第十話 夢喰い

 



 その体躯は、形容するならば白熊。半透明の体は透けており、キラキラと細かに輝いている。こちらからでも確認できるその生物の向こう側には、リリィの口にした『夜の泉』らしきものが広がっていた。暗き夜空に舞い散る星々。これが泉だとは俄に信じ難い。しかし、どんなに現実離れしていようとも、これが本物だということは変えようもない事実である。


 想像通りの美しいそれに、漏れるのは感嘆の声。肩を僅かに撫で下ろしながら、私はその言葉を口にする。


「おお、なんと、美しい……」


  やはり、ここまで来て正解だった。

  今までの疲労や苦労、それらを忘れさせてくれるほど、儚くも美しい、幻想的な光景。できることならばこの光景を切り取り、額縁に飾り観賞したいものだと、心の片隅で思う。


  感動。


 まさにその言葉が相応しい。今、私が抱いているこの気持ちを表すにはピッタリの言葉だ。

  幼子が新しいものを見つけた時のように己が目を輝かせる私の隣、どこからか双眼鏡を取り出したリリィは言った。


「目標(ターゲット)発見。泉の傍らで休息中。早々に殺れば時間はさほどかかりませんね」


「さすがは我が愛しきリリィだ。俺もその意見には大いに賛成だよ」


「……なぜ貴様らはそうやって私の感動をぶち壊すんだっ!!」


  何もかもが台無しである。


  嘴を大きく開け怒声を張り上げる私に、やかましいと言いたげに唇に指を当てる二人。息の揃ったその行動がまた苛立ちを生み、腸を煮えくり返らせてくれるのでたまったものではない。


  憤る私は一先ず、自分自身を落ち着かせるべく深呼吸を一つ。体に良いのか悪いのか正直分からない空気を吸って吐いて、それから改めて傍らにいるリリィを見下ろした。尚も食い入るように双眼鏡を覗いていた彼女は、私の視線に気づいたのか、顔を上げる。


「どうかしましたか?」


「あ、いや……」


  少し考え、口を開く。


「そういえば、あんなものをどう狩る気だ? お前は今手ぶらだろう?」


「舐めないでください。お弁当入りのバスケットならあります」


「腹は満たされようともそんなもので狩りはできんぞ」


  両の手で掲げられたバスケットを睨むように見る。リリィは残念そうに項垂れた。


「ああ、リリィ。そんなに落ち込まずとも大丈夫さ」


 そんなリリィを甘やかすように声をかけるのは、いけ好かない男――夜の支配人である。支配人は長い前髪を指先で弄びながら、『夢喰い』の様子を観察している。どんな些細な動きも見逃すまいと細められた瞳が、ひどく奇妙で恐ろしく思えた。


「狩りならば容易く行える。とりあえず奴を真っ二つにするところから始めようじゃあないか」


「おい待て物騒なことをするな」


「物騒とはこれ如何に。世は弱肉強食。弱いものはとっとと狩らねばなるまいよ」


 飄々とした態度で言ってのけた支配人。やはりこいつとは相容れないなと、心底思う。

 物騒としか言いようのない会話を為す私たちとは相反し、『夢喰い』は呑気に欠伸をこぼしていた。まさか自分が狙われているなど、考えてもいないのだろう。その態度がまた、私の中で躊躇を生む。

 本当にあの幻想的な生き物を、我々は狩らねばならないのだろうか、と……。


「リリィ。私が奴の背後に回ろう。君は得意の魔法を適当にぶっ放してくれたまえ」


「了解しました。――ガレイス、危険なので下がっておいてくださいね」


 楽しげにスキップしながらどこへなりと姿を消した支配人を、バカを見るような目で見ていた私にリリィは言った。かと思えば、彼女は片足を、大きく一歩前に出す。


「ふふふっ、ここで会ったが百年目! 夢喰いよ! 早々にその夢私に差し出すが良い!!」


「いや、どこの悪役だ」


「先日見たアニメの悪役です! とりゃっ!!」


 律儀に答えを返してくれた彼女は、そのまま片手を前へ。気の抜けたかけ声と共に、凄まじい爆炎を『夢喰い』に向かって放つ。

 当然、突如として放たれたそれに、平和ボケしていた『夢喰い』が反応できるはずもない。ひどく驚いたと言いたげな顔になった『夢喰い』は、その美しい体躯を意図も容易く炎の中へ。完璧に呑み込まれたその姿にそっと合掌する私の前方、リリィが満足気な顔で腰に手を当て、言った。


