91.ファン
「あ、あの、高橋選手、サイン下さい!」
居残りでのブルペン投球を終え、ストレッチと軽いマッサージをしてもらってからホテルに戻るバン乗り込もうとした時だった。球場の正面玄関に横付けされているバンの向こう側から声が聞こえた。
——誰だ?
全体練習はとっくに終わっていて、大半の選手やコーチ陣は先にバスでホテルに戻っている。残っているのは居残り練習をしていた選手数名と、それに付き合っていたほんの一部のコーチ・スタッフだけである。
——ファンならもう帰っちゃってるはず……。
ムーンズのキャップ、レプリカユニフォームを身に着けた男の人が立っていた。歳は20代後半から30代前半といったところだろうか、自分よりも少し上に見える。
「高橋投手! サイン下さい!」
右手にはマジックペンを持ち、真新しいレプリカユニフォームを抱えている。
——え? お、俺……?
慌てて辺りを見まわしたものの、当然誰かがいるはずもなく。というかそもそも、「高橋」姓の選手はムーンズには一人しかいない訳で。狼狽えながら近付くと、持っていたペンとユニフォームを突き出してきた。
「あ、あの、サインお願いします!」
ユニフォームの中には色紙か何かが挟み込んであって、ちゃんと書きやすい様に工夫してくれている。
「え、あの、これ本当に俺が書いちゃって良いんですか? このマーカー油性だし、書いちゃったらもう消せないっすよ……?」
「いやいや、高橋投手に書いて欲しいんです!」
そういってごそごそとレプリカユニフォームの中から色紙を取り出してからユニフォームの中をバサッと広げる。広げられたユニフォームの背中には、大きな53、そして「TAKAHASHI」のネームが。
——!
驚きで言葉が出ない。まさか自分のユニフォームを買ってくれた人がいるだなんて思っていなかったし、まして自分の為に出待ちしている人がいるだなんて。
「去年、琉球ネイチャーズとムーンズのファームとの試合、僕スタンドで見てました! あの時から、良いピッチャーいるなって思って気にしてたんですけど、まさかムーンズに入るなんて!」
「じゃあ、え、うぇ、まさか俺のこと待ってたんですか? きょ、この時間まで?」
なんかもうテンパっちゃって、噛みまくり。まだほとんどムーンズでは試合に出ていないし、ネイチャーズ時代を知っている人に会うなんて思ってもみないことだったのだから無理もない。こちらの問いかけに笑顔で頷く、恐らく初めてのファンからペンを受け取って、もう一度色紙を挟み込んでくれた背番号53のレプリカユニフォームにサラサラサラっとペンを走らせる。
——あれ? こういう時って、どんな感じで書けば良いんだ……? これで良いのか、な……?
サインを求められることなんか今までほとんど無かったし、珍しく書く時は色紙やサイン用のボールに書いていたから、どの位の大きさで書いたら良いのか分からない。それに、下に書きやすい様に色紙を入れてくれているとはいえ、布地にサインしたことも無いからどうすれば滲まない様に書けるかも分からない。とりあえず、勘で何となくそれっぽく見える大きさで書いてみた。
「え、えーと、こ、こんな感じで……?」
恐る恐る、サインを書いたレプリカユニフォームを手渡す。それを受け取ったファンの男性の顔が一気にほころぶ。
「わー、ありがとうございます! 大事にします! あ、えと、あの、今年は球場にも応援行きますんで! 頑張って下さい!」
「え、あ、あっと、あの、あ、ありごとう、ございます……、が、頑張ります」
どうすれば良いのか分からず戸惑いはあったけれど、それ以上に何かこみ上げてくる嬉しさがあって、自然と『ありがとう』、という単語が出てきた。噛み噛みだったけれど。
——こんな俺にも、赤の他人なのに応援してくれるファンがいるんだなぁ……。
傍から見れば目立たない存在なのだろうけど、ちゃんと見てくれる人はいる。そして何の関係がある訳ではないのに、応援してくれる人がいる。
少し肌寒いはずの風が、やけに心地よく感じた。
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