第29話 だから、仮谷っちは凄いんだって

 朝の公園でまったりしすぎたせいで、危うく遅刻をしそうになってしまった。ギリギリのところで、おにぎりを作ってきてくれた土原玲菜に教えてもらえたので、なんとか事なきを得ていた。


 反省しなければいけないが、暇があれば今朝の光景を思い出してしまう。美味しかったおにぎりの味が口の中に蘇り、涎が大量に発生する。


 これから暑くなるだろうから体力をつけてもらうためにという理由で、おにぎりに入っていた具は2つとも梅干だった。好き嫌いはあまりない淳吾だけに、喜んで食べさせてもらった。


 そのおかげかどうかはわからないが、昨夜もバッティングセンターへ通って疲れていたはずの体がだいぶ回復してきていた。


 今日の授業も頑張れるなと思っていたら、栗本加奈子が淳吾に声をかけてきた。


「あれ、仮谷っち。移動しなくていいの?」


 いきなりの質問の意味がわからず、眉をしかめながら「移動?」と逆に聞いてしまう。


「そうだよ。次の時間は体育でしょ。準備しなくていいの?」


「あっ」


 朝の出来事が幸せすぎたせいで、すっかり注意力が散漫になっていた。気がつけば男子生徒は、淳吾を除いて全員が体育館にある更衣室へ移動していた。


 お昼休み前の最後の授業になるが、それが体育だというのを失念していたのは迂闊だった。とはいえ、誰も教室でボーっとしている淳吾に声をかけてくれないのは納得できなかった。


「皆、冷たいよな。誰かしら誘ってくれてもよさそうなのに……」


 淳吾の机の側に立ったままの栗本加奈子に愚痴ると、同情してくれるどころか「当たり前じゃない」という言葉が返ってきた。


「美人な女先輩を恋人にして、朝は一緒に仲良く登校。お昼は中庭で、ラブラブで一緒にお弁当食べてるんだから。嫉妬されて当然でしょ」


 そうなのかと頷きつつ、淳吾にも思い当たるふしはあった。最近になって、周囲の男性たちの視線に殺気を感じる機会が増えていたのだ。


 まさか嫉妬されていたとは。驚きながらも、優越感へ浸らずにはいられなかった。


「そういうわけだから、早く行った方がいいよ。今日は野球なんでしょ?」


「……何で栗本さんが知ってるの?」


 淳吾も知らなかった事実を教えられ、戸惑いながら尋ねると「教えてもらったから」という答えがあっさり返ってきた。


 人懐っこい栗本加奈子は、すぐに誰とでも仲良くなれる特性を持っている。それを利用して、誰かから聞いたのだろう。その人物が相沢武である可能性だけはない。彼は唯一の例外だからだ。


 よく栗本加奈子は野球部の練習を見学しに行ってるみたいだが、そのたびにいつも相沢武に追い返されそうになるらしい。これは本人が怒りながら、淳吾によく愚痴ってるので間違いはない。


 とにもかくにも栗本加奈子と相沢武の仲はあまり良くない。野球部の他の連中も、2人だけにしないよう気をつけてるという話だ。


 本来なら他の人間にも邪魔者扱いされそうだが、栗本加奈子は見学するだけじゃなく、色々と仕事を手伝ってくれるので意外と重宝されてるらしい。これも本人の情報なので、あまり全面的に信じるわけにもいかない。


