第28話 とにかく……やれることをやろう

 タイミングを早めにとっても、噛み合わないとスイングをするのも難しくなる。それこそ着払いなんて言われる、ボールがホームベースを通り過ぎてからバットを振るなんて事態になってしまう。


 かといって早くとりすぎると、今度はボールを待ちきれなくなる。ストレートだけしかこないとわかっててこの有様なのだから、変化球を混ぜられたりするとお手上げだった。


「先の心配をしすぎても、気が滅入るだけだな。とにかく、140キロの真っ直ぐを高確率で打ち返せるようになろう」


 今日の予算が許す限り、140キロのケージで黙々とバットを振り続ける。やがてバッティングセンターが本日の営業を終える頃には、淳吾の全身は汗まみれになっていた。


 バッティングセンターまでランニングしてきた当初よりも汗をかき、シャツどころかパンツまでびしょびしょだ。


 他のお客さんがいないのをいいことに、一体どのくらい連続で使ってたんだと呆れ返るほどだった。


 この程度はしないと、とても140キロの直球を打ち返せるようにはなれない。現に今回だって、芯で捉えられたのは数球もなかった。


「今日はこのくらいにしておくか。手も痛いし、何より営業が終わるみたいだしな……」


 顔馴染みになりつつある受付の老人に頭を下げ、淳吾はバッティングセンターをあとにする。すでにくたくただけど、これから自宅まで走って帰らなければならない。


 疲労が溜まっているとサボりたくなるけれど、ここでタクシーなんかを利用したら、今までの努力の意味がなくなる。何より1度でも楽を覚えると、次から甘えるようになってしまう。


 怪我をしてる場合などを除けば、辛い時こそ練習をするのが1番だと淳吾は勝手に判断していた。何より、多少手に豆ができたくらいで休んでいては、きちんとした実力が身につくはずもない。


 だからといって、バッティングセンターが営業終了しようとしてるのに粘っても迷惑なだけだ。まずはランニングで帰宅し、その後に色々と考えればいい。


 息を切らしながら通いなれつつある道路を走り、自宅へ到着した頃には足があまり上がらなくなっていた。


「風呂に入って、早く寝るか……他にやることもないしな」


 身体を休めるのも大事な練習になるし、何より素振りなどをしたくても淳吾はバットを持っていない。やりたくてもできないのだ。


 ならば休むしかない。明日も普通に学園へ行くための体力を回復させる。疲れた体でお風呂を沸かし、さっぱりしてから軽食をとって録画していたプロ野球の試合を見る。


 専門のチャンネルを契約してれば話は別だが、淳吾にそんなお金はないのでたまに地上波で放映されるのをかかさず録画していた。


 全国的に人気のある球団の試合しか放映されないが、たまに相手チームとして贔屓の球団が出てくれば楽しみに見る。


 私立群雲学園の練習試合を実際にグラウンドから観戦するのと、テレビ中継を見るのでは感想がだいぶ違ってくる。


 レベルは圧倒的にプロが高いのは火を見るより明らかだが、臨場感はグラウンドにいる方が味わえる。


「テレビで見ると……簡単に打てそうなのにな」


 現在マウンドに上がってる選手が投じた球速は138キロ。淳吾がバッティングセンターで打っていたのとほぼ変わらない。


 言葉にしたとおり、テレビで観戦してる分には楽に打てそうだと思える。けれど実際に打席へ立てば、感想ほど簡単でないのがすぐにわかる。


 打席に立つ野手の大半が小刻みに足を動かしてタイミングをとっており、それを確認した淳吾は自分の仮説は間違ってなかったと胸を張る。


 しかしそうした動作がわかったところで、きちんと自分のスイングができなければ意味がない。やはり、まだまだ練習が必要という結論になる。


「とにかく……やれることをやろう。どっちにしても、恥はかきそうだし……」


 散々皆に評価されておきながら、実はできませんでしたでも周囲の淳吾を見る目は変わる。勝手に誤解されたのだから責任はないはずなのだが、世間というものは意外と残酷なのだ。


