第65話 あいつをもう一度、バッターボックスに立たせるんだ!

 項垂れたままマウンドを去るエースに、誰も声をかけられなかった。ベンチへ戻るなり、崩れ落ちるように倒れた相沢武を、泣き顔の栗本加奈子が支えた。なんとか椅子に座らせると、俯いたままの相沢を隣で心配そうに見つめる。


 あとのことはマネージャーに任せるとして、今は試合に集中しなければいけない。ここでさらに追加点を奪われると、勝敗はほとんど決してしまう。伊藤和明に課せられた使命は、残酷すぎるくらいに重かった。


 彼もまた泣きそうな顔をしてるのではないかと思っていたが、レフトから確認できた伊藤和明の表情にはかなりの気合が入っていた。淳吾が想像するよりも、ずっとタフな精神をしているのかもしれない。マウンドで捕手の土原玲二から何かを言われてるみたいだが、恐らくはアドバイスでも受けているのだろう。


 集まっていた内野陣が、それぞれの守備位置へ戻ると同時に投球練習が行われる。


 伊藤和明のボールは相沢武に比べると、球速も球威も劣る。勝る点があるとすればコントロールだけだと、以前に捕手の土原玲二が話していた。変化球も他の部員よりは上手く扱えるので控え投手にしたみたいだが、経験と実力が不足してるのは明らかだ。


 淳吾も似たようなものなので、抗議するつもりも資格もなかった。ただただ左翼の守備位置から、マウンドの伊藤和明に頑張れとエールを送るだけだ。


 試合が再開され、伊藤和明が公式戦で初めて打者に投球を行う。緊張はあるはずで、証拠に1球目は土原玲二が構えてるミットから大きく逸れてしまった。幸いにしてなんとか捕球はできたものの、危うくタダでランナーを進めさせてしまうところだった。


 土原玲二がジェスチャーで落ち着くように、伊藤和明へ指示を出す。頷いてはいるが、この状況で平常心を保てというのは酷だ。


 マウンドの上で2,3回軽く飛び跳ねたあと、伊藤和明は大きく深呼吸をする。少しでも緊張を和らげようと、本人なりに努力をしていた。そうして投げた2球目はインコース低めの厳しいところに決まった。


 スピードはなくとも、絶妙のコースに決まったので相手打者も反応ができなかった。もしくは、どんな投手か見るために、ベンチから待てのサインが出ていたのか。どちらにしろ、早いうちにワンストライクを取れたのは、伊藤和明にとってプラスに働くはずだ。


 リードする投手を鼓舞するようにミットを叩いたあと、今度は外角低めを土原玲二が要求する。首を振らずに頷いた伊藤和明は、ほとんどズレることなくキャッチャーミットのあるコースへ投げ込んだ。


 先ほどのインローの残像がまだある状況で、アウトローぎりぎりに決められると、さすがに打者も手を出し辛い。見逃しでツーストライク目を奪い、一気に有利な状況を引き寄せる。バッターは追い込まれると、様々な球種を想定して待たなければならないからだ。


 1球外すのかと思いきや、土原玲二はそのまま勝負にいくつもりみたいだった。今度もストライクコースのアウトローにミットを構えている。やや緊張した面持ちの伊藤和明が、ふーっと軽く息を吐いてから投球動作に入る。相沢武のとはまた違うが、こちらもかなり綺麗なフォームをしていた。


 投じられた4球目は、3球目とほとんど同じコースに向かっていく。今度は打者も手を出してくるはずで、スイングをしようとするのがわかった。四隅を上手くつけたとしても、スピードがない分だけバットには当てやすい。恐らくは相手打者もそう思って打ちにいってるはずだ。


 直後に淳吾も驚く事態が発生する。アウトコース低めにストレートを投げたとばかり思っていたが、途中でくっと軌道を変えたのだ。突然の変化に対応しきれなかった打者のバットがむなしく空を切る。伊藤和明が、公式戦で初めての三振を奪った瞬間だった。


