第12話 はい、あーん
なし崩し的に恋人ができた。顔立ちは好みなだけに、嬉しい気持ちもあるのだが、淳吾は素直に喜べなかった。
告白されたのかどうかもよくわからない状況で、気がつけば恋人付き合いをするようになった。
女性の外見だけでウキウキしていた淳吾への報いなのかもしれないが、よもやこのような展開になるとは夢にも思っていなかった。
別れを告げたところで、美貌の女先輩に「どうして?」と尋ねられるのは明白だった。
あれこれと理由を言ったとしても、あっさり「わかったわ」と応じてから、そこを直せばいいのねと続けてきそうだ。
なにせ昨日、淳吾を心の底から好きになればいいのねと言ってきたくらいなのだ。
休み時間のたびに栗本加奈子らにからかわれながら、私立群雲学園での時間は淡々と経過していく。
もとより勉学が大得意でないとはいえ、いつにも増して授業へ集中できなかった。それもこれも、訪れる昼休みについて色々と考えていたためだ。
だからといって土原玲菜のせいにするつもりはない。あくまでも、淳吾個人の問題なのだ。
どうしても野球部が嫌なのであれば、最初から土原玲菜をおもいきり突き放しておけば済む話。それをしなかったのだから、原因は淳吾にある。
野球部に所属すれば、土原玲菜と付き合えるのかと思ってしまったのもある。その後に好意はないと聞かされたので、かなりへこんでしまったが。
「仮谷っち。彼女さんが迎えに来てるよ」
昼休みになった直後、おせっかいな栗本加奈子が、わざわざ土原玲菜の来訪を教えてくれた。
おかげで周囲のクラスメート、とりわけ男子連中から妬まれるはめになる。
高校に入学したばかりで彼女持ちが少ない状況で、手作りのお弁当を持ってきてくれる綺麗な先輩と親密にしてるのだ。激しいやっかみが発生するのも当然だった。
「今日も中庭でいい?」
朝に受け取っていた紙袋を持って、廊下で待っててくれた土原玲菜に歩み寄ると、昼食をとる場所の確認をされる。
昨日も行ったけれど、なかなかに良い場所なので異論はなかった。
「今日も晴れてるから、気持ちよさそうだね」
「そうね」
こちらの言葉へ短めに応じたあと、ひとり先に歩きだすのは、これまでと何ら変わらない反応だった。
しかし今日に限っては、ここからの展開が少しだけ違っていた。
「今の対応は、素っ気無かったのかしら」
途中で足を止めたかと思ったら、いきなり振り向いた土原玲菜が、そんなことを聞いてきたのだ。
ため息をつきかけていた淳吾はすぐに反応できず、しどろもどろに否定的な台詞を返した。
「……そう。それならよかったわ」
何がよかったのかと聞くわけにもいかず、今度もまた曖昧に頷いて淳吾は土原玲菜の背中を追いかける。
もしかしたら、淳吾を気遣ってくれているのかもしれない。そう考えると、なんだか心が温かくなった。
少しだけ晴れやかになった心の背中を押すように、春の優しい日差しが頭上から降り注いでくる。
爽やかな空気を肺一杯に吸い込み、軽く伸びをすると、身体が軽くなったように感じられた。
「今日はベンチが使われてるみたいね。嫌でなければ、芝生に座りましょうか?」
「俺は構いませんけど、スカートが汚れないですか」
「大丈夫。ちゃんと敷くものは持ってるから」
手にしていたバッグの中から、大きめのハンカチを取り出して芝生の上にそっと置く。
淳吾の分も用意してくれようとしたが、自分は大丈夫だからと辞退して、芝生に直接腰を下ろした。
それを見届けてから、土原玲菜も自分の敷いたハンカチの上へ静かにお尻を乗せた。
淳吾は貰っていた紙袋から昼食用の弁当箱を取り出すと、その上に乗せてテーブル代わりにする。
一方の土原玲菜は自分の膝の上に弁当箱を乗せ、一緒に昼食をとる準備を完了させる。
*
中庭には他のカップルもいるのだが、淳吾たちは到着する前から何やら注目を集めていた。
淳吾たち新一年生が入学する前から、群雲学園で土原玲菜は有名な存在みたいだった。
類稀な美貌はもとより、どんなイケメン男子が言い寄っても、まったく相手にしてこなかったらしい。
そんな美女が、あまり冴えないと自覚している淳吾と、昨日の放課後にデートをしたのだ。
しかも恋人関係になっていると聞いて、その場にいる誰もが驚いて友人や知人にメールなどの方法で報告していた。
おかげで今朝にはすっかり有名人みたいになっており、後ろ指を差される回数もぐっと増えた。
優越感もあるが、それよりも妙なプレッシャーを感じる方が多かった。
「あの、口を開いてもらえるかしら」
「え? 口?」
わけがわからなかったが、頼まれたので一応淳吾は口を開けてみた。
すると白木の箸に挟まれた卵焼きが、すっと淳吾の口内へ入ってきた。
「はい、あーん」
目を丸くしている淳吾の耳に、目の前にいる女先輩が発したと思われる甘い声が届いてきた。
一気にザワつく中庭で、ひとり冷静なままの土原玲菜が何故驚いているのと言わんばかりの顔をした。
「美味しくなかった?」
「あ、いや……美味しかったですけど」
もぐもぐと噛んだ卵焼きを飲み込んでから、とりあえず味の感想を伝えたが、問題は別の部分にある。
どうして先ほどのような行動を、土原玲菜がとったのかである。
気になったので単刀直入に尋ねてみると、土原玲菜は「恋人同士だから」という理由を教えてくれた。
正確に真意を把握できなかった淳吾が首を捻っていると、合わせるように土原玲菜も小首を傾げた。
「好き合っている恋人同士は、ああやってご飯を食べさせ合うのでしょう?」