   *


 翌朝の日曜日は昼の内に体力を回復させて、夜になるのを待ってからいつもと同じ時間にバッティングセンターへ向かった。その方が知り合いに会う確率が低いと判断したからだ。


 日曜日もひたすら140キロのケージでバットを振り込んだけれど、思うような成果を上げられずに終わった。


 そして月曜日の朝。淳吾は欠伸をしながら学校へ向かう準備を整えていた。するとインターホンが鳴ったので「はい」と応答した。


「おはよう。一緒に登校しましょう」


 恋人付き合いをしている土原玲菜が、わざわざ迎えに来てくれたのだ。身支度を終えた淳吾は了承の返事をして、玄関から外へ出る。


「おはよう」


 昨夜の疲労が残ってるのもあり、つい友人へ接するような口調で挨拶をしてしまった。けれど相手女性は嫌がるそぶりを見せるどころか、嬉しそうに「おはよう」と返してくれた。


 若干捉えどころのない女性かもしれないが、決して喜怒哀楽が欠如してるわけではない。ただ少し、人とズレた感性を持っているだけだ。それは土原玲菜の個性となり、淳吾にとっては決して不快なものではなかった。


「どうしたの?」


 土曜日に練習試合を一緒に見学した際も、砕けた言葉遣いをされて嬉しいと言ってくれたのを覚えていたので、あえて淳吾はそのままの口調で会話をしようとした。


 もちろん土原玲菜は「敬語を使って」なんて言ったりしない。けれど、どこか訝しげな表情を浮かべていた。だからこそ、淳吾は先ほどの問いかけをしたのだ。


「……凄く、疲れてる?」


「え? あ、ああ……つい、夜更かしをしてしまって寝不足なんだ」


 帰ってきてわりとすぐに眠ったので、正確には夜更かしになってないはずだ。むしろ一般の高校生の平均と比べると、睡眠時間が多い方なのではないか。


 けれど素直に白状すれば、どうしてバッティングセンターに通ってるのという質問が来るに決まっている。誰にも知られずに練習を重ね、どうせなら本当に格好いい男になってやろうと頑張ってるのだから、答えられるわけがない。


 結論としてゲームをやって夜更かしをしたことになったけれど、土原玲菜は淳吾を疑ったり、咎めたりはしなかった。


「ゲームもいいけれど、きちんと睡眠をとるようにしないと、肉体が疲労を排除しきれないわ」


 注意というよりは、心配してるといったニュアンスだった。母親以外の女性からそんな台詞をかけられた経験がないので、それだけで淳吾は舞い上がりそうになってしまう。


 女性に対する免疫が低いのは重々承知しているものの、土原玲菜との交際を経て少しはマシになってると思っていた。けれど実際はまだまだシャイというか、堂々としきれない一面が残っていた。


 人間、本質的な部分はそう簡単に変えられない。ゆえに淳吾は今も、お調子者の自分に苦労している。他人など関係ないというスタンスを貫けば、わざわざ努力して野球のレベルを上達させる必要もない。


 人気者となった自分自身を失いたくないという願望が根底にあるからこそ、淳吾は人知れず苦労する道を選んだ。隣を歩く女性に、心からの笑顔を浮かべさせてみせる。


 そこまで考えて、淳吾は心の中で「あれ?」となった。人に聞かれれば最低と言われるだろうが、淳吾が土原玲菜との交際を求めた理由は相手女性が美人だったからだ。顔を見ればドキっとはしたが、恋焦がれるような強い想いはなかった。


 にもかかわらず、いつの間にか淳吾は土原玲菜に満面の笑みを浮かべてもらいたいなんて考えていた。不思議な感情に心の中で小首を傾げながら、通っている高校へ遅刻しないように足だけは動かし続けた。


