242.風
「東北クレシェントムーンズ、選手の交代をお知らせ致します。ピッチャー、涌谷に代わりまして高橋。ピッチャー、高橋。背番号53」
7月28日金曜日、ビジターでの千葉フライヤーズ3連戦の初戦。8回の裏、ムーンズ1点リードの2アウトランナー3塁という場面で高橋の名前が呼ばれる。
——うおっ、何だこの風! 19メートル!?
遠くの台風の影響で風が強くなるだろうとは聞いていたけれど、まさかここまでの強さだとは思わなかった。幕張の海近くにあるこの球場は元々風が強いことで有名ではあるのだが、それでもここまでの強風が吹き荒れるのは稀である。
——うわ、これ投げにくい! やばっ、これバランス崩す……
マウンド付近は基本的に遮る物が何も無いから、モロに強風を受けることになる。環境に対応していつでもどこでも自分のプレーが出来る様にしておくのがプロだとはいえ、流石に10メートルを超える様な強風だと立っているだけでも煽られる。煽られてバランスを崩してしまっては、どれだけコントロールが良いピッチャーだろうと狙ったところには投げられないだろう。
——今日は投げるのちょっと辛いかも……
規定の投球練習を終えると、左打席に安井が入る。この回既に1点を取っているフライヤーズは押せ押せムードになっているし、終盤のこのタイミングで追いつかれてしまうと試合の流れが向こうに行ってしまう。
マスクを被る水谷が出してきたサインはストレート、外角に外れるボール。チャンスの場面、しかもピッチャーの代わり端。初球から簡単にストライクを取りに行けば痛い目を見ると踏んでのことだろう。それに頷いた高橋は、左足をプレートの端に掛ける。
——風強っ……
なるべく風の影響を受けないように風が弱まる瞬間を狙って投球モーションに入りたいのだが、なかなかそのタイミングが掴めない。
——くっそ、しょうがねぇ……
セットポジションに入った状態で12秒以上静止すると、ボークを宣告される可能性がある。ボークを宣告されると自動的にランナーは一つ先の塁への進塁権が与えられる。ランナーが3塁に居る状況でボークを取られれば、即失点である。諦めて、高橋は足を小さめに上げる。
——投げ辛っ……!
「ボール!」
外に構えられた水谷のミットよりさらに外側に外れるボール球になった。投げる拍子に飛ばされた帽子を拾い上げてから、水谷の返球を受け取る。
——どうしよ……
落ち着こうと拾い上げたロジンの粉が、風で三塁側にふわりと流される。
——こりゃ、乱打戦になるわな……
これだけ投げにくい状況ではコントロールは乱れてどうしてもカウントは悪くなるし、フォアボールも増える。それだけ打者有利なカウントになることも増えるのだから、点の取り合いになるのは当然の流れである。
二球目のサインはスクリュー、水谷は真ん中にミットを構える。次はストライクのしたい、ということだろう。そのサインに頷いて、高橋は再びセットポジションに入る。そこから小さく足を上げ、クイックで思いっきり腕を振る。
真ん中よりやや内側低めを突こうかという軌道で放たれたボールが、左打席で構える安井の膝元から、ギュイっと内側に曲がり落ちて、安井のつま先を掠める。
「デッドボール!」
——あ、やば……!
すいません、と帽子を取って謝る高橋に、安井は痛がる素振りも見せずに右手を挙げてそれに応じる。
これで2アウトランナー1、3塁。3塁ランナーが返れば同点、1塁ランナーが返れば逆転という大ピンチ。
「6番、レフト、丸中。背番号3」
左打者が続く場面だから、ここで代えられることは無い。この次は右バッターだから、恐らくこのバッターを打ち取れなければ交代だろう。
——それにしても、あんな曲がるか?
さっきのデッドボールになったスクリューは思ったよりも、というか今まで見たことの無いくらいに大きく変化した。風のせいであんなに曲がるとは思えないけれど、それでもある程度は影響があるのだろう。
丸中が打席に入るのを待って、高橋はセットポジションに入る。出されたのはスライダー、外に逃げてストライクからボールになる球。四死球直後の初球は狙い目、ということがあるから打ちに来ると踏んで、空振りを取ろうということらしい。サインに小さく頷いて、一度2人のランナーを目で牽制しておいてからセットポジションに入る。
——頼む、いつも通り曲がってくれよ……!
クイックモーションから、クロスステップで踏み出す。
——!
地面に右足が着いた瞬間、ビュオッと横から強風が吹く。
——くっ……!
真正面から風を受けてバランスを崩した高橋は、必死に踏ん張って何とか左腕を振り抜く。
——ヤバっ、真ん中に……!
狙ったところより内側に抜け気味に入ったボールは、ツツツッと外側に滑り曲がっていく。
カツンッ!
丸中が上手くバットの芯に当てたゴロが、高橋の足元を襲う。咄嗟に高橋は右手を伸ばし、
「オーライッ!」
ショートを守る尾木の大きな声に、高橋は伸ばしかけたグラブを引っ込める。マウンドに当たってバウンドが変わったゴロを尾木はすくい上げるように上手くグラブに収め、そのままセカンドベースを踏む。
「アウト!」
「よっしゃあ!」
アウトのコールを聞いて、高橋はガッツポーズと共に雄叫びを上げる。
「ナイスピッチング!」
「ナイスプレー!」
指さしで声を掛けてきた尾木を、高橋はハイタッチで出迎えた。
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