空を舞う白球

鳴沢 巧

第1話 お前、凄いな

 パカーンと実に爽快な音が、雲ひとつない青空へ響き渡る。この日、仮谷淳吾は、人生において本物のマグレというものを初めて経験した。


 独特の金属音の名残を心地よく聞きながら、空を舞う白球を眺める。18.44メートル先のマウンドで、体操着姿の少年が呆然としている。


 仮谷淳吾の両手には、しっかりと金属バットが握られている。バッターボックスにある靴が、先ほどまでの衝撃を足元に伝えて、土埃を上げる。


 増える土埃の量に反比例するように、グラウンドにいる数多くの体操着姿の少年たちから言葉が消える。


 ならば負けじと私も消えよう。本当にそう言ったわけではないが、昼空を流れる物珍しい星だったかのように、白球もまた姿を消した。


 数秒後に起こる歓声。アイドルグループのライブ会場に比べれば、些細な熱気に過ぎないが、それでも淳吾には熱すぎるくらいだった。


 派手なガッツポーズをするわけでもなく、淡々とグラウンドを一周する。高等学校の体育授業で発生した、まさかのホームランだった。


 ……ああ、驚いた。表情こそ平然としているが、心の中では相当な動揺があった。運動は別に不得意ではないけれど、授業とはいえ、野球でホームランを打ったのは初めてだった。


 中学校の時は陸上部に所属していたが、輝かしい成績を収めたわけでもない。ごくごく普通の部類に入る。


「お前、凄いな」


 同じチームの男子生徒が、ホームベースを踏んだばかりの淳吾に話しかけてくる。


 今は体育の授業中で、クラスメートの男子学生たちが二チームに分かれて、野球の試合をしている最中だった。


 まだまだ全員の顔と名前は一致しない。それぞれが、新しい学校へ入学して間もないからだ。


 私立群雲学園。それが淳吾たちが通っている学園の名前だ。敷地面積は広く、グラウンドも四面ある。さらには別の場所に、野球部専用のグラウンドまで設置されている。


 土地の広さを有利に活かし、都会の学校よりも活動できる面積だけは充実している。設備に関しては知らない。淳吾は、高校では帰宅部で通そうと考えているので、興味がなかったのだ。


 なにも面倒だからというわけではなく、部活動よりもアルバイトを優先したかった。それは淳吾の生活環境にも影響している。


 現在の淳吾は高校生でありながら、ひとり暮らしをしている。地元を離れた高校に合格したのもあり、これを機に一人前の社会人となるための準備をしたい。そう言って、両親を説得した。


 地元を離れたのは虐めが原因とかではなく、単純にパンフレットで見たこの学園が気に入ったからだ。数年前に建てられたばかりの校舎は新しく、周辺地域の治安の良さも魅力的だった。


 結果、淳吾は見事に合格し、春からひとり暮らしを始めたのである。高校生ということで、アパートを借りるのは苦労したが、なんとか学校近くに良い物件を見つけられた。


 高校には寮も一応用意されているみたいだが、門限があれば厄介だ。こちらも両親を説得の末にアパートを借りた。


 高校生のひとり暮らしは何かと大変だが、なんとかこなしながら、今日に至っている。そして現在は、グラウンドの二面を使って体育の授業で野球をしていた。


 仲の良い友人はまだいないけれど、教室で話をする人間はちらほら増えてきた。夢にまで見た女子との青春ライフは実現していないが、高校生活はほぼ丸々三年も残っている。


 身長は175cm。体重は65kg。視力は1.0で眼鏡はかけていない。髪は少し眺めで、前髪を薄めに垂らしている。イケメンとまでは言えないかもしれないが、別に恰好悪くもない。


