第56話 ヒーローを求めてるのなら、1番重要な奴を忘れてないか?

 草野球チームでの早朝練習を終えて自宅へ戻り、肉体の疲れを癒すために少しだけゆっくりしていると、淳吾の家まで恋人の土原玲菜が迎えに来てくれた。


「おはよう。準備はできてる?」


「ああ、すぐ行くよ」


 最初の頃は相手が年上というのもあって緊張していたが、最近ではさほどでもなくなっている。恋人がいる状況に慣れてきたのか、親密さが増したのか。どちらにしても、淳吾が元から望んでいた学園生活に近づきつつあるのは確かだった。


「今日も、朝から練習に行ってきたの?」


「昨日の報告もあったからね。変な誤解を発生させかけた人の弁解も聞きたかったし」


 冗談めかして言うと、普段はあまりにこやかな表情をしない土原玲菜がくすりと笑った。本当はこういう姿が普通で、弟との土原玲二などの家族に対しては頻繁に笑顔も見せているのかもしれない。だとしたら淳吾も、良い意味で気を遣われなくなってきている。実に良い兆候だ。良いことばかりが起きている代償に、あとでまとめて不幸が降ってくるんじゃないかと、少しだけ心配になる。


「そうなんだ……ねえ、今度……見学に行ったら駄目、かな?」


 ほんのちょっと遠慮気味に、土原玲菜が尋ねてくる。邪魔になるのは嫌だけど、練習風景も見てみたい。そんな感じの心情が、どことなく申し訳なさそうな表情から読み取れる。軽く「うぅん」と唸りながら考える。すでに彼女の存在は、小笠原茜や安田学を通してチームの面々に知れ渡っている。どんな女性かという情報もやりとりしてるはずで、そこへ淳吾が当人を連れていけば大騒ぎは必至だ。ほぼ確実に色々な質問をされて、さして戸惑いもせず淡々と答えている土原玲菜の姿が簡単に想像できる。


「……考えておくよ」


 即決できなかったのは、彼女の存在を自慢したいながらも、どこか照れ臭く感じる自分がいたからだ。それに、先日の試合ではまぐれで打てたけれど、淳吾の実際の野球技術はまだまだ拙い。とても大好きな恋人へ披露できるレベルではなかった。残念そうにしながらも、淳吾の足を引っ張りたくない土原玲菜は素直に「わかったわ」と承諾してくれる。そんな彼女から朝のおにぎりを受け取ると、行儀が悪いのを知りながら登校中に頬張らせてもらう。


「美味しい?」


「うん……とっても美味い」


「そう……よかったわ」


 短い時間で会話は終了してしまうけれど、以前よりはお互いに――特に土原玲菜の口数はずっと増えた。淳吾に心を許してくれている証拠なのだと思えば、小躍りしたいほど嬉しくなる。


 隣からタイミングよく「はい」と差し出されたお茶のペットボトルを受け取る。キャップもすでに外されていて、あとは飲むだけの状態だ。ありがたく思いながら、リスのごとく口内へ溜め込んでいた米粒を一気に食道へ流し込む。途中で引っかかりそうになりながらも、お茶のおかげで無事に胃袋まで落ちていく。貪るようにおにぎりを平らげ、ふうと安堵の息をつく。実際のところ、早朝練習の時からお腹が減っていたのだ。ようやく胃袋を満足させられたのもあって、いつになく幸せな気分になる。


 今日はいいことがあるかもしれないな。そんなふうに思いながら歩いていると、同じ制服を着てはいても、顔も名前も知らない連中から次々に声をかけられる。土原玲菜との仲を冷やかされたり、喧嘩を売られたりといった類のものではない。全員が「昨日は凄かったな」と淳吾のホームランについての感想を述べてくれた。


   *


 昨日の試合を見に来ていた人は多いらしく、私立群雲学園に到着してからも、淳吾の周囲はずっとザワついていた。浮かれそうになるのをなんとか堪えられていたのは、隣を歩いている土原玲菜が極めて冷静だったおかげだ。はしゃいでしまうと、とても恰好が悪い。それなら、クールを気取っておくのも悪くない。勝手なイメージ戦略を練りながら、あの程度は当然だくらいの態度で廊下を歩く。