   *


 幸先よくアウトをひとつ積み上げられたが、まだ2人のランナーを残してる状況に変わりはない。幾分か有利にはなっているが、野球はツーアウトからという言葉もあるとおり、油断すれば一気に勝負を決められてしまう。


 試合終了まで何が起きるかわからないとはいっても、今の私立群雲学園に2、3点のビハインドを跳ね返す力があるとは思えなかった。勝利を望むには、なんとしても伊藤和明に1点差のままで踏ん張ってもらうしかないのだ。


「頑張れ、伊藤!」


 ベンチからひときわ大きな声が飛ぶ。声援を送ったのは、無念の降板をしたばかりの相沢武だった。悔しさを押し殺し、必死になってグラウンドで戦っているナインの応援をする。その隣ではマネージャーの栗本加奈子も、懸命に声を出している。応援席からも頑張れのコールが発生し、対戦高校の応援を打ち消すほどの勢いになっている。


 やるべきことはわかっている。そう言いたげな表情を見せている伊藤和明に、普段のような優しげな雰囲気はなかった。戦う男そのもので、臆したりせずに相手打者へ向かっていこうとする。球威も球速も足りないのであれば、気合で補う。彼の態度はそう言ってるみたいだった。


 相手高校の次の打者がバッターボックスに入り、伊藤和明がセットポジションから1球目を投げる。インコースよりの球にバッターが腰を引いた直後、ストレートと思われたボールが変化してストライクコースに決まる。先ほどの打者を三振に仕留めたスライダーだった。初球から使い、そのボールの存在を強く打者にインプットさせたのだろう。あとは捕手の土原玲二が、どうリードをしていくかだ。


 もう1球インコースへ要求するも、今度は変化させずに見逃してストライクを取るつもりなのは、相手バッターにもわかっていた。前の打者との対戦で見せた、外角を使った攻めに似ていたからだ。


 もしものことを考えてしまったらしいバッターは、想定よりも強く内角を打ちにいけなかった。インコースに狙いを定めてスイングをするのはいいが、2球続けてスライダーだったら、クリーンヒットを打つのは難しくなる。そのせいで中途半端な対応になる。


 土原玲二が要求したのは真っ直ぐではなく、2球続けてのスライダーだった。切れも変化も相沢武のよりはだいぶ劣ってるように見えるが、相手打者はずいぶんと打ち辛そうにしていた。もしかしたら、打席に立たないとわからない独特の変化をしてるのだろうか。


 真偽は不明だが、とにかく伊藤和明のスライダーは相手高校の打者に通用していた。2球目も見事に空振りを奪い、これでツーストライクとなる。


 今回は一気に勝負へいかず、まずはインコースへ外すボールを土原玲二が求める。相手に腰を引かせて、最終的にはアウトコースで仕留めるつもりなのだろう。リードの意図を察した伊藤和明が頷いてボールを放るも、ストライクコースに球がいってしまう。


 3球勝負があるかもしれないと考えていた打者はすぐに反応し、鋭いスイングで伊藤和明のストレートを捉える。金属音に負けないくらいの強い飛球が、淳吾が守っているレフトに向かって飛んでくる。大急ぎで落下しそうな地点へ走るも、とてもじゃないが間に合わない。打球はレフト線を襲っており、フェアになると走者一掃の長打になるのは間違いなかった。


「切れろっ!」


 思わず叫んだ淳吾の目の前で、打球がレフト線のわずか外側へ落下する。ボールの跡がはっきりとファールゾーンに残り、その様子を見ていた審判がファールを宣言した。安堵しながら走る力を弱め、淳吾は本来の守備位置まで戻る。途中でマウンド付近を見ると、立ち上がった土原玲二が大きな声で伊藤和明に檄を飛ばしていた。


   *


 コントロールミスをしたあとでは、さすがに同じコースへは要求し辛いだろう。そう思ってレフトから見ていたのだが、土原玲二のリードはあくまでもインコースだった。速球のスピードがあまりない投手だけに、打者がインコースでのストレート勝負はないと予想してると判断したのかもしれない。


