターズサークルから立ち上がろうとしていた港達也が、ベンチを振り返り「わかってます」と応じた。彼が打席に立てば、次の3番バッターが準備をしなければならない。本来ならそこにあったはずの相沢武の名前はすでになく、代わりに8回裏にリリーフをした伊藤和明の名前が入っていた。
練習試合などで彼の打席を見た際には、バッティングが得意なようには見えなかった。とはいえ、初心者も同然の淳吾がなんとか打てたくらいなのだから、絶対に凡退するとは言い切れない。それこそ、伊藤和明がサヨナラホームランを打つ可能性だってありえるのだ。
港達也が打席に入りながら、かけている眼鏡の位置を調整する。凡退してしまった田辺誠と同様に、なんとしても塁に出たいと考えてるのは打席に臨む姿勢からもわかる。しかし、この9回表を抑えると勝利できる相手高校の投手は、最後の力を振り絞って気迫のピッチングを展開してくる。
序盤みたいなストレートと曲りの小さなスライダーを使っただけの組み立てではない。全球種を惜しげもなく披露して、全力で港達也を抑えようとしていた。
じっくり待つタイプだとここまでの打席で理解しているらしく、初球からボールになるような変化球は使わない。カットボール気味のスライダーでワンストライクを取ったあとは、内角に切り込んでくるストレートでツーストライク目を奪う。あわよくば四球で出塁という目標を掲げていた港達也は、あっさりと相手バッテリーに追い込まれてしまった。
普段から冷静な港達也が、打席内で焦っている。ベンチにいる淳吾にはっきりわかるのだから、当然、相手バッテリーも気づいている。この状態でストライクコースに放る必要はない。ボールゾーンへ変化する球を投げれば、焦ってる分だけ打者は手を出す確率が高くなる。
投じられた次のボールは、予想どおりのカーブだった。縦に変化して、ストライクからボールに落ちていく。普段の港達也なら難なくとはいわなくとも、見逃せている可能性が高い。しかし、冷静さを欠いている精神が、彼の従来の能力を奪っていた。
「ああ……」
ベンチの前に立って応援している栗本加奈子が、無念そうなため息を漏らした。ボールに変化するカーブを見極められずに、バットを振った港達也が三振をしてしまったからだ。
ツーアウトとなり、私立群雲学園野球部は敗北寸前のところまで追い詰められた。誰もがベンチで懸命に声を出す中、この試合、初めての打席となる伊藤和明が相手投手とグラウンドで対峙する。淳吾はネクストバッターズサークルから、繰り広げられる勝負を見守る。
*
初球のストレートを見逃した伊藤和明が、高ぶってる気分を落ち着かせるようにふうと息を吐いた。肩を何度か上下に揺らし、緊張をほぐそうともしている。淳吾も何度か立った打席で、常にしている準備みたいな動作を、そっくり真似ているような感じだった。
グリップを余して持ち、少しでもボールへ早く反応できるように、あらかじめバットを寝かせて構える。長打は期待できそうもないけれど、とにかく芯に当てるのを心がけて、ヒットを打って淳吾に繋ごうという意識が見てとれた。
伊藤和明に打ってほしいと願う一方で、自分に打席がまわってこなければいいと思う自分もいた。皆のために打ちたいが、結果を残せなかった場合を考えると、怖くてたまらない。お漏らしでもしそうなくらいに全身が震え、心細さからくる泣きたい気持ちを抑えられない。
涙を浮かべるのだけはなんとか堪えているものの、過呼吸にでもなるんじゃないかと本気で心配するほどのありさまだ。すべてを正直に告白して、他の誰かに打席を任せて逃げ出したい。そんな思いばかりが強くなる。
淳吾の視線の先では、逃げていくスライダーへ放り投げるようにバットを出して、なんとかファールを打っている伊藤和明がいた。全力で相手投手に食らいつき、チームのために、自分のためになんとかしようと頑張っている。
彼だって、相手投手より実力が劣ってるのは理解している。それでも決して逃げようとはせずに、堂々と胸を張って立ち向かっている。ビクついている淳吾にとっては、眩しすぎる存在に思えた。
いつか伊藤和明は淳吾を尊敬しているみたいに言っていたが、それは逆だ。自分の力を素直に認め、足りないと感じたら誰かに助けを求める。最終的に自分で立ち向かわないといけなくなったら、覚悟を決めて全力で挑む。
言葉にするのは簡単だが、実際にその方針を実行できる人間がこの世界に何人いるだろう。伊藤和明を見ているほどに、淳吾は自分の弱さを責められてるような気がした。
ツーストライクに追い込まれた伊藤和明が、落ちながらアウトコースに逃げていくカーブを、身を乗り出して見送る。球審がボールと判定すると、心から安堵したようにため息をつく。その直後だった。
打席を一旦外した伊藤和明が、一度だけ振り返って淳吾を見たのだ。その表情には強すぎるくらいの気負いがあるのに、彼は笑っていた。
微笑む程度のものだったが、見間違えではない。次の瞬間、決め球として投げ込まれたインコース低めのストレートを、彼はかろうじてバットに当てていた。
ボテボテと転がる力のない打球を見て、誰もが試合終了を覚悟する。しかし何の因果か、1塁手と投手の間で小さくイレギュラーをした。
不規則な転がりを見せる打球の処理に、1塁手と投手が同時に戸惑う。そのせいでどちらもベースカバーへ入るのが遅れてしまった。気づいた2塁手が慌てて1塁へ走るものの、その頃には全力で走っている伊藤和明が今にもヘッドスライディングをしようとしていた。
守備の不手際に気づいた投手と1塁手がしまったという顔をする。冷静になっていれば、いくらイレギュラーをしたとしても、確実にアウトを取れた打球だったからだ。勝利を焦ったわけではないだろうが、相手高校はエラーがついてもおかしくない内野安打を伊藤和明に打たれた。
私立群雲学園野球部にとっては、願ってもない展開だった。吹奏楽部がかけつけてくれている応援席の盛り上がりも最高潮に達する。ここで颯爽と打席に立ち、2試合続けてのサヨナラホームランを打てたらどんなに恰好いいだろう。けれど淳吾の身体は一向に動いてくれなかった。ネクストバッターズサークルにしゃがみ込んだまま、動こうとしない淳吾を不思議そうに皆が見つめている。
そんな目で見ないでくれ。俺はただの偶然で、こんな試合に出場している初心者なんだ。どんなに期待をかけられても、応えられないんだ!