「じゃあ、私はこっちだから」


「ああ、またあとで」


 上級生の土原玲菜と淳吾では、所属するクラスが違う。それぞれの教室へ向かうために途中で別れた直後、瞬く間に淳吾の周りに人だかりができた。


「仮谷君、昨日、すっごくカッコよかったね!」


「アタシもそれ思った。もう、なんか……感動しまくったもん!」


 男女ともに淳吾をチヤホヤしてくれるが、その比率は女子の方が多く思えた。ついに自分の時代が来たのかもしれない。普通にアルバイトに精を出していたら、ここまでヒーロー的な扱いを受けるイベントには恵まれなかっただろう。運命の悪戯で野球をやるはめになってしまったが、もしかしたらそれは天命だったのではないか。だからこそ、ここまでとんとん拍子にうまくいってるのだ。


「もの凄い当たりだったよな。あれは最初から狙ってたのか?」


「初球は真っ直ぐだろうとは思ってたよ。あとはおもいきり振るだけだったかな」


「やっぱり狙ってたんだ。あー、残念っ! もっと前に仮谷君に声をかけておけばよかったー」


 すでに恋人がいる身ではあっても、同年代の可愛らしい女性にそんな台詞を言われると、さすがにドキっとする。多少はつまみ食いしてもバレないんじゃないかなんて悪しき考えを抱いていると、唐突に背後で誰かが咳払いをした。驚いて後ろを振り向くと、そこには何かを言いたげな相沢武が立っていた。


「あっ! 相沢君も凄かったよね。アタシ、感動しちゃった」


「俺も俺も! あんなピッチングができるなら、マジで甲子園目指せるんじゃねえの!?」


 サヨナラホームランを放った淳吾の人気も急上昇していたが、やはり見事な完投を見せた相沢武には敵わない。それでもこちらを気にしてくれる女性がいるだけ、以前よりも恵まれた環境になりつつあるのを実感できる。投打のヒーローが揃ったということで、学園の廊下にはさらなる人が押し寄せてくる。人づてに野球部の勝利を聞いた連中も一緒になって騒ぎ、次の試合には絶対応援に行くと息巻いている。注目されるのはありがたかったが、あまりにプレッシャーをかけられすぎても困る。だがチヤホヤされると調子に乗りたくなるのが人間というものだ。


 淳吾が暴走気味の発言をする前に、何者かがすっと相沢武との間に割り込んできた。


「おいおい。ヒーローを求めてるのなら、1番重要な奴を忘れてないか?」


「……あ、田辺だ」


 ついさっきまで淳吾と相沢武を相手にキャーキャー騒いでいた女子生徒のひとりが、冷め切った声で乱入者の名前を呼んだ。割り込んできた男は、田辺誠だった。淳吾よりも調子に乗りやすいタイプで、とにかく自分に自信を持っている。土原玲菜に想いを寄せているとばかり思っていたが、女性陣への応対を見る限り、一途なタイプではなさそうだ。


 もっと俺を褒めろとばかりに、田辺誠が身振り手振りで昨日の活躍をアピールする。大半の人間が相手にしてないにも関わらず、演説のごとく自分の凄さを語り続ける精神力の強さは、朝の草野球チームでよく一緒になる安田学によく似ている。いつか2人を引き合わせてみたいものだ。


「いいかっ! 俺が必死で1塁に残らなかったら、奴のホームランはなかった。つまり、俺が打たせてやったも同然なんだ! わかったか!」


「アンタが胡散臭いのだけはわかってるから、安心しなよ。ところで、そこ……退いてくれない?」


「フン。嫌よ嫌よも好きのうちってか。モテる男は辛いな……」


「ハア!? ちょ、ちょっと、何をいきなり、わけのわかんない勘違いをしてんのよ! 誤解されたら困るから、やめてほしいんだけど!」


   *


 名前も知らない女生徒と、田辺誠が飽きることなくキーキーギャーギャー騒いでいる。その様子を周囲も面白がるようになり、いつしか淳吾への注目も薄れつつあった。すると、人込みの中から抜け出してきた相沢武が、ついてくるように手で合図をしてきた。無視をするのもなんとなく気が引けるので、すぐ後ろを追いかける。到着したのは、淳吾が所属する教室だった。