 今度は伊藤和明もしっかりとインコースに外し、ツーストライク、ワンボールとなる。ストレートの威力が足りないのはバッテリーもわかっているだろうから、恐らくは変化球勝負になる。どこでスライダーを使うのか。そればかりを考えていた淳吾の視線の先で、伊藤和明がインコース高めにストレートを放った。土原玲二のミットはアウトコースだったので、またコントロールミスをしたのかと背筋が寒くなった。


 しかし土原玲二は右手にはめているキャッチャーミットを伸ばし、難なくインコース高めのボールを捕球する。呆気にとられたバッターはバットを振れず、目の前を通り過ぎるボールを見送るしかなかった。球審の手が高々と上がり、三振がコールされる。相沢武のあとを受けた伊藤和明は、見事に後続を打ち取るという役目を果たした。


 誰もが満面の笑みを浮かべながら走ってベンチへ戻り、途中で追いついた伊藤和明の背中を強く叩く。そのたびに彼は顔をしかめながらも、嬉しそうに微笑んだ。追加点を与えずに相手の攻撃を終わらせられて、心底ホっとしている感じだった。


 ベンチへ戻ると相沢武が伊藤和明を労いながら「すまない」と謝った。迷惑をかけたことについてなのだろうが、相沢を責める人間なんているはずがなかった。


「少しは相沢君の手助けができてよかったよ。僕だって、控えとはいえ投手を任されてたんだからね」


「そうそう。さすがエースよね」


 栗本加奈子がいつもの調子で冗談を飛ばすと、ベンチ内の雰囲気が少しだけ明るくなった。相沢武も普段どおりに「あのなぁ」なんて言いながら、マネージャーに文句を言ったりする。だが心から楽観的にはなれない。なにせ試合はまだ続行中で、私立群雲学園は1点差で負けているのだ。しかも攻撃の機会は、この9回しか残されていなかった。


 すがるにはあまりにも小さな希望に、誰もが自然と口を閉じてしまう。そんな中で、気合を入れるように「まだだ!」と叫んだのは、これから打席に入ろうとする1番の田辺誠だった。


「誰かひとりでいいから、塁に出るんだ。そうすれば、仮谷にまで打席が回る。なんとしても、あいつをもう一度、バッターボックスに立たせるんだ!」


「同感ですね。私たちが勝つには、それしか方法はありません」2番打者の港達也も同調する。


「サヨナラホームランでなくてもいい。初回みたいな攻撃ができれば、俺たちだって2点取れるんだ! 諦めてたまるかよ!」


 自身を、チームを奮い立たせるかのように田辺誠が大きな声を出す。チームを覆っていた悲壮感が徐々に晴れ、同時に淳吾へ期待の眼差しが注がれるようになる。


「お前に頼むのは癪だが、負けるのよりはずっとマシだ。俺が塁に出てやるから、前の試合みたいに、きっちり美味しいとこを持っていけよ!」


 淳吾に強い口調でそう告げてから、田辺誠がダッシュで打席に入る。なんとしても塁に出る。漲る気迫が彼の表情にまで表れていた。これまでクリーンヒットはないけれど、初回には絶妙のセーフティバントを決めている。1塁手と3塁手がスルスルと守備位置を前にしてくる。その様子が見えているはずなのに、田辺誠はセーフティバントを決行する。だが打球は力なく3塁線のファールゾーンを転がる。


「あいつ……わざとファールにしたんじゃないか?」


 戦況を見守ることしかできなくなった相沢武が、驚いた感じで呟いた。


「どうして、そんな真似をする必要があるわけ?」栗本加奈子が尋ねる。


「それは、あれだろ。守備位置を前にして……」


 相沢武が説明をしている途中で、グラウンドにキィンという音が響いた。バットを短く持った目立ちたがりの1番打者が、相手投手の曲りの小さいスライダーをミートした音だった。

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