第15話 夕日
「ちょっと外に出ないか」
「うん」
今日はちょっと遅れて夕方にやって来た少女を、館長が絵本美術館からほど近い湖の湖畔に誘った。
二人が湖畔までやって来て、そこに立つと、丁度、真っ赤な夕日が湖面に輝きながら、ゆっくりとその向こうの山々に悠々と下りていくところだった。
「わあ、きれい」
少女が目を輝かせる。
「ここは死んだ妻との思い出の場所なんだ」
館長が言った。
「そうだったの」
少女が館長を見る。
「時間がある時は、二人でいつもここに来て、夕日を眺めたよ。冬にはこの湖にはたくさんの渡り鳥がやってくるんだ。それにパンくずをやったりね」
館長は懐かしそうに、夕日の映る湖面を見つめた。
「わたしたちには子どもが出来なかった」
館長が湖面を見つめながら言った。
「だから、近所の子どや地域の子どもたちのために、たくさんの絵本を世界中から集めて、見せてあげようとした」
「それがあの博物館なのね」
少女が館長を見上げる。
「うん」
館長が、いつものように少し体をかしげて少女を見下ろす。
「そういえば・・」
そこで、館長が何かを思い出したみたいに言った。
「そういえば?」
「そういえば、妻がなくなる時、妻が最後にどうしてもこの場所で夕日が見たいと言っていた」
「見れたの?」
「いや、その時にはもう、妻の体は完全に病魔に侵されていた・・、だから、病室から出ることはできなかった・・」
その時、館長の目から、突然、一筋涙が流れ落ちた。
「どうしたの?」
心配そうに少女は館長の顔を覗き込むように見上げた。
「今、思い出したよ」
「何を?」
「完全に忘れていたよ。そうだ、妻は最後にこれを見たいと言っていたんだ。どうしてこんな大事なことを忘れていたんだろう」
館長は涙に濡れた目で、目の前の大きな真っ赤に燃える夕日を見つめた。
「なんでもない毎日の出来事だった。毎日、ここに来て水鳥たちにパンくずをやったり、夕日を眺めたり、湖面の移り変わりを眺めたり。それは本当に何でもないことだった・・」
館長は夕日を見つめ続けていた。
「・・・」
少女も同じように見つめた。夕日は雄大なその姿を二人の前にたたえていた。
「でも、それがとても大切な時間だったんだ。そのことに今気づいたよ」
館長は真っ赤な夕日を見つめ、涙を流す。
「そう、妻はこの景色を最後に見たいと言っていたんだ・・」
館長は呟くように言った。少女は、そんな館長を見上げる。
「妻は、自分の子どもがいなかったってこともあってボランティアで障害者施設や孤児院なんかに行って、そこにいる子どもたちに絵本や紙芝居なんかを読んで聞かせてあげたりしていたんだよ」
館長が少女を見下ろす。
「私たちは決して裕福ではなかった。生活にゆとりがあるわけでもなかった。だけど、でも、お金より大事なものがある。そう思って、そういう時間を大切にしてきた」
館長はもう一度、夕日を見つめた。
「幸せだったよ。今はっきりと言える。妻とのそんな時間が幸せだった」
「・・・」
「私は本当に素晴らしい人と一緒に暮らしていたんだな」
館長は、しみじみと言った。
だが、そこで急に館長の表情が曇った。
「どうしたの?」
少女がそんな館長の顔を覗き見る。
「ふと思い出してしまってね」
「何を?」
「妻の最後の日の前日だった・・」
館長は辛いことを絞り出すように語り出した。
「妻とつまらないことで喧嘩をしてしまったんだ。本当につまらないことだった。思い出せないくらいくだらないことだったよ」
「・・・」
「私はその夜お酒を飲んでしまった。飲まずにはいられなかったんだ。いろんなことが・・、いろんなことがいっぺんにやって来て、私はもう限界だった。妻を失ってしまう・・、それは私にとってとても辛い事だった。耐えられないことだった・・」