 淳吾と相沢武が室内へ入ると早速、昨日の活躍を話題にしようとクラスメイトたちがぞろぞろと集まってくる。その中には当然のように、野球部のマネージャーになったばかりの栗本加奈子も含まれていた。


「仮谷っち、おはよー。昨日はぐっすり眠れたでしょ? サヨナラホームランなんて打ったら、気分よさそうだもんねー」


 睡眠不足にこそなってはいないが、逆にサヨナラホームランを打った興奮でなかなか寝付けなかった。正直に白状すると格好悪いので、あえて「まあね」と得意げに言っておく。またもや賞賛の言葉が雨あられのように降り注ぎ、調子に乗りたがりの血が騒ぎ始める。


「やっぱり仮谷って凄かったんだな。ウチの高校から、史上初のプロ野球選手が生まれたりしてな!」


「ありえるかもっ! でもさ、どうせなら最初から野球部へ参加してればよかったのに」


 男も女も、淳吾だけでなく見事なピッチングを披露した相沢武への賛辞を惜しまない。まるで英雄になった気分で、たまにはこんなシチュエーションも悪くないと心の底から堪能する。なにせ今が終われば、二度と味わえなくなるかもしれないのだ。


「まだ1回戦を勝っただけで、大切なのはこれから――」


 淳吾と一緒にこの教室へやってきた相沢武が、周囲を落ち着かせようと口にしたはずの台詞が途中で止まった。


 何か問題でも発生したのかと思っていると、急にこちらを振り向いて、淳吾の両肩に両手を置いてきた。


「確かに大切なのはこれからだ。だが、プロも注目する主砲の仮谷淳吾がいれば次も勝てる!」


 急に変わった口調と雰囲気に戸惑ってるのは淳吾ひとりだけで、教室にいる他の皆は相沢武の発言で大盛り上がりになってしまった。ただならぬ騒ぎを聞きつけた他のクラスの連中も集まってきて、まさにお祭り状態だ。口々に「頼むぜ、仮谷」と声をかけられ、ただただ頷くしかなくなる。そこでようやく淳吾はハっとする。これは相沢武の作戦だ。こうして逃げられない状況を作り上げ、次の試合も強制的に淳吾を出場させるつもりなのだ。相手の思惑どおりにさせてなるものかと反撃を試みようとするも、実にタイミング悪く朝礼を開始する合図が校舎に鳴り響く。


「お、もうこんな時間か。俺の用件は、次の試合も一緒に頑張ろうぜって伝えにきただけだ。頼りにしてるぜ、プロも注目の4番打者様!」


 勝手に周囲を煽りまくった相沢武が、してやったりの笑みを浮かべて教室から走り去る。周囲から――とりわけ女子から注目されまくってる淳吾は悔しげに唇を噛むこともできずに、ひたすら周りからのエールに応えるしかなかった。


 そして昼休みになると、土原玲菜が迎えに来るのを待って、逃げるようにいつもの中庭へ移動する。日当たりもよく、ポカポカとした陽気は、外でお弁当を食べるには最適だった。これで邪魔が入らなければイチャイチャもできるのだが、生憎とここは学園の敷地内の中庭。大胆な行動は控えるしかない。


 もっとも、可能だったとして、女性に対する経験値が不足してる淳吾が何かをできるとはとても思えないが。


 土原玲菜と一緒に座り、用意してもらったお弁当を仲良く食べる。中庭での日常のひとコマとなりつつあるだけに、最近では必要以上に冷やかしてくる連中も少なくなった。


 ゆっくりと昼食がとれるなと思っていたが、こういう時に限って邪魔者が現れるのは世の常だった。

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