第五話 迷える屍




「ねえ、ガレイス」


「私は知ってるわ」


「あなたはとてもステキな人よ」


「例え姿形が普通じゃなくとも」


「あなたの心は誰よりも美しい」


「大丈夫よ、ガレイス」


「きっといつか理解してもらえる」


「あなたの存在が認められる時がくる」


「いつか、必ず……」




 誰かの声が聞こえた気がした。

 とても懐かしい声だと思った。


 一体誰のものであったか──……。




 ふわりと意識が引き戻されるような、そんな感覚がした。一度だけ、大きく目を瞬けば、私の視界の中で淡い光がゆらりと揺らめく。


 ココはドコだろう。なぜ私はココにいるのだろう。

 呆然と立ちすくみ、考える。


 私は今まで、一体何をしていた……?


「いらっしゃいませ、お客様」


 悩む思考を中断するように、接客用語が発される。聞き覚えのある声に思わず肩を揺らせば、私の前方で、つい先ほど別れたはずの少女が、ふわりと柔らかに微笑んだ。


「昨日ぶりですね。昨夜は良い夢を見れましたか?」


「……は?」


 昨日?一体何を言っているのだ?


 ポカンと間抜け面でたたずむ私の様子に何かを察したのか、少女はカウンターの中でしゃがみ込む。


 ゴソゴソ ゴソゴソ


 物をどかすような音が聞こえる。どうやら彼女は、あの中で何かを探しているようだ。


「ああ、あったあった」


 暫くして立ち上がった少女の手の中には、真四角の、やけに古びた時計が収まっていた。時計には日付と曜日、時間などが細かく記されており、それを見た私はたまらず目を見開く。


「5月7日……」


 時計内の文字は、確かにそう示していた。

 昨日の日付は、私の曖昧な記憶が正しければ確か5月6日。いつの間にか1日が過ぎ去ってしまっていたようだ。


 呆然としながら数秒停止。それからふと、少女の格好に目を向ける。


 少女は今、紺色の着物に身を包んでいた。白い筆でサッと描かれた、波のような柄が美しい着物だ。

 私はついつい、その着物を凝視する。


「……ワンピース、じゃない?」


 呟いた一言は、困惑の色に染まっていた。私の呟きに対し、少女はキョトンと目を瞬く。


「今日はずっとこれですよ?」


 着物の裾をちょこっと摘まみ、彼女は続けた。


「なんだか気分的に和が恋しくなりまして……着物は綺麗なんですが、動きにくいのが難ですよね。その分ワンピースなどは動きやすくて助かります。よ、っと」


 その場でくるりと一回転。


「似合いますか?」と微笑む少女に、一度だけ静かに頷いておく。


「ふふっ、ありがとうございます」


 優雅に一礼。

 艶やかな黒髪をサラリと揺らしながら、「さてと」と彼女は顔を上げた。


「──迷い人たるお客様。あなたに夢はありますか?」


 夢?夢とは、なんだ……?

 両の目を大きく瞬く。


 例の麻薬もどきのことか?それともまた別の何かのことなのか?


 私の中の何かを見透かすような少女の視線。それを受け、その視線から逃れるように、私は一歩、二歩、後退した後に床を見る。


 問われた言葉に対し、私もまた何らかの言葉を返さなければいけない。だというのに、私の中で生まれるのは『夢』に対する疑問だけ。まともな回答は、残念ながら何一つ浮かんでこない。


「お客様は迷っていらっしゃいます。己を見失いかけていると言っても過言ではありません。このままでは永遠に、長く暗い道を、ただひたすら歩くだけの屍となってしまいます」


 屍とはまた恐ろしい表現をするものだ。たまらず嫌悪を表す私に、少女はこてんと小首を傾げる。


「屍が、恐ろしい表現?」


 少女の紡ぎ出した言葉に、肌が栗立つのを感じた。

 私は今、何も言っていないはずだ。なのになぜ、この少女は私の考えていたことを、さも当たり前のように理解しているのか……。


「不思議なことを仰るのですね、お客様」


 混乱、焦り、恐怖。

 少女に対する様々な感情が重なり合い、私に警告する。


 この場から今すぐ逃げろ、と。

 このままでは知ってしまうぞ、と。


「――お客様は既に、屍ではございませんか」


 知ることを恐れフタをした、現実を……。




 ――ガレイスという男は奇妙な男であった。


 人間の成人男性とそう大差ない体つきをしている彼は、頭部だけが鳥の頭の奇怪な人間。


 なぜそのような姿で生まれ落ちたのか。なぜ頭部だけが鳥なのか。

 その理由は残念ながら解明されてはおらず、ただ不可解な現象として片付けられた。


 そんな彼はもちろん、世間から冷たい目を向けられていた。当然といえば当然だ。その容姿はあまりにも人間とは似つかわしくないもので、受け入れろという方が無理難題に等しい。


「やーい! 鳥頭! 鳥頭!」


「鳥のお化けめ! あっちいけ!」


 ガレイスは周りから煙たがられ、徐々に、徐々に、その身を孤独にしていった。ガレイスはその孤独を甘んじて受け入れた。拒絶する理由はどこにもなかった。


 一人でいる時間だけが、彼の心を穏やかにしていった。人と触れ合わない、接さない自分こそ、自分なのだと信じて疑わなかった。


 仕方がない。仕方のないことなのだ。

 これはこのような姿で産まれた自分の性。逃れることなど不可能なことなのだ。


 そんなガレイスの後ろ向きな考えは、大人になるまで続いた。大人になった彼は、孤独をものともしない心を持っていた。

 他者から何を言われても気にせずにいられた。冷たい視線を受けようが、言葉のない暴力を受けようが、全て鼻で笑うことができた。

 幼い頃より育んだ、自分の、自分だけの、自分を守るための『常識』が、ガレイスという存在を生かし続けたのだ。


 しかし、しかしだ。

 それはある日のことであった。

 彼の歪に固まった、彼の間違った『常識』というものを、壊す存在が現れた。


「――アナタは悪くないわ、ガレイス」


 その一言は、彼にとって実に衝撃的であった。


「アナタは普通の人間よ。優しい人よ。周りの人も、いつかそれに気づいてくれる。だからお願い、アナタがアナタを殺さないで……」


 破壊者は言った。ガレイスという存在は悪くないのだと。

 破壊者は願った。ガレイスは、ガレイスのままで、自分自身を殺さず、ただ普通に生きてほしいのだと……。


「普通? 普通だと?」


「ええ、そう。普通に生きるの。アナタはアナタのままでいい。アナタがアナタを殺す必要なんてどこにもないの」


「……馬鹿げたことを言うものだ。そんなこと――」


 無理に決まっている。それは考えずともわかることだ。しかし破壊者は諦めなかった。彼女はガレイスの冷えた手を取り、告げたのだ。


「ガレイス。私はアナタが好きよ」


 穏やかに微笑む彼女の紡ぐ言葉に、嘘偽りは欠片もない。


「優しくて、頼りがいがあって、臆病で、ちょっと世間知らずで……」


 優しい手つきで、破壊者は彼の頭を撫でた。黒い羽毛で覆われた頭を、そっと、丁寧に。


「人間ではないと言いながらも、人間らしいアナタが好き。私はアナタが好きよ、ガレイス」


 紡がれた言葉に、思うことは無かった。そのセリフに感動し、涙を流すことすらできなかった。

 ただ漏れたのは渇いた笑い。それだけだった。

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