   *


「はい、これ」


 考え事をして自分の世界に入っていた淳吾を現実へ引き戻したのは、隣を歩いている土原玲菜の声だった。


 慌てて恋人付き合いをしている女性を見ると、2本の細い腕が淳吾へ差し出されていた。手の中にあるのは、小さな箱だった。


 開けてと言うので従ってみると、中にはおにぎりが2個とたくあんが2切れだった。淳吾が箱ごと受け取ったあと、土原玲菜は背負っていたリュックの中から魔法瓶を取り出した。


 中には温かめのほうじ茶が入っているらしく、そちらも淳吾のために用意してくれたものらしかった。


「この間、朝のおにぎりが欲しいって言ってたから……」


 そう言えばと思い出した淳吾は、すぐに心優しい恋人女性へ「ありがとう」とお礼を言った。


 おにぎりが包まれているラップを開けると、もわっとした湯気と一緒になんとも美味しそうなお米の香りが飛び出してきた。鼻腔をくすぐられるほどに食欲が増し、はしたなくも道端でお腹をぐうっと鳴らしそうになる。


「今日は少し早めに迎えに行ったから、まだ余裕があるわ」


「え? そ、そうなんだ……」


「歩きながらというのは、やはり少し行儀が悪いから、座れる場所で落ち着いて食べてほしいの」


 そう言って土原玲菜が淳吾を案内したのは、通学路の途中にある小さな公園だった。利用者はあまり多くないらしく、朝だというのに公園内には誰もいない。


 おかげで誰に気兼ねをする必要もなく、公園内にひとつだけある小さなベンチに土原玲菜と並んで座ることができた。


「さあ、食べて」


 ベンチ自体が小さいのもあって、隣に座った土原玲菜との距離は普段よりもずっと近かった。シャンプーの心地よい香りが強く届いてきて、心臓がドキドキする。


 どうしたのと小首を傾げられたりすると、ますます淳吾の顔は熱を持ってくる。照れてるのを悟られると恥ずかしいので、誤魔化すべくおにぎりを食べるのに集中する。


 最初のひと口を大きく食べ、口内に広がってくる程よい塩味とふくよかな感触に頬が蕩けそうになる。母親の作ってくれたおにぎりとは、また違う感動がそこにはあった。


 昼食用に作ってもらったお弁当は何度も食べた経験があるものの、おにぎりというのは意外にも初めてのように思える。今現在の感動が強すぎて思い違いをしてるかもしれないが、とにかく土原玲菜手作りのおにぎりは美味だった。


 きちんと三角に作られているおにぎりの1個目をあっという間に食べ、側に用意されているたくあんもひとつだけ摘む。塩味がきいていながら、甘さもきちんと含まれている独特な味がこれまた、たまらない。


 お腹が空いていたのもあって、慌てるように淳吾は2つ目のおにぎりに手を伸ばす。口の中にはまだたくあんも残っているので、ひょっとしたら他者からは頬袋にひまわりの種を詰め込むハムスターみたいに見えてるかもしれない。


 それでも構わないのでとにかく食欲を満たそうとしていたら、お約束のようにむせてしまった。なんとか口の中のおにぎりを吹き出さないように頑張ってると、少しだけ苦笑しながら土原玲菜がほうじ茶を差し出してくれた。


「熱いかもしれないから、気をつけてね」


 口の中をおにぎりでもごもごさせながらお礼を言いつつ、淳吾は相手女性の注意を忘れて勢いよく飲み込む。つっかえていたのは無事に、胃袋へほうじ茶と一緒に落ちていったが、今度は「熱っ!」と叫ぶはめになってしまった。


 だから言ったのにと微笑む土原玲菜に見守られながら、淳吾は格好悪さ抜群で作ってきてもらったおにぎりを食べ終える。


「ごちそうさま。凄く美味しかった」


「そう。喜んでもらえたようで、よかった」


 朝の爽やかな日差しが降り注ぐ緑豊かな公園で、美人な彼女と仲良く公園のベンチに2人で座っている。抜群すぎるシチュエーションが心地よすぎて、危うく淳吾は学園へ行かなければならないのを忘れるところだった。

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