第6話 原爆の図

「・・・」

 そこには果てしなく無数の人人人が、苦しみ呻きながらどこまでも連なっていた。その苦しみはどこまでも深く、広大だった。

 二人は横へ横へと続くその屏風絵を見ながら、館内の奥へとゆっくりと歩いて行く。

 どこまで行っても苦しむ人人人。それは、人の苦しみの渦が、逆巻きうねり、ねじれ、立ち上がり、ありとあらゆる悶えの中で、さらなる苦しみの連鎖に狂っていた。

「この絵は、広島に落とされた原爆で焼かれた人々を描いた絵なんだよ」

 館長が少女に言った。

「原爆?」

 少女が館長を見上げる。

「そう、原子力爆弾。そういうすごい爆弾をアメリカが作って、昔戦争の時に広島と長崎に落としたんだ」

「・・・」

「その時、たくさんの人が亡くなったんだよ。とてもたくさんの人たちがね」

 館長はそう言って改めて絵を見つめた。その絵の中には、館長がそこから改めて説明するまでもなく、その原爆の凄まじさがありありと迫って来ていた。

「・・・」

 少女は食い入るように一つ一つ、何一つとして見逃すまいと、その大きなかわいい目をさらに大きくして絵を見つめていった。

 

「・・・」

 絵を見終わった二人は、しばらく放心したようにその場に立ち尽くしていた。言葉にしたい思いはあるけれど、それを言葉にすることが出来なかった。言葉にするにはそれはあまりにも現実を超える現実だった。

「ようこそ、いらっしゃいました」

 その時、奥から一人の男の人が出て来た。色白の顔に丸めがねをのせ、長髪を後ろで束ねた、青年のような男の人だった。男性はほっそりとしたシャツを一番上のボタンまで几帳面に止め、物腰やわらかく二人を見つめた。

「私はここの館長をしている者です」

 丸メガネの館長はそう言って微笑んだ。

「よろしければ、お茶でもいかがですか」

 丸メガネの館長が館長を見ると、館長が少女を見た。少女は頷いた。

「じゃあ、よばれようかな」

「では、どうぞこちらへ」

 丸めがねの館長が、丁寧に手を指し示し、二人を館内奥の中庭に案内した。中庭は、小さくはあったが、樹木と敷き詰められた玉石がバランスよく配置され、ぽっかりと空いた天井からは、うまく光が差し込み、何とも心地よい空間になっていた。その真ん中には赤い布を敷いた長椅子とパラソルのようなバカでかい和傘の日よけが立っていた。

「こちらにお座りください」

 二人がその長椅子に座って、その感じのよい中庭を眺めていると、丸めがねの館長がお茶とお菓子の乗ったお盆を持ってやってきた。

「どうぞ」

「やあ、これはこれは。ありがとう」

 館長が受け取る。それは温かい緑茶と、あんこのたっぷり乗った草団子だった。

「おいしい」

 さっそく少女が草団子を頬張った。

「この草団子は、この近くのお寺の名物なんです」

「へぇ~、お寺で作っているのか」

 館長が草団子を眺めながら、感心する。

「ええ、ヨモギも全部この辺で摘んだものなんです。江戸時代からの歴史があるそうですよ」

「へぇ~、そうなのか。それじゃ私も。どれどれ」

 館長も草団子を一つ楊子に刺し、口に入れた。

「おお、こりゃ確かにうまい。ヨモギの味が新鮮で際立っている。香りもいいね」

「そうなんです。市販の草団子では味わえない味です」

 そう言って丸めがねの館長も草団子を一つ口に入れた。

「しかし、ここの絵はすごいね。噂には聞いていたんだが、噂以上の迫力だったよ」

 館長が丸メガネの館長に言った。

「ええ、皆さんそうおっしゃいます。この絵の作者は、実際に原爆の落とされた惨状を生き抜いてきた方ですからね」

「そう、実際に被爆を経験した人の絵なんだよね」

「ええ、彼はたまたまコンクリートの壁のそばにいて助かったのです。その後、破壊された町を彷徨いながら、この地獄のような世界を見たのです」

「・・・」

 館長と少女は、あの絵の中の光景が、目の前に現実としてある状況を思い浮かべて、とても怖くなった。

「焼けただれた血肉を引きずった人たちの苦しみの中を、何もできない自分を呪いながら、彷徨ったそうです」

「・・・」

「彼は原爆の爆発したその一瞬ですべてを失った。家族、家、故郷、そして、自らの健康も。彼は、戦後、原爆症に侵されながら、放射能にむしばまれていく体で、必死にこの絵を描いていきました。最後のその死ぬ瞬間まで、布団に寝ながら這い蹲るようにして描き続けていたと言われています。面倒を見ていた方のお話しでは、その描く姿は、正に鬼のようだったと言われています」

「・・・」

 二人はその姿を思い浮かべ、言葉もなかった。

「人の感情を超えてしまった。一瞬で、これまで何万年もかけて培ってきた人の感情を超えてしまった。人の表現する力、人の感受する力を越えてしまった。この惨劇は。だから・・」

 青年はたんたんと語っているがその目の奥には、熱い感情が煮えたぎっているのが分かった。

「しかし、彼は見たのです。見てしまったのです。その地獄のような世界を。いや、それは地獄以上の地獄そのものだったのかもしれません。それを何とか表現しようとした」

「本当にすごい絵だよ」

 館長が言った。

「うん」

 少女が同調するようにうなずく。

「でも、ある日、同じようにこの絵をすごいと言った方がいました。その時、彼は言っていたそうです。こんなもんじゃなかったと。実際の惨状はこんなもんじゃなかったと・・」

「・・・」

「そう言っていたそうです・・」

 丸メガネの館長は、少し寂しそうに視線を下げた。

「私の母も被爆者なんです」

「えっ」

 二人は驚く。

「母も運よく生き残ったのですが、戦後様々な健康障害に悩まされ、苦しみ、そして、結局、最後はガンに侵され、五十代の若さで死んでしまいました。私は被ばく二世なのです。私も健康そうに見えるかもしれませんが、生まれつき体が弱く、様々な体調不良に悩まされています」

「そうだったのか」

 館長が呟くように言う。

「原爆の被害はまだ続いています。終わってなんかいません」

「・・・」

「私はそれを伝えたいのです。原爆の本当の恐ろしさを。それはあまりに大き過ぎて難しいのは分かっています。でも、欠片でも伝えたいのです。この爆弾の恐ろしさを」

「そうですか。それでこの美術館を」

「はい」


 二人は丸メガネの館長に見送られ美術館を後にした。

「やっぱり、子供にはどうだったかな」

 館長は、少女を見下ろしながら心配そうに言った。

「私、この絵が見れてよかったと思うわ」

 少女は気持ちを込め、はっきりと言った。そして、少女は館長をにこりと見上げた。

「そうか」

「うん」

 二人はまた白い軽バンに乗り込むと、家へと向かって走り出した。

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