 ざっくり言ってしまえば、すべてが標準的。それが淳吾の自己評価だった。


   *


 体育の授業が終わっても、クラスの話題は淳吾が打った特大のホームランでもちきりだった。


 褒められるのは悪い気がしないものの、別に野球が得意でもないので、戸惑いの方が大きかった。


 男子が会話をしているところに、女子も混ざってくる。そんなに凄かったのと、淳吾の武勇伝を聞こうとするのだ。


「そんな大げさなものじゃないよ」


「あ、もしかして謙遜してるの。実は大物だったりして」


 調子の良さそうな女学生が、本心からの淳吾の台詞を歪んで捉える。


 自分で大物なんて言ったつもりは何ひとつないのに、いつの間にかプロ野球選手を狙えるかもしれないなんて話まででてきている。


 本来なら恐縮して当然なのだが、周囲――とりわけ女子からチヤホヤされれば、いやが上にも気分は盛り上がる。


 淳吾にひっきりなしに話しかけてくれている女性は、目を奪われるほどの美人ではなかったが、愛嬌のある笑顔が魅力的だった。


 何が楽しいのかと思えるくらいによく笑うのだが、決して不快ではない。むしろ、こちらまで楽しい気分にしてくれる。


 入学してから今までは意識して猫をかぶっていたが、淳吾は元来、調子に乗りやすいタイプだった。


 段々と気分がよくなってくれば、悪気なく大口を叩く。中には嘘も紛れ込んでいるので、真実が露見すれば即座に危険になる。


 にもかかわらず、こうした性格は完全に治らない。今まで何回も後悔しているのに、懲りずにやらかしてしまうのだ。


「部活には入ってなかったけど、地元のチームでやってたとか?」


「いや、本当に野球はやってなかったんだよ。部活も陸上だったしね」


 中学生時代に、陸上部へ所属していたのは本当だった。基本的に走るのが好きだったので、迷いなく入部した。


 けれど走るのが好きなのと、足が速いのは必ずしも一致しない。現に淳吾も、中学時代の陸上部では輝かしい成績を残せなかった。


 ここでも標準的という言葉が登場する。学校では割と速い方でも、大会になれば淳吾より凄い選手がたくさんいる。


 結果として、淳吾は参加した大会すべてで、ほぼ真ん中の順位になった。


 当時を思い出してひとり苦笑する淳吾に、会話を続けている女子が高校でも陸上部に入るのか聞いてくる。


「部活に入るつもりはないよ。高校ではアルバイトを主にしようと思ってるんでね」


「そうなんだ。野球も上手いのに、勿体ないね」


 いつから自分は野球が上手くなったのだろう。心の中で首を傾げながらも、あえて淳吾は否定しないでおく。


 何か計算があったわけではなく、単純にそう思われてる方が恰好良いと判断したからだ。


 アホだと思われるかもしれないが、女子の前で恰好つけたくなるのは、高校生としては当たり前だと胸を張れる。


「仕方ないよ。ひとり暮らしもしてるしね」


「そうなの!?」


 目の前にいる少女が、野球や部活の話よりも、ひとり暮らしという単語に食いついてきた。


 淳吾の席を中心に輪を作っているクラスメートたちも、にわかにザワめきだす。


「この高校が気に入って入学できたはいいけど、そのせいで両親が仕事を辞めるわけにもいかないからね。単身赴任みたいなもん?」


 そう言って笑うと、まだ名前も聞いてない女子が「羨ましい」という感想を口にした。


「ひとり暮らしなら、やりたい放題じゃん」


「そうでもないよ。外食だとお金がかかるから自炊する必要があるし、掃除や洗濯も全部ひとりでやらないといけないからね」


 淳吾がひとり暮らしをして、初めて気づけたのが母親の偉大さだった。


 パートで働いていながら、家のことをほぼひとりで全部やっていた。もちろん淳吾の世話も含めてだ。


 それがいかに大変か、身をもって実感した。今度帰省したら、感謝の念を込めて少しは優しくしてあげるつもりだった。


   *


 体育後の休み時間が終わり、次の授業を教室で受ける。これが終われば、昼休みになる。


 本当は朝に弁当を用意して持参すればいいのだろうが、そこまでの時間的余裕はない。とにかくひとり暮らしでの、自分のペースをつかむのが思いのほか大変だった。


 頭脳はさほど明晰でなくとも、授業についていけないほどではなかった。ミスター平均値と呼ばれようが、何事もほどほどが一番だ。


 しかし女性にはモテたい。だからこそ、ついうっかりと調子に乗ってみたりするのだ。


 授業が終わって昼休みになると、学生食堂に行く者や、弁当を持ってきている者同士で食事をしたりする。


 淳吾の昼食は、登校時に立ち寄ったコンビニで購入したおにぎりが二つと、ペットボトルのお茶がひとつだった。


 育ち盛りの高校生には物足りない量だが、先々のことを考えたら、こちらへ引越しする際に両親が持たせてくれたお金を無駄遣いするわけにはいかない。


 調子に乗りやすいくせに、慎重――というか、ビビリなのが自分の特徴だと淳吾は認識していた。


 昼休みにはなったものの、まだ一緒にお昼を食べるほど仲の良い友人はいない。さて、どうするかと考えていると、淳吾の前にひとりの女生徒がやってきた。


「仮谷っちもお弁当なんだ。じゃ、一緒に食べよっか」


 短く綺麗に揃えられている髪の毛を揺らしながら、淳吾の席の前で楽しそうに笑っているのは、体育の授業後の休み時間に話していた女子だった。


 クラスが決まった時にホームルームの中で、ひとりひとり自己紹介はしたが、それだけで全員の名前と顔を一致させられたら苦労はなかった。


 こちらの返事を聞くより先に、空いていた前の席に腰を下ろす。なし崩し的に、淳吾はこの女性と昼食を一緒にすることになった。


 もっとも嫌なわけではなく、むしろ自分に気があるのではないかと胸を高鳴らせている。


 相手がどんな女性かは不明だが、告白されたら受けてみてもいいかな、などと頭の中で幾つものシミュレーションを重ねる。


「あれ、仮谷っちのお昼ってそれだけ?」


 淳吾の机に自分の弁当箱を置いた女子が、同じく机の上に出現した二つのおにぎりを見て目を丸くする。


「弁当でも作ってこれればいいんだけどね。時間がないからこれだけだよ」


「そうなんだ。じゃあ、アタシのおかずを少し分けてあげるよ」


 弁当箱を開きながら、目の前に座っている女子がありがたい言葉をプレゼントしてくれる。


「あ、ありがとう。ええと、君は……」


「えー、酷い、仮谷っち。もしかして、アタシの名前、覚えてないのー?」


 ヤバいと内心で冷や汗をかきながら、とりあえずはごめんと謝罪する。


「アハハ。そんな怒ってないって。ちょっとからかっただけー」


 やっぱり楽しそうにケタケタ笑いながら、女性は自己紹介してくれる。


「アタシは栗本加奈子っていうの。いい名前でしょ」


「そうだね。俺は……って、もう知ってるのか」


「うん。仮谷っちでしょ」


「まあ、そうなんだけど……仮谷っち?」


 先ほどから言われて気にはなっていたが、なんとなくそのまま放置していた。


 栗本加奈子と名乗った女子とは面識がほとんどなかったので、聞き辛かったというのもある。


「あだ名よ、あだ名。よくない? 仮谷っち」


 なんとなく、拒否しても違うあだ名をつけられそうな気がした。


 中学時代は特にあだ名なんてなかったが、別段呼ばれたい名称があるわけでもない。淳吾は女子のあだ名をとりあえず受け入れる。


「呼びやすい方でいいよ」


「じゃあ、仮谷っちで決定ね」


 そう言って少女はまた、楽しそうに笑った。

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