「それよりさ、今日は女子の体育は自習なんだよ」


「へえ、ゆっくりできそうでよかったじゃないか」


「まあね。だから、女子は全員で男子の見学をすることにしたの」


「……は?」


「代わりに担当する先生が、体育の指導が得意じゃないんでしょ。許可は貰ってるから、大丈夫だよ」


 女子が見学に来てくれると聞けば、嬉しくなるのが高校生男子というものなのだが、淳吾は嫌な予感しかしなかった。


 学園での授業とはいえ野球をするはめになり、ギャラリーとして同じクラスの女子が大挙して押し寄せる。その光景を想像するだけで、朝の思い出が薄れるほど不安になる。


   *


 本音を言えばサボりたかったが、実際に人が投げた球を打てるという機会を逃したくはなかった。そのため、あまり乗り気でなくとも、きちんと淳吾は体育の授業に参加した。


 今回もクラスの中でチームを2つ作って対戦する形になった。以前のホームランの影響か、淳吾は4番レフトで赤チームに所属していた。


 対するのは白チームで、区別する目印は特に何もない。同じクラスの人間だけでやってるので、誰がどちらに所属しているのかとかは迷ったりしなかった。


 普通は中学校で軟式野球を経験した男子がいてもおかしくないのに、私立群雲学園の今回の新入生にはそうした人物はいないみたいだった。だからこそ、淳吾も野球部へ誘われたりしたのだ。


 投げる球は打者が打ちやすいように、大抵が山なりでゆっくりしたものばかりだ。これなら普通に乱打戦になってもおかしくないのだが、バッターも初心者ばかりなので適度に打ち合う試合展開になる。


 そうしてるうちにグラウンドへ、自習だというクラスの女子がぞろぞろとやってきた。その中には、もちろん栗本加奈子もいる。


「あ、丁度、仮谷っちの番じゃん。タイミングよかったかも」


 栗本加奈子が来てそうそうに余計な発言をすると、グラウンドの上へお尻を下ろしながら他の女子と一緒に見学を開始する。


「仮谷君って、凄いんでしょ」


「そうそう。野球部にもスカウトされて入ったしね。本人はシャイだから、なかなか練習にこないけど」


 クラスメートなのは知っているものの、名前もあまり覚えてない女子と栗本加奈子が会話をする。


 同性には人望があるのか、栗本加奈子の周囲にはあっという間に人だかりができる。話題の中心は淳吾という、男にとって夢みたいな展開なのだが、実際に異性から人気が高いわけでないのが物悲しい。


 それでも美人な女先輩と付き合っているからか、淳吾に興味を持つ女子はそれなりにいるみたいだった。教室でたまに話しかけられたりするのが、その証拠だ。


 恰好の悪い姿は見せたくないなと思いながら打席に入る。授業で用意されている金属バットを持ち、バッティングセンター通いで完成しつつある構えをする。


 プロ野球の試合をテレビで観戦することで、各選手の打撃フォームを見られた。ひとつずつ真似して、しっくりくるのを参考にした。


 それが現在、淳吾が採用しているオープンスタンスだった。打席で前に出る左足を外側へ移動させ、体を投手へ向けるような形にする。何種類かバッティングセンターでも試して、これが1番バットを振りやすかった。


 途中でまた変えるかもしれないが、とりあえずはこの形で落ち着いている。あとはどこでタイミングをとるかだけだった。


 投手を務める男子の足が上がり、下ろした直後に淳吾は自分の打撃動作をスタートさせる。足が上がりきった頃にピッチャーの利き手が見えたので、足を下ろしてスイングの準備に入る。


 いつでもバットを振れる形になったところで、適度なスピードで軟式球が向かってくる。元野球部でもない男性が、体育の授業で変化球を投げてくるとは思えないので、最初からストレート以外は頭に入っていなかった。