「・・・」
「私たちはいつも一緒だった・・。どんな時もいつも一緒だったんだ」
「・・・」
少女は黙って館長の話を聞いていた。
「私たちには子どもがいなかった。だから、ずっと私たちは友だちのような、恋人のような仲のいい関係だった。大きなケンカもなくずっと仲がよかったんだ。だから、余計にお互いが必要以上に必要だった」
館長の肩が震え、再び涙が溢れ出した。
「おじいさん」
少女はそんな館長を見上げた。
「次の日、私は昼頃起きた。いつもは朝早く起きて、誰よりも早く病院に行くか、病院に泊まり込んでいたんだ。でも、その日は昼に目が覚めた・・」
「・・・」
「病院に行くと妻は死んでいた。様態が急変してね」
そこで館長は膝に手をつき、立っていられないというように、その場にうなだれた。
「私は彼女を一人で逝かせてしまった。私は・・、私は・・」
館長は大粒の涙をポロポロと落とした。
「おじいさん」
少女はそんな館長をなんとかしてなぐさめようと、その小さい体でおじいさんを抱きしめた。
「私は・・」
館長は顔をくしゃくしゃにして泣いた。
「おじいさん、泣かないで」
少女はそんな館長の体を、小さな体で必死に包みこんだ。
「私は・・」
「おじいさんは悪くないわ」
「ありがとう・・、でも・・」
「おじいさんは悪くない」
「うん・・」
「おじいさんは悪くない」
「うん」
館長は泣いた。少女は館長をしっかりと、その足にしがみつくようにして抱きしめた。
「ありがとう。もう大丈夫だよ」
ひとしきり泣くと、館長は顔を上げ、隣りの少女を見た。
「今日は君を励ますつもりだったんだが、なんだか私の方が励まされてしまったね」
館長は照れ笑いを浮かべながら少女を見た。少女はにっこりとそんな館長を見返す。
「私が子どもの頃は、この湖はものすごくきれいだったんだ。透き通るように透明で、今じゃ信じられないけど泳げたんだ」
気を取り直した館長が湖を見つめ言った。
「へぇ~そうだったの」
少女は驚く。湖の水は今では透明度を失い、アオコの浮いた濃い緑色をしていた。
「うん、本当に輝くようにきれいだった。夏場はいつも友だちと泳ぎに来ていたもんさ」
館長はとても懐かしそうに言った。
「この辺りは日本のスイスなんて呼ばれてたんだよ」
「スイス?」
少女が館長を見上げる。
「そういう国があって、そこは自然がとても美しいんだ」
「へぇ~」
「今じゃ信じられないけどね」
館長は、遠い昔を懐かしむように、もう薄暗くなり始めた湖の湖面を見つめた。
「不思議だな。君とここにいると、色んな事を思い出すよ。本当に不思議だ」
館長が湖を見つめながら、感慨深く言った。
その時、二人の頭上高く、大きな光が夜空一面に広がった。
「わあっ」
少女がその光を見上げ、感嘆の声を上げる。それは花火だった。
「すご~い」
少女が叫ぶように言う。
「すごいね。しかし、なぜ、花火が・・」
館長が首をかしげる。
「あっ、そうか。お盆には花火大会があったんだったな」
館長が手を打つ。二人の頭上に次々と、巨大な光の玉がはじけていく。
「花火大会の試し打ちだよ」
館長が言った。
「わあ、きれい」
「ここは特等席だったな」
「うん」
二人は湖上に浮かぶ、大きな光の花を見つめた。
「そうだ、花火大会の日はうちにおいで。ここからでも見られるし、うちの二階からでも見られるし」
「ほんと」
「ああ」
「楽しみだわ」
少女が笑顔で言った。
「お父さんもつれて来ればいい」
「うん」
少女は本当にうれしそうに大きくうなずいた。
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