「さて! 逃げますよ!」


「なんで」


 こいつの突拍子もない発言にはついていけない。

「さあ、走って走って!」と元気よく背を押してくるリリィに従い、とりあえず両の足を動かす。一体何から逃げるんだと、チラリと背後を振り返った私は、そこで浅はかとも言える己の行動を悔やんだ。


 焦げついた地面の上、『夢喰い』がいた。しかしその体は先程までの半透明で美しいものから一転、禍々しい赤色に染まり果てている。間違いない。激怒している。現代っ子的に言えば激おこ状態だ。

 ほぼ条件反射でリリィを小脇に抱えた私は、そのまま自分でも驚く程の速さで疾走。雄叫びをあげ突進してくる『夢喰い』から、全力で逃げ惑う。


「おお! ガレイス速いですね! 馬すら驚愕の速さだ!」


「言ってる場合か! はやくなんとかしろ!」


「私には無理ですかねー」


「ならなぜ怒らせた!?」


 こいつの行動は少々理解できん。

 目の前にあった岩を飛び越えながら、言葉を続ける。


「そもそも! こうなることを知っていたならば前もって言え! 心の準備とかあるだろう! 心の準備とか!」


「夢喰いはですねぇ、通常のままだと物理攻撃効かないんですよ。なので先にあの状態にしなければいけなくてですねぇ」


「今言うなこの戯けッ!!」


 この状況から脱することができたならば、こいつは必ずや叱り尽くしてやろう。心に決め、目の前にあった茂みから飛び出す。


「――っ!?」


 慌てて足を止め、絶句。


「……行き止まりですね」


 リリィが言う。目の前に聳え立つ岩壁を見上げて。

 なんてお約束な展開だ。青ざめる私は、徐々に近づいてくる巨大とも言える足音に一人慌てる。


 この状況、非常にまずい。このままでは壁にめり込みジ・エンド。情けない姿を晒したまま天界へと召されるかもしれない。


 想像して悲しくなる。なんて屈辱的な最期だろうか。

 嘆く私に、未だ抱えられたままのリリィは告げる。


「大丈夫ですよ、ガレイス。死ぬ時は皆一緒です」


 そんな言葉聞きたくない。

 顔を抑えて肩を落とした。


 近づいてきていた雄叫びが途切れたのは、私が肩を落として少しした頃だった。突如として聞こえなくなった足音に呆然としつつ、とりあえずと、抱えていたリリィを地面に下ろす。感謝と共に地に降り立った彼女は、そのまま恐れることなく茂みの方へ。鬱陶しい草木をかき分け、楽しげに片手をあげてそれを振る。


「支配人、大丈夫ですかー?」


「……は?」


 漏れた疑問。慌ててリリィのそばに寄った私は、彼女の見る方向に顔を向け、またもや絶句。倒れ伏した『夢喰い』の上で偉そうに煙管を吹かす男を見やり、たまらず両の目を擦った。


 何が起きた。何をした。


 混乱する私の腕を引き、リリィは支配人の元へ。完全に目を回した『夢喰い』を一瞥してから、支配人に向かい頭を下げる。


「助かりました。感謝します」


「愛しきリリィのためならばこれくらいわけはない。故に感謝など不要。そういうものは本当に必要な時に使うといい」


 フッと煙を吐き出した支配人は、『夢喰い』の上から飛び下り、リリィの傍へ。「後の始末は任せよう」と、彼女の腕からバスケットを奪い取る。


「さて、仕事も終わった。夜の泉の傍らで、楽しきピクニックと洒落込もうじゃあないか」


 どうしてこいつらはこうピクニックに拘るのだと内心悩む。が、まあしかし、この疲労が拭えるというのならばもうどうでもいい。

 半ば強制的に引きずられるまま、私は泉の辺へ。心癒される景色を堪能しながら、奇妙なピクニックに参加させられた。

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