 他の男子に投げていた球よりもずっと速かったけれど、時速140キロのケージに入ってるつもりで打席に立ったのが功を奏した。


 甲高い金属音が青く澄んでいる大空に響き、特大ホームランとはならなかったが、痛烈な打球が投手の頭を飛び越えて中翼手の前に落ちた。


 淳吾の打ったセンター前ヒットに、グラウンドのすぐ側で見学している女性陣がワっと盛り上がる。


「さっきの球って、結構速くなかった?」


「だから、仮谷っちは凄いんだって。本人は頑なに野球部の練習に来てくれないけど」


 淳吾が野球部の練習に参加しないのがよほど不満なのか、友人女性と会話をしながら栗本加奈子は唇を尖らせた。


   *


「残念だよね。試合とかに出て活躍したら、女性ファン増えそうなのに」


 ファーストベース上に立ちながら、聞こえてくる女性陣の会話に耳を澄ませる。恋人がいる立場であろうとも、異性にキャーキャー言われるのは悪くなかった。


 やはり自分には野球の才能があるのではないか。そんなふうな錯覚をしてしまうあたりは、まだまだ淳吾のお調子者の血が薄まってない証拠だった。


「相変わらず、凄いな」


 一塁を守っているクラスメートの男子に、声をかけられる。


「何が?」


「何がって、仮谷のバッティングだよ。ピッチャーやってる奴、中学の同級生なんだけど、ムキになって全力で投げたのに」


 他の打者には山なりのボールを放っていたのに、確かに淳吾の時だけはそうしたスローボールじゃなかった。


「仮谷の彼女さんにひと目惚れしてたらしくてさ、せめて授業では負けたくないとピッチャーを志願したんだよ」


 苦笑してるあたり、この男子は投手をしている人間を何が何でも応援しようというスタンスではないみたいだった。


「でも結局は打たれて、次に狙ってた女性が仮谷を恰好いいなんて言ってる始末だ」


「……なんか、悪いな」


「いや、仮谷のせいじゃないだろ。でもさ、何でお前、野球部に入らないの?」


「野球部には所属してるんだよ。正確には、させられただけどな。練習や試合には参加しなくていい幽霊部員みたいな扱いさ」


「そうだったのか。でも、逆にわからなくなったよ」


 そう言ってクラスメートの男が首を捻る。


「仮谷ほどの実力があったら、野球部で試合に出た方がモテるだろ」


「かもしれないけど、恋人がいるのにモテても仕方ないって」


 それに、淳吾の実態をわかってしまったら、恰好いいと言ってくれてる女子は間違いなく離れていく。適当な言葉で誤魔化してはみたけれど、それが真実だ。


 説明する必要はないので、彼女ひと筋のモテ男を気取ってみた。普通なら恥ずかしいと思うのかもしれないが、お調子者の淳吾は妙に得意げな気持ちになる。


 ファーストを守っているクラスメートの言葉のとおり、淳吾が野球部で活躍できれば、今とは比べものにならない量の黄色い歓声を浴びることができる。


 そうした人生もいいかもしれないと考えたからこそ、懸命にバッティングセンターに通ったりしているのだ。動機は不純極まりないが、せっかくやる気が出てるんだからいいじゃないかと自分自身を心の中で擁護する。


 結局、この回の淳吾は一塁に突っ立ったままだった。攻撃が終わり守りになっても打球は飛んでこず、再び攻撃へという展開が繰り返される。


 2度目となる淳吾が打席に入ると、見学中の女性陣から軽く「キャー」という歓声が上がった。人生で初めてとなる経験に、無意識に頬が緩みそうになる。


 締まりのない顔は恰好悪いとわかってるので、あえてキリっとしてみる。これを世間一般では、恰好をつけているというはずだ。


 マウンドにいるピッチャーは先ほどと同じ男子。今度こそ打たせないといった感じが、全身から滲み出ている。


 タイミングの取り方はさっきので合ってたし、今回も同じでいってみよう。相手の足の動きに合わせて淳吾も動き、バッティング動作に入る。


 その直後だった。ピッチャーの投げた軟式球が、真っ直ぐに淳吾の体へ向かってきたのである。


 危ないと頭では理解しているのに、足がうまく動かない。打撃動作に入っているため、ジャンプして後方に避けるのも難しい。


 結果的に投手側へお尻を向ける程度の回避策しかできず、淳吾は臀部にデッドボールを受けて一塁へ歩く形になった。

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