心の中で叫びながら、瞼を閉じる。真っ暗な世界にいても、声援を送ってくれる人たちの声が耳に届く。普通ならそこにやりがいを見出すのかもしれないが、今の淳吾には重圧にしかならなかった。
*
このまま消えてなくなりたいと本気で願っている淳吾の背中を、誰かが軽くポンと叩いた。次に打席へ入るかもしれない5番の土原玲二だ。ネクストバッターズサークルで準備をするために、ヘルメットをかぶってこちらへやってきていた。
「どこか痛めたのか?」土原玲二が優しく尋ねてくる。
「いや……痛めてない」
「それじゃ、どうした。ヒーローになる場面を想像して、今から興奮しすぎてしまったか?」
「ヒーロー? 俺になれるわけがないだろ」
一度口から言葉が漏れてしまうと、もう自分の意思では止められなくなる。淳吾は土原玲二の顔を見たまま、不安を声にする。
「俺は皆が言ってるような凄い人間じゃない。俺は……俺は……」
まるで教会で懺悔でもするように言葉を絞り出す淳吾を見て、土原玲二がそんなことかと言いたげに笑う。
「そんなのは知ってるさ。大体、野球の授業でホームランを打ったからって、それだけでプロからスカウトがくるような人材だというのは無理があるだろう」
「え……?」
まさかの返しに淳吾が戸惑っていると、土原玲二は笑いながら言葉を続けてくる。
「仮谷の豆だらけの手を見れば、どれだけバットを振り込んでいたのかはわかる。噂の真偽がどうであれ、今のお前は紛れもなく、うちの4番だよ」
「だ、だけど……」
「どうしても打てないと言うなら、4番らしく堂々と三振してこい。お前が打てなくても、文句を言う奴はこの部の中にはいない。武や田辺を含めてな」
これで会話は終わりだとばかりに、最後に強い力で背中を叩かれる。肌打つ音が耳へ響くと同時に、ジンとした痛みが残る。普通なら怒るところだが、今に限ってはその痛みが頼もしい味方に思えた。
いつからバレていたかはわからないが、とにかく土原玲二は噂されてるだけの実力が淳吾にないのを知っていた。それでもなお、能力を信じて4番を任せてくれたのだ。
不思議なもので少しでも冷静さが戻ってくると、それまでは聞こえてこなかった声が耳へどんどん届いてくる。淳吾と同じクラスの連中も応援に駆けつけ、吹奏楽部の演奏に合わせて声の限りに声援を送ってくれている。
「見せ場よ、淳吾君っ! 武者震いしてないで、さっさと舞台に立ちなさい!」
どこぞのバッティングセンターで聞き慣れた声までする。私立群雲学園の応援席には、いつ来たのか、当たり前のように小笠原茜が座っていた。しかも、わざわざ土原玲菜の隣に座っている。見慣れない制服を着ているので、恐らくは仕事を抜け出してきたのだろう。他人事ながらに大丈夫かと心配になる。そんな小笠原茜の側には、例のごとく安田学も座っている。前回の試合と同様の並びで観戦中だった。
「見せ場か……。仕方ない。やれるだけはやってくるか」
そう言いながらようやく立ち上がった淳吾を見て、土原玲二がニヤリとする。
「どうせなら、サヨナラホームランを期待してるぞ」
「それはお前に任せるさ」
冗談を言える余裕が復活した。あれだけ重く感じていた両足も普通に動くようになった。プレッシャーひとつで、身体が鉛のようになったりするのだから、人間の精神というのは本当に不思議だ。
「淳吾、頑張って!」
打席へ入る直前に、誰のよりも嬉しい声援が淳吾に贈られた。普段は大きな声を出したりしない土原玲菜だ。そんな彼女の心のこもった応援だからこそ、活力もみなぎってくる。
「頑張るさ。皆のためにも……自分のためにも」
打席でバットを構え、マウンドにいる投手と正面から睨み合う。もう気迫で負けたりはしない。
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