「……そうなんですか?」
「違うの?」
表情はいつもと大差ないが、声の感じは少し自信がなさそうだった。
「恋人同士というものがわからないから、昨日の夜に弟へ聞いてみたのだけど……」
なるほど。ようやく淳吾は合点がいった。
弟の土原玲二が恋人同士定番のシチュエーションを、姉である土原玲菜へ教えたのだ。
お弁当のおかずを食べさせてもらえたのはもちろん嬉しいが、いささか古いような感じがしないでもない。
「弟さんは、恋愛経験が豊富なんですか?」
「誰かと交際をした経験はなかったと思うわ」
そんな弟に恋愛事の指南を頼んだのだから、きっと彼女には他に頼るべき人間がいなかったのだろう。
実際のところ、淳吾も似たような状況にある。彼女を喜ばせろと言われても、どうしたらいいかよくわからない。
もっとも土原玲菜の場合は、淳吾が野球をやってるだけで満足するのだろうが。
ここまでしてくれてるのだから、単純に野球をすればいいだけなら喜んでやっている。
しかし淳吾には、同時に活躍の二文字も求められる。それが何よりのネックだった。
「ところで……他にも何か聞いたの?」
「ええ。恋人同士なら、他人行儀な言葉遣いはしないものらしいわ。それと、名前で呼び合うの。だから、私のことは玲菜でいいわ」
玲菜でいいと言われても、すぐには順応できない。照れまくりの淳吾とは対象的に、あくまでも土原玲菜はポーカーフェイスだった。
「遠慮しなくても大丈夫。私も淳吾って呼ぶから」
「は、はい……」
「他人行儀な言葉遣いも駄目。普段どおりでいいの。私たちは心から好き合っている恋人同士だから」
*
美人に「好き」という単語を使われれば、大半の男性が喜ぶ。もちろん、淳吾もその中のひとりだ。
けれど相手女性の目的は、あくまでも淳吾に野球部へ所属させるためだというのも理解している。
そして厳密にいえば、相手女性の目的はすでに達成されていた。
「でも、いいんですか……」
芝生の上に座っているはずなのに、緊張で足がガクガク震える。手汗の量も尋常じゃなかった。
きっと立ち話をしていたら、無様に地面へ尻もちをついていたに違いない。
こちらを見つめながら、次の言葉を待っている土原玲菜に、淳吾は心に溜まっているもやもやをすべてぶつける。
「俺はもう形だけでも、野球部へ入部させられました。目的は果たしたんだから、恋人のふりをする必要はないでしょ」
多少キツめの口調になってしまったかもしれないが、これは淳吾が今現在抱いている偽りのない心情だった。
夏とは違ってまだ優しい真昼の太陽を浴びている土原玲菜の瞳が、驚くくらいに綺麗に輝いて見えた。
そこに迷いはまったくなく、真正面から受け止めた淳吾の質問に堂々と答えてくれる。
「最初から、ふりをするつもりはないわ。私は、貴方の……淳吾の恋人になる」
当たり前のように宣言しているが、それこそが淳吾の理解できない最大の謎だった。
「簡単に言わないでくださいよ。恋人になったら、その……色々なことをするかもしれないでしょ。そんなの、好きでもない人間にできますか?」
「できるわ。それにひとつ、誤解がある。私は淳吾を好きよ」
「人の気持ちはそんなに簡単じゃない!」
思わず声を荒げてしまう。穏やかな中庭の雰囲気にそぐわなかったので、悪戯に注目を集めるはめになった。
けれどそんな状況にも気がつかないほど、淳吾も頭に血を上らせていた。
確かに軽い気持ちで恋人を求めたかもしれない。しかし、実際に異性と付き合うのなら、本当に好き合ってる人がいいというのが本音だった。
だからこそ、昨日は好きじゃないと言っていたくせに、あっさり前言を翻した土原玲菜に腹を立てた。
調子に乗りやすい人間ではあるけれど、決して物事を真面目に考えられないわけじゃなかった。単純におだてられるのに弱いだけだ。
「……わかっているわ」
だったらどうしてと聞くより先に、悲しそうな、それでいて申し訳なさそうな美貌の女先輩が言葉を続けた。
「淳吾の言うとおりよ。でも……努力はできる」
「努力って……」
「淳吾を好きになる努力。そして、最後には必ず本当に好きになるわ」
予言か、それとも宣言か。ただひとつ確かなのは、淳吾を見つめる土原玲菜の顔つきが真剣そのものだという点だ。
決して冗談を言ってるわけではなく、本気で淳吾を好きになるつもりだと言葉で教えてくれたのである。
浮かれやすい性格が災いして、胸の鼓動が止まらなくなる。本気で土原玲菜に恋をしたのではないかと錯覚しそうなほどだ。
「もかして……迷惑だった?」
これまでの決意に満ちた表情が一変して、いきなり捨てられた子猫みたいな心細げな顔になる。
その姿がなんとも可愛らしくて、思わず「好きだ」と突拍子もない告白をしてしまいそうだった。
「め、迷惑なんかじゃないよ」
「そう……よかった」
相手女性に釣られて淳吾も「よかった」と言いそうになったが、まだ問題点が残っている。それを解決しなければ、とてもじゃないが先へ進めそうになかった。
「他にも質問……いいですか。どうして、そんなに一生懸命になるんです? それに、本当に好きな男性が現れたらどうするんですか」
「それはないわ。だって、私は淳吾を好きになるもの」
「え……あ……いや、それは……」
「一生懸命になるのは……淳吾はまた怒るかもしれないけど、弟に一度でいいから本気で野球をやらせてあげたいの」
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